スペイン語圏の歌には、切ない、ロマンチックな、美しい旋律の名曲がたくさんある。
もちろん楽しい歌もたくさんあるんだけど、悲しい歌もすごく多い。
と、いう話を時折、ラテンアメリカ出身の音楽の先生とする。
先生によると、パーティーでさんざんお酒を飲んで楽しんで、
でもある時から「泣きたいから悲しい曲もかけて」というタイミングがあるそうな。
失恋したばかりの人が失恋を嘆く曲をかけて大泣きする、みたいな。
それをさして「切り傷にレモン汁をしぼるのが好き」というらしい。
(日本では「傷に塩を塗り込む」という表現があるけど、
本人が好んでやっているわけではないところが、ニュアンスの違いかな?)
一見マゾっぽいけど、でも、すごく大切な感情の浄化。
自分が悲しいことを認めて、悲しみをちゃんと感じて開放すること、すごく大事。
でないと心の病気になる。
うつ病という形じゃなくても、自分の心を麻痺させて
人間的な情愛のない生き方をしてしまったりする。
今の日本人の多くがそう。
ラテン人男性は「さみしいさみしいさみしい」と言ってよく失恋の歌を歌うなぁ、
と思うけど(女性ももちろん)、
一方で、今の日本人は「さみしい」ということを受け入れることができないでいるな、
と感じる。昔はそうではなかったのだけど。
今の日本人は「ネガティブなことはあってはならない」と思っていて、
それを認めようとしない。心の底に押し込めてしまう。
でもそれは、ある時大きなトラブルとなって暴発することがある。
個人的なことでは、うつ病、パニック障害、内臓疾患、仕事のトラブル、家族の崩壊など、
もっと大きなところでは社会の混乱。
この「自分が悪いわけでもないのに大切な愛がなくなってしまってさみしくて辛い」
という感情、
私は「生まれてきてしまったことへのさみしさ、悲しみ」だと思っていて。
お母さんのおなかの中にいれば、
いつも一緒でいつもあったかくていつも満たされていて安全で幸せだったのに、
生まれてきてしまったがために、
僕は「一人」になってしまって裸で寒くて息もしなきゃいけないし食べないといけない。
エデン追放の絶望とさみしさ。
もう安全ではない。おなかがすいたらその辺になっているおいしい果実をいつでも食べられるわけじゃなくて、食べるものを手に入れなければならない。寒さから身を護るために服を着なければならない。生きることそのものが戦いになってしまった。
どうして?
どうしてお母さんは僕を生んでしまったの?
そのことが受け入れられなくて怒りになり、「女が悪い」と言って攻撃しているのが
今の日本人男性(アジア文化圏はこの傾向強い)。
女性を奴隷化して自分の世話をさせることで、エデンの園を取り戻そうとしている。
子宮の中にいたときのような。
私はこれが、男女の闘争の根源だと思っている。
一方で、生まれてきたこと自体は受け入れたけど、
それでもまだお母さんと一体であったことから
「一人」になったさみしさを癒せていなくて、
それを恋愛に転嫁して「失恋のさみしさとして追体験して消化しようとしている」
のがラテン文化圏。
だから、冒頭のナウェル・ペニシなんか、
正直「あなたはそんな失恋していないでしょ」と思うけど
(失恋するには性格が良すぎる)、
切ない美しい旋律を神がかり的に歌う。
それは、恋愛によって人を傷つけた・傷つけられた経験の有無にかかわらず、
私たちがみんな、「あの大切な愛がなくなってしまって私はさみしくつらい」という、
漠然としたものを心の底にもっているから。
それは人間に限ったことじゃなくて、
自然界のドキュメンタリー番組なんかを見ていても、
オオカミとかライオンとか群れで育つ生き物の多くは、
成長するとオスが群れから追い出される。
それは近親交配をさけるための動物の本能。
メスは協力して子育てをするために群れに残るが、
成長したオスは追い出される。
昨日まで優しかったお母さんが、急に牙をむいてガーッと攻撃してきて、
成長したオスは「お母さんどうして、どうして」とうろたえて絶望して、
尻尾をたら~んとたらして、トボトボと群れを離れていく。
このさみしさ・絶望を、私たち個人一人一人の人生経験を超えたところで、
みんな共有している。
