2021年4月8日木曜日

『半神』とミソジニーと利用すること

 先日、江原由美子氏のネット記事で「ミソジニー」という語の解説を読みました(現代ビジネス、講談社、2020.02.09、「『ミソジニー』って最近よく聞くけど、結局どういう意味ですか?」)。
江原由美子氏同様、私も、「ミソジニー」の訳として「女性嫌悪」と解説されるのに、
ずっと違和感を覚えていました。
訳としてはそうなんだけど、指していることはそれじゃない、みたいな感じ。

江原氏は、『ひれ伏せ、女たち ミソジニーの論理』(ケイト・マン著、小川芳範訳、慶應義塾大学出版会、2019)に依拠して「ミソジニー」という言葉の、より適切な解説をしています。

まぁざっくり言っちゃうと、「ミソジニー」とは、
①女性は男性に無償奉仕する存在である。
②それを拒む女性は罰してよい。
という男性の考え方。

一般に流布している「ミソジニー」=「女性嫌悪」だと、「女が嫌いなら女に関わらなきゃいいじゃん」という話なんですが、
ここで示される理解では、
「男性は女性の無償奉仕を必要としている(性や家事・育児や労働力、女性が自分を褒め称えること、常に自分の下に置いて優越感を感じるための対象としても)」のが前提で、
女性を支配して無償奉仕させる仕組みが「家父長制」、
家父長制に従わない女性を罰することでこの仕組みを維持しようとすること、という感じ。
だから女性を全滅させようとも思わないし、女性のいない国を作ろうとも思わない。
あくまでも女性を奴隷として支配し、それに抵抗する女性を処罰する。

この感じが、だいたい私が今まで感じていたことに合致します。

私は女性の身体で生まれて女性の自己認識をもっている(「シスジェンダー」)、
男性を恋愛対象とする人間ですが、
まぁとても恋愛が下手なようで、ずっと独り者。
恋人がいたことはありますが、男性のパートナーと生活をしたことはありません。

ただ、昔から電車の中で聞こえくる女性同士の愚痴や、
最近ツイッターで特に見かけるようになった夫のひどい有様、
あるいは私自身が電車の中など公共の場で男性から向けられる暴力的な威圧や逆切れ、
仕事や、重要な物事を行う中で「あ~これ私が女だからこういう扱い受けるんだぁ」というアレ、
自分より劣った男性から当然のように称賛を求められること、
なんかこっちが黙って話を聞く前提になっていること、などなど、、、
まぁ「ミソジニー」を上記の、ケイト・マン、江原由美子の解釈だと、まったくもってその通りだと感じます。
なので、私が「ミソジニー」に直訳ではない意訳をつけるとしたら、
「女性支配欲求」「女性搾取欲求」あたりになるかなと思います。

ただ一方で、こういうことって「男性が女性にする」だけではない。
もっとも、ケイト・マン、江原由美子も、
「ミソジニーを~(略)~『人を支配するためのシステムの一形態』として理解するべき」
としているので、「人を支配するためのシステム」のうちの「男→女」タイプが「ミソジニー」である、という考え方かなとは思いますが。

私個人が職場や公共機関の中で「女であるがゆえに男の下に置かれる苦しみ」として味わったもののほかに、
まったく同じ感覚をもたらすものが、私の場合は母との関係でした。

私の母は、典型的な毒親で、私も弟も長い時間ずいぶん苦しみましたが、
それでもやはり、「弟にはしないことを私にはする」という点で、
「加害的な男性が、男性には加害しないが女性にはする」というのを事あるごとに
体感していました。

基本的には私は母をとても愛していますが、
それでも私も人間なので、心にも体にも限界があります。
私が長年極度に虚弱体質かつ、うつ病が人生の友達ぐらいに心の問題を抱え続けていたのは、母との関係性の問題も一因としてあります。
もっとも私の霊感体質というか世間的に理解されにくい要素による問題もありますが。
ちなみに私の霊感体質は、母方の遺伝(笑)母も祖母もそういう体質。父方はよくわからないけど、父個人はそういう性質は全くなし。
もう一つ付け加えると、母は、祖母から虐待を受けて育ちました。
私は20代の前半で、私と母との葛藤は「虐待の連鎖」によるものだと学び、私の代でこの連鎖を断ち切るまでは、私は自分の子供を持たない、と決意しました。
まぁ当時はこんなに長くかかるとは思っていませんでしたが。
もっとも私が心の傷を癒して成熟した心を育てること以外にも、
社会的な要因による打撃や経済状況など、いろいろな要因があってのことですが。

