NHKの5分くらいのミニ番組で、
「もういちど、日本」というのがあります。
「もういちど、日本」というのがあります。
「新日本風土記」という番組の関連番組なんですが、
日本各地の、いろいろな風土や生活様式なんかを、
紹介しているものです。
私はこの番組が大好きで、
一人暮らしをしていた時に、自動で録画しておいて、
洗濯物たたむ時なんかにちょこちょこ観ていました。
で、観たらすぐ消しちゃっていたので録画残っておらず、
NHKのサイトで少し調べても見つけ損ねたのですが、
すごく心に残っているエピソードがあります。
どこか山間の集落で、外に対しても開かれておらず、
人口も日照も水源も、いろいろ制限があるような土地で、
今も、「水やりさん」という役割の人がいる、というお話でした。
この集落では、川から水を引いてきて
水田や畑を作ることを生業としているわけですが、
その水が、すべての家に平等にいきわたるように、
用水路の弁なんかを使って水の流れを調整するのが、
水やりさんの仕事です。
水やりさんは、「水が平等にいきわたっているかどうか」を確認するために、
日々、田んぼや畑を見て回って、水不足で育ちが悪いところがあれば、
そこに水が多く流れるように調整をします。
この水やりさんは、集落の信頼で任命されているとのことで、
この信頼を裏切ることがないよう、責任をもって仕事をしています。
これね、これこそが「政治」の原点だと、私は思います。
山間の集落で、外部との交流も少なく、
この集落という共同体だけが生命の場である、
という状況だったのだろうと思います。
その閉鎖的な空間で、過去に何かがあったのか、
あるいは、もともと賢く心優しい人々の多い地域だったのかは
わかりませんが、
どこかの段階で、力が強く、川の近くに住んでいる人だけが
豊かさを享受できる仕組みでは、
共同体が崩壊する、ということを理解したのでしょう。
洋の東西を問わず、過去の物語を読んでみると、
お金持ちと貧乏人がいる未熟な共同体で、
多くの悲劇が生じています。
お金持ちの家に生まれた若者が、貧しい家の娘に恋をした
(逆もまたしかり)、とか。
川の近くに住んでいる有力者だけが豊かでも、
他の弱者がどんどん倒れて行けば、
その共同体は衰退していきます。
金持ちの家1軒だけが残ったって、
配偶者が生まれる家がなくなれば一代で終わりだよねって話です。
長く続いている愚劣を極めた自民党政権の、
現総理である菅さんは、
「自助」とか言ってくれちゃってますけどね、
「自助」ってのは、この水やりさんが平等に各家に水を流してくれた後、
自分で畑や水田で作物を作ることを言うんです。
いくら水やりさんが水流してくれても、
理由もなく(体調とか家の事情とか)農作業サボったなら、
自分でもっとがんばらないとって話にもなるだろうけど、
そもそも金持ちの家が水源独占して、
農業に必要な水が足りなかったら、がんばっても作物出来ないでしょう。
それは「貧乏な人は自助が足りない」って話じゃないですよ。
ネットでよく言われる「自己責任」ですらないですよ。
付け足すなら、水が十分流れてきていても、
農作業ができない状態だった場合、
隣近所の人たちが、どうしたのか、病気なのかなんか事情があるのか、と
助け船を出すのが「共助」だと思いますよ。
言うまでもないことですが、
現在の社会での水は、お金です。
自助しようにも、生活して働くための最低限のお金がいきわたっていなければ、
どんだけ働いたって生活できませんよ。
人間は生き物なのだから、
なんかのはずみで病気になったり、
事故に合ってケガしたりすることはあるでしょう。
でも自転車操業で毎日ぎりぎりの生活しかできない状況だったら、
そういう時、崩壊するでしょ当たり前に。
私はこの人生でお金持ちだったためしがないので、
10年周期くらいで(笑)、
経済とかお金持ちマインド的なもの勉強したくなる時が来るんですけど(笑)
前回その周期が来た時に、何かで紹介されて
和田裕美さんの『幸せなお金持ちになる すごいお金。』という本を
読みましてね。
図書館で借りて読んだので、手元にないのですが、
