2021年5月5日水曜日

座布団を編んでみた

編み物をタイトルにしているブログなんですが、
ずっと編み物の記事を書いていませんでした。
というか、ちょっと感情の許容量をオーバーしてしまって、
時事を記事にするのが辛くなってきました。
少し、編み物のこと書いてみたいと思います。


編み物はずっと何かしら編んでいたのですけども、
商品の試作品とか、古糸使った家庭用品とか編んでいたので、
ブログ向きのものがあまりありませんでした。

今回編んでみたのはこちらの座布団。青と紫、各2枚ずつ。



学校の提出課題とか販売用商品は、必ず仕上げアイロンするのですが
(商品の場合は洗いも)、
古糸使った家庭用品なので仕上げアイロンしておらず、
あっちこっちゆがんでおります。
見苦しくてすみません。

レシピはこちら。
『決定版 人気の手編みざぶとん』(著:橋本真由子、朝日新聞出版、2018)の
「バスケット編みのざぶとん」。



編み物学校の課題で、とにかく期限内に提出してハンコもらうためだけに作ったものが
少なからずありまして、
そういう「この先ぜってぇ着ない&使わねぇな」っていうものをほどいて、
糸再生して編んだものです。

まぁ資格取得を目的とした学校通いだと、
どうしても時間的&能力的な限界からくる妥協作品って発生するとは思うんですけどね。
そういうのほどきました。
試し編み用の半端糸とかは、つないで家用の靴下編んだりもしました。

で、この座布団の本、本屋さんでたまたま見かけて、
あんまりかわいいんで買っちゃったんですが、なんか今流行っているみたいですね。
「花座布団」とか言って、お花畑か花束かみたいな、バラやらカーネーションやらの
麗しいお座布団がたくさん掲載されています。
花座布団は見ている分には心ときめくのですが、私が家で使うにはちょっと主張が強すぎ(笑)
ま、お若い方が、ごくごくシンプルな家具に花座布団をメインにしてお部屋作りをなさるには、素敵だと思いますよ。
私は残り糸で実家のダイニング用にと思ったので、一番シンプルなものを選びました。


で、今回、この座布団編んでみていろいろ気づいたことがあります。
まず、この本に掲載されている麗しのお座布団、
みんなアクリルの極太糸で編まれています。
まぁこの手の編み物本は、毛糸メーカーの協賛というか宣伝でもあるので、
「うちのこの糸で可愛いもの作ってください」みたいなことになるんでしょうがないんですけどね。
あと、アクリル糸は、ウール100%よりもはるかにお安いし、発色も良いので、
特に若い方に需要があるのは致し方ないのかな、と思ったりはするんです。

ただ、なんかもう、アクリルとか化繊をあえてわざわざ生産するのって、どうなの?と
私は思っちゃうんです。
環境汚染のマイクロプラスチックとかって、化繊のもの洗濯しても出るんだそうで、
今まで作っちゃったものは仕方ないにしても、これから生産するのは減らしていこうよ、
と私は思います。
(もちろん靴下とか強度が必要なものには少し化繊が入っていた方がいいとか、
ラメとかモヘアとか特殊なデザイン上の都合で発生するものは、あまり否定しませんが。)

私は毛糸の中古サイトで、すごく高品質な工業用糸を仕入れていますが、
そういうサイトでは、アパレルメーカーの残り糸のほかにも、
個人の方の古糸なんかも大量に扱われています。
海外のレア糸買ったけど編まなかったから出品します、とかもありますが、
編み物好きだった母や祖母が持っていたもの、みたいな感じで、
すごい年代物の糸がゴソッと出てきたりします。
あと店じまいする手芸店の在庫品とか。

私が見ている分には、そういう大量の中古糸にも結構買い手がついているので、
まったく売れないっていうこともないのだろうけど、
多分、「中古サイトで売ればいいよ!」という発想のないご家庭とかで、
いまだに死蔵されている毛糸もたくさんあるんじゃないかと推測します。

いやまぁ何が言いたいのかというと、
座布団とか家用靴下とかそういう「余所行きアウター」じゃないものって、
こういう中古の糸で作ったらいいんじゃないの、という話です。