私が母との関係で本当に苦しんだのは、
母は私を自分の満足のための道具として使うのですが(暴力的な言動をすることも含みます)、「私に対してどんなことをしても、私が母を愛して大切にし、いつも感謝する」ことを当然のこととして行動する、という点です。
なんか最近、パワハラ、モラハラ、DV夫のことを訴えるツイートを見ていると、
「あ~、まったく同じだなぁ」と思い、自分が鬱になって寝込みます(笑)

ほかにも私自身人生をかけてやってきたことを、ミソジニーによって男性にぶち壊され、
キャリアも収入も途絶えたことが何度かあります(実は今も数年前に起こったそれで壊滅的な打撃を受けて、軌道修復の途上です)。
なので、東京五輪の開会式、MIKIKO氏の件は、とても他人事とは思えませんでした。
そういったことが感情的に処理しきれなくなり、私も本当に「男性のいない世界に行きたい」と思うことがあります(これは典型的な「ミサンダリー=男性嫌悪」)。
一方で母のことやほかのそういうことをする女性のことも思い出し、
「いや、他人を利用する人のいない世界に行きたい」と思い直したりします。

先日もそのことで思い悩みながら眠り、翌朝目覚める時にその痛みと同時に
ある一つの漫画作品が思い浮かびました。
萩尾望都著『半神』(小学館)。
16ページの短編なのですが、ものすごく示唆的で、野田秀樹氏が舞台化もしています。
(これも今手元になく、記憶で書いていますので、細かいところ違っている可能性があります。すみません。)

【以下ネタバレです。これから作品を読みたい方は注意】

腰のところでつながった状態で生まれた一卵性双生児のユージ―とユーシー。
妹のユーシーはとても可愛らしく誰からも愛される外見だが、知的障害を持っている。
姉のユージ―は頭脳明晰でしっかり者だが、「しなびたキュウリ」と評される外見をしている。
ユージ―は常にユーシーを支え、食事をとらせたり、危険がないように世話をしているが、自分の苦労はよそに、愛らしい外見のユーシーばかりがチヤホヤされることを苦々しく感じている。
二人が成長するにつれ、ユージ―は体力的にユーシーを支えることができなくなって衰弱してしまう。そして医師は、ユージ―とユーシーを切り離す決意をする。
「二人は一体でないと生きていけないのではなかったのですか?」と問うユージ―に、
医師は、ユーシーは自分で栄養を作り出すことができず、これまでユージ―の内臓が二人分の栄養を供給すべくフル回転していたが、それが限界に達してしまったこと、このままではユージ―が衰弱死することで二人とも死んでしまうが、今なら二人を切り離すことでユージ―だけは助かる可能性があると告げる。
そして手術は成功し、ユージ―が少し回復したころに、ユーシーが間もなく死ぬことを告げられる。
ユーシーに面会に行ったユージ―が見たもの、「あれは自分ではないのか?」
自分そっくりにやせ衰えた妹が、涙を浮かべて骨ばった手を差し伸べるのを見て、ユージ―は混乱する。そして、妹の死。
数年後、回復して美しく成長したユージ―は進学し、恋人もできて、生きることを楽しんでいた。
しかしある夜、鏡に映る美しい自分に、妹の姿を見出す。
死んでいったのは、自分ではなかったのか?あれはいったい何だったのか?
自分と妹とは、いったい何だったのか?
誰よりも愛していたよ、お前を。
憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよ、お前を。
私の半身。半神。

この感情に、答えはありません。
そして今、私が感じているものも、これなのだと思いました。
私から栄養を取ることで生きてきたもの。私が生命を支えていたもの。
そして、私の生命を吸い取りながら、すべての称賛を我が物にしていたもの。
私と母との関係であり、私と男性社会との関係であり、多くの女性と多くの男性の関係であります。
そしてもう、私も、多くの女性も、疲弊が限界に達し、自分自身の生命さえも危うくなり、自分が支えていたもの諸共に破滅するところまで来てしまった。
だからもう、切り離すしかないんだ、と。
そして、憎しみもかなわぬ程に憎みながら、何よりも愛していたと、答えの出ない感情に涙すること、私は、この人生でこれを体験したんだと、思いました。
以前、上橋菜穂子著『鹿の王』を理解できなかった人に驚いたことがありましたが、
こういう痛みも、体験しないと理解することができない類のものなのでしょう。