でも、生き物として生まれてきたことそれ自体は、
母親が悪いわけではないし、女が悪いわけでもない。
「生き物というのはそういうものだから」。
「生まれてくるということはそういうことだから」。
それを無自覚に「女が悪い」と言っているのが日本人男性はじめアジア文化圏だし、
生まれてきて一人になったことは受け入れたけど、でもまだ心底さみしいから、
「自分がさみしいのは失恋したからだ」と恋愛にたくして泣いているのがラテン文化圏。
もう一つ付け加えるなら、
冒頭で紹介した三曲目 Te Hubieras Ido Antes、
あれは弟や妹が生まれたときの上の子の感情。
あんなに甘くキスしてチヤホヤして俺を夢中にさせた女が、
もう愛していない、私が悪いわけじゃないと言って去っていく、
だったら俺がお前にすがりついてしまう前に、
もっと早くいなくなってくれたら良かったのに、という、
いかにも浮気な悪い女に騙されたかわいそうな俺を歌う歌なんだけど、
兄弟姉妹の上の子の多くは、この感情を母親との関係において経験する。
下の子が生まれて、お母さんは赤ちゃんの世話でいっぱいいっぱい。
ママのお膝は僕のものだったのに、今では赤ちゃんに占領されている。
「もうお兄ちゃんでしょ、お姉ちゃんでしょ、自分のこと自分でできるよね?」
なんて言われる。
そういう時、兄・姉となった子供は
「ママはもう僕のことがかわいくないの?」「私のことがかわいくないの?」
「『あなたが世界で一番大切、あなたは宝物よ』と言っていたのはうそだったの?」
と感じる。
それを言語化できないまま心に押し込めて、
思春期になって恋を知ると、その子供の頃の心の痛みが、
恋愛に対する不信感として再生される。
ぶっちゃけ、恋愛相手がいなくても、心の傷だけ再生される。
だから、浮気で悪い女、浮気で悪い男が量産される。
子供の頃の心の傷を癒したくてその痛みを追体験するために、
そういう自分を傷つける存在を必要とするから。
だから正直、ラテン人男性が日本人男性より
一段階心が成長していること自体は素晴らしいと思うけど、
本当は「自分が子供の頃に受けた心の傷を癒すために、
恋愛に投影して泣きたいだけなんだ」と自覚して
こういう歌を歌ってほしいなと思っていて。
「悪い女がいる」とか「悪い男がいる」とかじゃなくて、
それは「あなたが子供の頃に受けた心の傷だから」
「そもそもお母さんのおなかから生まれてきて一人になったことのさみしさだから」と。
余計な男女の闘争として持ち込まないでほしいんだよね、と。
そんな話を音楽の先生にした。
さらにもう一歩つっこんだところでは、
本当は魂が神と一体であったところから、
「個」として存在するようになったことへのさみしさ。
すべてとの一体から、「自己」として存在することになったさみしさ。
日本語では「神の分け御霊」という言葉がある。
スピリチュアルの文脈ではよく、
神を大海に、人間一人一人をその海水一滴に例える。
海水一滴一滴は、大海原とは似ても似つかないように感じるけど、
海水一滴一滴は大海原と同じものだよ、
あなたも私も、神の本質を心の中に持っているよ、という考え方。
だから神の本質を自分の本質として生きることを選べるよ、と。
でも、それでも、大海原から海水一滴になって生きる、と思ったときは、
怖かった。寂しかった。
なんて無防備なんだろう。なんて弱いんだろう。
怖くて怖くて仕方ない。
さみしくてさみしくて仕方ない。
私たちは、みんなそう。
自覚していようといまいと、私たちはみんなそう。
(と、いう話を鍼の先生にはした。)
そういうことを、社会全体が、知っていた方がいい。
それを知っているか知らないかで、
物事への対処の仕方が変わるから。
もう何年も前に、ネット広告でミソジニー男性が描いたマンガの宣伝が出てきて。
エルフっていうんでしょうか、耳がとがった妖精みたいな男性が
女性のみぞおちに抱き着いて目を閉じていて、女性が男性の頭を抱いている。
そして女性が「ごめんなさい、私他の人を好きなってしまったの」と言い、
男性は「『ずっと一緒だよ』って言っていたのに!」と言って鬼の形相になる、
という1ページだけ表示されたんだけど。