ちょっとおもしろい表現があったのが印象に残っています。
この著者がお金持ちになる前に
ある世界的な大金持ちの方と仕事で接する機会があり、
その人から「お金持ちというもの」のエッセンスを学んだようです。
その大金持ちの方は代々お金持ちで、
本人はお金に執着がなく、着ているものとかもどうでもいいようです。
で、和田さんの観察眼なのですかね、
代々お金持ちで、いつもお金の流れの近くにて、
そのお金の流れを自分のところに引き込む術を知っている家系、
というような表現をされていましてね。
先の水やりさんの番組観たのと、
この本読んだのとどっちが先だったか忘れましたが、
あ~、同じ話の、同じ表現だなぁと思ったのです。
まぁ世界的な大金持ち、というのは、
共同体としての世界が大きすぎて、
全体のことが目に入らないんだろうなぁと思います。
で、水やりさんという仕組みを作った集落は、
共同体としては小さすぎるので、
1軒の家が水を独占したらどういう悲劇が起こるかを、
体験から学んでしまったのだろうなぁと思います。
和田さんの本だけ読むとね、
確かにお金の流れを動かす術を知っていて、
代々大金持ちで、
自分もお金に執着を持ったことがない(だから安物の服着ていても平気)、
みたいな生き方、ちょっと素敵かも、みたいな気持ちになりますけどね(笑)
お金持ちの家系に生まれた本人に悪意はなくても、
少なくとも、水やりさんの仕組みを作って現代まで維持した集落の方たちより、
はるかに未熟な精神性なんだなぁと感じます。
それは、このお金持ちの方だけでなく、
今の新自由主義全盛の世の中すべてに言えることですが。
以下の話は、直接お金に関することではありませんが、
共同体というものについて、
知人の行動から私が感じたことを一つ、お話ししたいと思います。
知人で一人、
小学生の娘さんを溺愛している男性がいましてね。
娘さんの弟にあたる息子さんもいるのですが、
息子さんとはあんまりご縁が深くないのか、
娘さんほどの愛情は抱いていない感じの人がいました。
すごく忙しくしている人なので、
家族に対しても十分に気を配ることができない部分もあるのかな、
とは思っていたのですが、
娘さんだけを連れて旅行に行ったりしていたのです。
で、複数の理由はあったのでしょうが
(奥さんに対してもかなりやらかしているのを、
数年前から感じていました)、
結局彼の家庭は壊れました。
彼が奥さんに追い出される形で、
単身で別居になったところまでは見ていました。
(その人は私に対しても相当やらかしたので、
私も関係性が途切れました。)
もう数年前のことなので、その後はわかりませんが。
私は彼の奥さんとは会ったこともないけど、
彼の言動から、いくつかのことは感じるところがありました。
彼は「無条件の愛」という表現をするほど娘さんを愛していて、
娘さんと自分の楽しく幸せな時間のことしか考えられなかった。
でも、奥さんからしてみれば、
娘さんも息子さんも、同じ大切な子供。
その息子さんから「どうしてお姉ちゃんだけお父さんと旅行に行けて、
僕は連れて行ってもらえないの?」と問われたら、
母親である奥さんは、どうしたらいいのでしょうね。
これが、「えこひいき」をしていはいけない理由ですよ。
愛しているのが娘だけであっても、
息子は娘の弟であり、妻は娘の母親です。
弟も、母親も、娘にとっては大切で必要な、愛する家族です。
たとえ、息子が娘ほどかわいくない、
妻への気持ちも冷めてしまった状態であったとしても、
娘にとって、父親だけでなく、母親も弟も幸せでなければ、
幸せではない。
それだけのことがわからなかった。
自分と娘との幸せな時間を維持するためにも、
娘の大切で必要な人である母親と弟も幸せでなければならない。
母親と弟が不幸であれば、娘との関係が引き裂かれるということが、
理解できなかった。
で、私は子供の頃から演劇をやっていて、
憑依型の役者だったので、
体験的にスピリチュアルにならざるを得なかったのですが、
スピリチュアル系の人が「世界平和」みたいなことを言うのって