長年の間違った政治によって、日本は本当に貧しくなってしまって、
何でもかんでも100均で売っています。
椅子用の座布団とかも売っているんですが、
そういうのってもっと貧しい国からの搾取なので、
そうじゃないやり方をできないかなぁと、常々思っていました。
まぁお金持ちの方は、きちんとしたもの作って売っているところで、
きちんとしたお値段のものを購入していただければいいと思いますが。

お座布団に限った話じゃないんですけど、
日本が貧しくなったとは言え、日本国内にまだ過去のストックってすごくあるのね。
私が仕入れている工業用糸の半端品とかも、
「うひょ~!!!」と思うほどのとんでもねぇ高級品出てきます(血圧上がりますわ、そういうの見ると(笑))。
このコロナ&オリンピックの失敗で今後日本がどうなるのかわかりませんが(この手の高級品扱っている一流ブランドが日本から手を引いてしまう可能性もあります)、
なんかそういうのを国内でうまく回していくと、
私たちが貧しいからと言って、さらに貧しい国を搾取することを減らしていけるのではないかと思ったりします。
貧困の輸出という言い方したりしますね。

ただこれって時々ネットで炎上する案件でもあるのですが、
本当の貧困とは創意工夫するための土台がないということである、という部分に触れます。
つまり、私の言う「中古糸をみんなで活用しよう!」みたいな話も、
「編み物を習って何かを作れるようになる教育を受ける余裕がない」のが本当の貧困なんだ、ということです。
「コンビニ飯食ってないで、自炊して節約しろよ」というマウントに対して、
「実際の貧困とは、料理を学んだり、調理器具を用意したりする経済力がなく、
最低賃金で働きどおしのため、自炊するための時間や体力を確保することもできない状態である」ということです。

私もそれはわかっているので、
あくまでも、自民党政権を倒した後、社会を根本から作り変える段階で、
どういう方向に社会を構築していくかという青写真の話として
こういったことを書いています。


あとこれも似たような話なのですが、
先日、ネル生地を使ってパジャマ用ズボンを何本か作りました。
私は冷え性&汗っかきで腹圧が弱い(女性に多いです。虚弱体質だとそうなりやすいです)ので、固くて吸収性のない生地やゴムのズボンが苦手。
スカートも冷えが入るし掃除とかの作業がしにくいので、結果的に家で作業をするときは、パジャマのズボンにウィンブレパンツを重ねてすごすことが多くなりました。
で、パジャマのズボンだけ傷みが早いので、じゃぁズボンだけ作ればいいんじゃね?というわけで、すんごい久々に裁縫をやりました(笑)

で、布を裁つところからやってみて思い出しました。大量に端切れがでることを。
まぁ今回のパジャマズボンは、端切れ最低限にすべく、だいぶギリギリの裁断をしましたけど。
思い起こしてみれば、子供の頃、母の足踏み式ミシン(今も現役のブラザーミシン。結構レアもの(笑))を開けるたびに、母がビニール袋いっぱいに端切れを保管していて、
子ども心に「こういうの捨てればいいのに…」と思っていました。
コロナ前は和裁を習いたいと思っていろいろ検討していたのですけど、
洋裁はとにかく端切れ出ますね。
型がどうしても曲線というか、体やデザインに合わせて複雑な断ち方をするので。

私はキルト(パッチワーク)はやらないんですが、本来はこういう端切れ使ってキルトやるといいのになぁと、常々思います。
キルトってもともとは布が貴重品だった時に、古布や端切れを再利用するために生まれたものと聞いているのですが、今の日本のキルトは、あくまでも芸術的なというか、趣味のキルトが主流。
手芸屋さんでキルト用のカット生地がわざわざ売られているわけですよ。リバティとかの高級プリント生地が、キルト用に数十センチ四方にカットされて売られています。
見ている分には可愛くて「わぁ~この布使ってなんか作りた~い」みたいな気持ちにはなりますけどね。
まぁ、芸術性を追求するとか、好きなことを好きなものを使ってやる、というのは、
文化的活動として自由を保障されるべきだと思っていますが、
それとはまた別の、生活のレベルとしては、そういう「いろんなレベルで出る端切れ」を、
流通させて再利用するというのが根付くといいなぁという気持ちがあります。