まぁ、おそらく、この鬼の形相になった主人公がその女性を惨殺し、
他の女性も殺していくとかいうようなストーリーなんだろうなと思った。
いやこれ、恋愛じゃなくて、
「お母さんのおなかの中にずっといたかったのに」っていう感情なんだけど、
わかってないのかな、と。
女性は、いつでも抱き着いて安心するために存在している「女体」じゃなくて、
悩みも希望ももって必死で生きている人間。
人間同士として向き合っていれば、以前のように会話が弾まない、
喜びに輝いている感じがしない、みたいなことはお互いに感じとるもの。
そして、愛し合っていたのに今は相手の心が離れてしまったこと、
その事実を受け入れてあなたを自由にしてあげるべきなのに、
私はまださみしくて苦しい、という歌は、万国共通。
グロリア・エステファンのような絶世の美女でさえ、
この感情を歌っている。
X(ツイッター)でも、
たびたびミソジニー男性が女性に攻撃的なポストをしている。
それを見た女性が「セッ〇スできるママがほしいんだよね」と言っていたりして、
女性の中には、彼らが何を言っているのかちゃんとわかっている人チラホラいる。
ただ、私はこういうのを見ること自体にもう嫌気がさしてしまって、
X(ツイッター)もほったらかしのアカウントが使えなくなったのを機に
使わなくなり、ネット自体も広告ブロッカー入れた。
「女が悪いから残虐な復讐をしてやる」的な方向に怒りを向けるのって、
地獄霊集まってきて大変なことになるからほんとやめた方がいいんだけど
(本当に犯罪者になったり、憎悪で疲弊して廃人になったりするので。
地獄霊にたかられると本人の歯止めが利かなくなるからほんと危ない)。
「生まれてきたこと自体が怖くて仕方がなくて、
そんな怖い思いをさせた『何か』に怒りを抱いている」
という状態だと認識して、
その恐怖を手放して生きる喜びを見出す、という方向の治療や教育を、
社会ができるようになる必要がある。
以前私が料理教室に通っていた時、
重度のうつ病の女性が来たことがありました。
私は自分がうつ病になった経験が何度もあったので、
すぐに「あの人、うつ病っぽいなぁ」と思ったけど、
ほかの生徒さんも先生もそういう経験がなかったようで、
なんとなく爪はじきにされていました。
先生からすると「来る」と言っていたのに来ないので経費精算ができない、
自己中心的な人ばかりのグループでは「自分から動かない変な人」みたいな。
そういうの遠目に見て「あれじゃぁあの人辛いよね」と思っていたのだけど、
ある時、同じグループになることがありました。
その日も彼女は大幅に遅れて来て、最後にデザートの飾りつけをするタイミングでした。
私は彼女に「こんな感じで盛り付けをしたいんです」と先生のお手本を見せて、
飾りつけをお願いしました。
そして傍で見守って「そうそう、そんな感じです、素敵!」と励ましました。
できたものを食べる時も「これおいしいですね」と他愛もないことを話しかけて。
私は自分がうつ病だった時に、
うつの重い時は判断力がなくなって、何をしたらいいのか全然わからなくなる、
ということを経験していたし、
行かなきゃと思っても体も心も動かなくて、
その時間に行けないということも経験していた。
彼女はおそらく、病院の先生に
「家に閉じこもっていないで料理教室でも行ってみたら」とか言われて、
必死で来ることにしたのだろう。
今日も、起き上がることも辛い自分を奮い立たせて薬飲んで、
お風呂に入って頭を洗って、一番良い服着て、
料理教室に行くために買った新しいバッグを持って、
必死で来たのだろう、と手に取るようにわかった。
その日のレッスンが終わってほとんどの人が帰った後で、
その曜日にいつも参加している心優しい方に
(私は本当は違う曜日の生徒で、振替でその日のクラスに参加していた)、
「あの方うつ病だと思うんですが、あっちのグループの人たち、
自分の事しか考えてないから辛くなっちゃったんだと思います。
うつ病なんて条件がそろえば誰だってなるのに。
お声がけしてやり方一つ一つお教えすればちゃんとできるので」と言って
サポートをお願いしました。
その方は私に「ご一緒できて光栄です」と応えました。