(まぁ、なんちゃってスピリチュアルが山ほどいるのでアレですけどもね)、
別に頭の中がお花畑だからじゃなくて、
こういうのを体験せずとも理解しているからなんです。
自分と愛する人(もの)との「一番利己的で一番小さな幸せ」でさえ、
自分とその人(もの)以外とつながっていて、
そのつながっている先も幸せでないと、
維持できないんですよ。
彼の話で言えば、彼の望みは自分と娘の幸せだけなんだけど、
そのためには、最低限、娘の母親と弟も幸せでないといけない、みたいな。
で、母親と弟もまたそれぞれのつながりがあって、
じゃぁ食べるものは、住む場所は、お金(社会の経済状態)は、政治は…
という風に、「自分の小さな利己的な幸せ」が、周囲の幸せに依存していることを、
体験しなくても直感的にわかっている、ということ。
娘に対する愛情ほどではなくても、
「娘の大事な人だから」という理由からでも、
妻や息子に対して、愛情をもって大事にする必要があるということ。
「世界平和」って頭がお花畑の人が考える空想的な夢物語じゃなくて、
本当に利己的なものなんですよ。
みんなが幸せじゃないと、自分も幸せでなんかいられないということを、
肌感覚としてわかっている、ということなんです。
この知人であった男性に
私のスピリチュアル的な部分を全否定されたっていうのもあって、
こういう書き方になっちゃったかな、とは思いますけどね(笑)
もう一人、スピリチュアル全否定の人で、
私が考える「めんどくさいマン」、
「西のサイモン・コーウェル」に対して
「東の菅野完」をあげておきますが(笑)、
森友事件の時から菅野さんのツイッターずっと見ていました。
菅野さんのツイッター何度も何度も凍結になっていて、
当該のツイートを魚拓していなかったのですが、
菅野さんも、共同体の幸せを願うのはごくごく利己的な理由からしか発生しない、
という意味のことを書いていました。
(著述家で言葉にうるさい方なので、なんか表現の間違い指摘されたらどうしよう…。
私のこんなマイナーな編み物ブログなんか読むことはないとは思うけど。。)
いや、まぁ菅野完さんがスピリチュアル全否定するのは、
安倍昭恵さんみたいな「なんちゃってスピリチュアル」とか、
カルト化する新興宗教の危険性を危惧してのことで、
それは至極真っ当であるのだけどさ、
「スピリチュアル」って本来は「人として真っ当に生きる」以外のことではないので、
安倍昭恵さんとかカルト宗教をもって「スピリチュアル」全体を否定するのは、
私にとってはちょっといただけない(笑)
稲田朋美さんだの橋本徹さんだの吉村洋文さんだのをもって
「弁護士」全体を否定するようなものでしょ(笑)
宇都宮健児さんのような「弁護士」もいて、
宇都宮さんみたいな方のほうが「弁護士」として正しいんだからさ(笑)
むしろ、私は菅野完さんのこのツイートこそが、
スピリチュアルどまんなかだと思いますよ。
2017.5.3のツイートのようです。 感動のあまりその場で魚拓したので、 日付が表示されていませんが。 |
菅野完さんによって森友事件が世の中の注目を集め、
安倍政権を退陣に追い込める可能性が見えてきた、というタイミングのツイートです。
わが身の危険を顧みず、世の中の幸せのために巨悪に立ち向かう正義の徒が、
スピリチュアルでなくて何なのさ。
ちょっと長くなってしまいましたね。
菅野完さんのこととか、
なんちゃってスピリチュアルのこととか、
まだまだ書きたいことはあるのですが、
菅野完さんの「めんどくさいマン」っぷりだけ書いて、
いったん終わりにしましょう。
いやね、サイモン・コーウェルに劣らず
口が悪くて大そう露悪趣味な方なんですけども、
石垣のりこ参議院議員の初質問の前日には、
直前まで地元で立ち働いていたから準備が十分ではないのではないかと
心配してオタオタし(ご当人はものともせず、のりこ節がさく裂していたようですが)、
山本太郎さんが道を誤ったと言っては泣き、
もう、なんつーか、あっちこっち痒くなってかきむしりたくなるような
ツンデレっぷり。
「めんどくさいお人やな」ってこういう時に使う言葉なんでしょうね。