もっとも、『半神』はあくまでも漫画作品であり、
こういう強い感情を引き起こすための極端な設定のフィクションです。
現実の、女性を搾取する男性であれ、子供を搾取する親であれ、あるいはほかの形の搾取をする存在であれ、自分の内臓で自分の栄養を作れるし、自分で自分の感情を満たすことも、精神的な治療も肉体的な治療も受けることもできます。
搾取対象である女性や子供に切り離されたからといって、死にはしませんし、他人を搾取しない生き方に変える必要があります。

私はこういう風に感情が強く動くと、体調も連動して乱れるので、
鍼の治療に行き、鍼の先生にもこの話をしたのですが、その時、
「もう支えられないってどういうことですか?」と聞かれました。
その時に私は以下のように答えました。

例えば演劇公演をやる時というのは、すべての人がそれぞれの役割を精一杯果たすことで良い公演になるのであって、けっして「看板役者」が偉いわけではない。
そのことがカンパニー内できちんと理解されていれば、「看板役者」の写真がデカデカと載ったポスターで宣伝し、「(看板役者の)〇〇さんのお芝居を観たい」と世の中の人が集まってくることに何の問題もない。全スタッフの写真と名前を均等に載せた宣伝素材を作る必要はない。
けれども、「看板役者だから偉い」「演出家だから偉い」「プロデューサーだから偉い」とか勘違いしている人が時々いて、そのようにふるまうことがある。
それが私の母とか、問題行動をする世の中の男性や世の中の仕組み。

立場上、「花を持たされる人」というのはいる。
それぞれが何をしているかがきちんと理解され、尊重されているのなら、
私が花を持たなくてもいいよ、という立場でやってきたが、
「花を持っている自分だけが偉い」と勘違いして傍若無人の限りを尽くす人の場合は、
こちらも人間として存在しているので、精神的にも肉体的にも限界があるよ、ということ。

まぁそうは言っても、そう思ったとたんに、
男性も私の母もマウンティングしないと生きて行けない女性も存在しない並行世界とかに移動できるわけではないので(笑)、今できるのは心の線引きでしかありませんが。
ただ、私が時間をかけてやっていること、やりつつあることは、その方策の一つではあります。

そのうちの一つは、信頼関係を築いている女性に直接お金を払うこと。
私は今、医療のメインを鍼灸治療にしていますが、もうかれこれ15年くらいお世話になっている女性の先生です(もともとは大学時代の友人のお姉さん)。
それからオンラインでレッスンを受けているバレエの先生。コロナ前はスタジオでレッスンを受けていましたが、今は先生個人のオンライングループレッスンを受けて、先生に直接お支払いしています。
あと、美容院も20年以上同じ女性の美容師さんにお願いしています(近年は私の経済状況が悪いので、ロングヘアにして年1回しかカットしていませんが(笑))。
私はもともと「人につく」タイプなので、自分に合うなぁと思うと、長くなります(笑)
あと私自身が作ったものを売るようになってからは、個人の作家さんのものをよく買うようになりました。ちょっとしたアクセサリーとか。
それと、以前は臆病で食事をするのもチェーン店ばかりでしたが、いつからか、個人経営のお店でオーナーさんやスタッフさんと会話を楽しみながら食事をするようになりました。

生活全般を賄うのはまだとてもできない状況ではありますが、
少しずつ、女性や信頼関係を築いている人・団体、個人で活動している人に支払う割合を生活の中で増やしていこうと思っています。


そして、私自身が、怒りや悲しみに負けてしまわないために、以下のことを。
先ごろ、川沿いの桜を見にのんびりと散歩をしました。
その時に、私の前を、車いすの女性と車いすを押す男性がゆっくりと進んでいました。
お二人とも年配で、女性はいろいろ辛そうな感じで、男性が細やかに気配りしていました。
ご夫婦なんだろうな、と思いました。
奥様をとても愛していて、少しでも良い時間を、少しでも長く一緒に過ごしたいんだろうな、と感じました。
本当に愛を知っていて、一生懸命大切にしている人は、いる。
もちろん私の知人でも、長年奥様を愛し家族を大切にしている男性は何人もいる。

アンチ・フェミの人に二次加害の口実を与えるためではなく、
私自身のために、
「Not all men すべての男性が悪い男性なのではない」、
この満開の手前のひそやかな桜の下を行く車いすの女性と男性の姿を心にとどめ、
自分の怒りと悲しみを癒したいと思っています。