その方が謙虚で心優しい方だというのは知っていたのですが、
彼女は対処の仕方がわからなくて、ただなんとなく心を痛めていたのでしょう。
その時、料理教室のスタッフさんも近くにいて話を聞いていて、
料理教室としても対処を話し合ったようです。
後日、また私が振替でその曜日に参加すると、
まったく別のクラスの先生が通りすがりにやってきて
うつ病の彼女に「上手、上手」と声をかけ(その先生は高齢で一番厳しい先生(笑))、
彼女の経費精算のやり方も変更していました。
その後、その女性が私が本来参加している曜日に参加したりすることもありました。
彼女は、「来るといったのに来ない困った人」
「しゃべらないし自分で何にもしない嫌な人」と受け取られていました。
私は経験上、彼女がうつ病であることとその場での対処の仕方がわかり、
それを伝えることができました。
よっぽど悪意だけを持って生きている人でなければ、その事実を知るだけで、
「自分たちが、うつ病の人への対応の仕方を知らなかっただけだ」
ということを理解できます。
そしてすぐにうつ病の人への対応の仕方を身に着けることができなくても、
人生の先々で「あの時うまくできなかったけど、こうすればよかったんだな」と
学びなおすこともできます。
実際、その料理教室には軽度の知的障害の女性も参加していて、
そちらは先生方もスタッフさんもうまくサポートしているし、
少数の身勝手な生徒さんを除いて、参加者もサポートしながらうまくやっています。
こういう例のように、
他の人は知らなくても、経験者であればわかる対処法や治療法はあると思います。
私はミソジニー男性が女性に対する憎悪と加害欲求を募らせていることへの
対処法はわかりません。
でも、この世界に「自分も生まれてきたことが怖かった。何もかもが怖くて怖くて仕方がなかった。でも、それを乗り越えることができた」という人はいるはずです。
そういう人が「あ~、あの人たち、おびえて攻撃しているんだね」と理解して、
その恐怖を手放す方法を、彼らにわかるように教えてほしい。
「みんな、生まれて来て怖かったんだよ。あなたが怖いことはおかしなことじゃないよ。
でもあなたが怖いことは女性のせいじゃない(中国人・韓国人のせいでもない)。
少しずつでいいから、自分の怖さと向き合って、本当は怖がる必要はなかったんだと、
わかっていこうね」と、彼らが受け取れる形で、道を示してほしい。
私を含む世の中にも、
「おびえている彼らを安心させるための奴隷になる」のではないやり方で、
彼らが恐怖を手放し、人間関係を築けるようにするサポートの仕方を教えてほしい。
この世界に、すでにこれを経験して知っている誰かがいるはずだから。
私は、自分自身が一人で生まれてきたことへの怖れとさみしさを手放す途上です。
それが達成できるかもまだわからない。
でもたぶんできるだろうと思って、死を選ばずに生きている。
私の母は、私を奴隷にすることで自分の怖れから逃れようとしてきた人でした。
私を支配することができないとわかると度々逆上して奇行に走ったりしました。
私は母に対する対処がわからないし、
そのことで傷ついてきた自分の心を癒し
母に対する恨みを手放すこともまだできていません。
何よりも、肉親として血縁者として母を愛しているという
引き裂かれるような思いがあります。
今の私にできなくても、
この世界に、すでにそれを乗り越えている人はたくさんいるはず。
怖れから支配欲求に走り、世界のすべてを自分のものにしてしまおうとする人たちに
(ミソジニー男性や私の母のような庶民だけでなく、
自分一人で使い切れないほどのものをかき集める金持ちや政治家、組織の長なども)、
そういう怖れを手放して、人と人とのおだやかで優しい関係に安どして、
自分と家族が十分に暮らせる程度のもの以上は、必要ないね、と手放せる、
そういう心の在り方にたどり着く道を、
すでに知っている人は少なからずいるはずです。
そういう人たちに、教えてほしい。
どうしたらいいのかを。
おびえている人たちの怖れを取り除き、
自分もおびえている人たちの犠牲者にならないやり方を。
ちなみに、ネットで女性叩きをしている弱者男性は、
「理想の女性と結ばれさえすれば自分は幸せになれる」と信じているんだろうけど、
「怖れ」の破壊力を甘く見ちゃいかん。
NHKの朝ドラ『虎に翼』、各放送回のタイトルに
女性差別的なことわざが使われていましたが、
「七人の子は生すとも女に心許すな」というのがありました。
子供が7人も生まれるほど好ましいと思える女性と結婚することができ、
相手の女性も従属してくれたというのに、
ただ「一人で生まれてきたこと」「母親から引き離されたこと」に恐怖を感じ、
それが生き物がたどる道なのだと理解して自分を癒すこともせず、
その幼い頃の恐怖を「女は裏切るものだ」と投影して自分を守ろうとする。
七人も子供が生まれるほどの関係性を結べることがどれほど幸運なことか、
今孤独に苦しんでいる日本人は男女を問わずわかるでしょう。
(昔の日本人は今より子供多かったのはもちろんだけど。)
そんな幸運に恵まれたのに、ただ、自分の未熟な怖れのために、
心を開いて愛に飛び込むことができず、
愛の喜びにあふれた幸せな人生よりも、
自分を守るために「相手を支配する」ことを選ぶ。
愛によって自分が何もかも変わってしまうことも恐ろしいのでしょう。
(前に堀江貴文が「女は金だ」と言っていたのを何かで見ちゃったのですが、
自分が臆病で「金で支配する関係性」しか結ぶことができないだけでしょう。)
魅力的な女性と結婚していても、お金があっても、
自分が恐れていたら結局幸せになることはできない。
こんな臆病者の男たちが支配してきた日本なら、
勝てない戦争に突っ込んで大敗して、一時経済力で盛り返したかと思っても、
人間不信からくる足の引っ張り合いで経済力すら失墜するのも道理としか思えん。
実は私の母がやっていることもこれですが、
母が愛を受け取ることを拒み、怖れから支配欲に走って常に権力闘争をしかけるということを手放すことができなかったことについて、
私は長い間無意識に自分の人生が失敗であったように感じていました。
(私の今回の人生の大きな目的の一つではありました。私は高校生の時に家族のことで実際には背負うべきではなかった十字架を背負い、ずっと自分を責めて生きていました。こういったことを結婚相手との関係性の中に設定してくる人もたくさんいますが、私は生まれた家族の中にこの課題を設定してきたようです。)
ただようやく、母が「愛に心を開いて支配を手放す」ために、
愛を差し出す存在が100人必要だったとして、
私はその何十何人目かの役割を全うしたのだと思うことができました。
私の人生が失敗だったのではなく、私が100人目ではなかったというだけのことだ、と。
私にとって別の人生の目的と思える大きなことも
失敗したように感じていたので(東日本大震災に関係している)、
ちょっと私の自己評価とんでもなく低くて生きる気力なくなっていたのですが。
最後に、ナウェル・ペニシの素晴らしい演奏を。
(もちろんメルセデス・ソーサのオリジナルも素晴らしい。)
ナウェルのセッションを見ていると、
「確かに私たちはかつて一つだったのだ」と思える。
今回の人生で生まれてくるよりももっと前、
まだ神と分離していなかった時、
私たちは大海の一部で、こうして光を浴びて揺蕩い、
同じ一つの波になって遊んでいたのだと、そんな記憶を呼び起こす。
それはナウェル・ペニシ一人でなく、もっとたくさんの、あなた方。
あなたは私であり、あなた方は私であり、どこにも境目なんかなかった。
その大きな海であったことの喜びから離れて海水一滴になり、
さみしくて怖くて何度も道に迷い失敗を繰り返した。
でも、またやがて一つの海に帰る。
迷いながら、失敗を繰り返しながらも、
また、一つの海に帰るその道の途上にいる。
私たちがまた一つになることはできるのだと、
ナウェルのセッションを見ていると思えてくる。
今、音楽の中で、一つになっているのだから。
(だからナウェルと共演する各界の大御所が
みんなナウェルにメロメロになっている)
私がスペイン語を勉強して歌えるようになりたいと思うきっかけになった
フェルナンド・リマもそうだけど
アルゼンチンは時折音楽を通して天使を輩出する。
彼らは俗世の理屈を超えて、
「善きもの」へのあこがれを掻き立てる。