「カオハガン・キルト」と呼ばれるものがありまして、
カオハガン島という島を買った日本人の関係者が、現地の女性たちにキルトを教えたのが始まりで、自然をモチーフにした独特な伸びやかさを持った作風のキルトとして人気があります。
私も大昔本で読んだのですが、賭け事くらいしか娯楽がなかった女性たちが、
古着をほどいたりしてキルトを作るようになって、みんなで木陰に集まって、
「これは〇〇ちゃんが着ていたTシャツだね」みたいな話をしながら、銘々キルトを作っている…みたいな美しい情景でした。
編み物学校(というか手芸学校)にも飾ってありました。
一昨年、あるイベントでカオハガンキルトが展示販売されているのを直接見る機会があったのですが、使っている布地がリバティ生地になっていて、「あれ…?」と思いました。
まぁ私と同じで「販売用の商品には新品の材料を使う」なのか、
たくさん作られているので「島民の古布使っていたのでは材料が足りない」なのか、
はたまた違う理由なのかはわかりませんが。

カオハガン島にはカオハガン島の事情があると思いますのでそちらは触れませんが、
これからの日本という意味では、新品のカットクロス使ったキルトだけではなく、
様々な形で発生する端切れを使ったキルト文化が、定着するといいなぁと思います。

私が大学卒業後初めて就職したのはぬいぐるみメーカーでした。
私は事務職でしたが、最初に国内工場での研修があって、生産の現場を見学しました。
その時生地を裁つ裁断機のことも説明を受けたのですが、
生地を無駄にしないために、たくさんの金型を複雑に組み合わせて並べ、一気に布を裁つというやり方をしていました。
それでも端の方とかは、捨てなきゃいけない生地はどうしても出ます。

ぬいぐるみはパーツが複雑なのでアパレルとはまた違うのかもしれませんが、
アパレルだとどういう形のどういう量の端切れが出るんでしょうね。
私が今回作ったネルのズボンは部屋着なので、柄を気にする必要もなく限界いっぱい布地使いましたが、それでも多少出た残り布で布ナプキン作りましたし、布ナプキンにすらならない端切れも残ります。

以前見たNHKの番組「新日本風土記」では、北前船の航路についての回で、
関東から古着としても売れない古布が北前船で東北に運ばれ、
その古布を裂いて織る「裂き織り」というものが紹介されていました。
そうやって古布を裂いた長い端切れを織機で織って分厚い布地にして、
半纏のような防寒着を作るというもので、現在もその文化を保存している会が活動しているということです。
その会の方々は「裂き織りは究極の『ボロ着』です」と仰っていました。
まぁ現代人は「ボロ」とか「ボロ着」とか言う言い方もあまりなじみがないかもしれませんが、かつて人々が野良着としていたもの、ほつれたり破けたりしたものを真っ赤な糸で補修したりして着ていたものを、文化的に検証した本とかあります(『木綿口伝』という本で実家の物置のどこかにあるんでそのうち発掘したいのですが…)。
補修に使った赤い糸のステッチとか、庶民の生活の中の工夫や文化が垣間見えるものであるそうです。
惜しむらくは、ボロ着を着ていた方が「こんなものを他人様に見せるのは恥ずかしい」と、調べに行く前に軒先で焼いてしまったりすることが少なからずあった、ということです。

キルトしかり、布が貴重品だった時代に、こうやって最後の最後まで大切に使っていたということでしょう。

さすがに現代は、もっと手軽に布地を入手することはできますし、
私も破れてしまったような古布は、台所の油拭きや掃除に使ってしまいますが、
それでも、今日本で布が安く手に入るからと言って、新品のものまで無駄にするのはどうなんだろう、と常々思います。

無印良品やユニクロでも新疆綿(ウイグル綿)を使っているようですが、
じゃぁほかの地域で生産された綿が、搾取が発生しない状態で作られたものかというとそうとも限らない、というツイートも流れていました。
その昔、ゾマホンさんも著書の中で、ベナンの綿花の収穫風景の写真を紹介し、綿花は1kg 100円だと「でも本当は1000円ね、1万円ね」と語っていました。
無印が悪い、ユニクロが悪い、ということではないのだけど、今の私たちの生活は、こういうことに支えられているのだと、常々思います。

じゃぁ今私たちが綿花を栽培して日本人が着るものすべてをまかなえるのかと言ったら
不可能なのは目に見えている。
だからせめて、ほかの国から分けていただいた資源を、無駄にしない使い方ができないかと、思うわけです。
私たちが「無駄なく使い切る」ことができれば、もっと高い値段で原料を買っても、
国内で十分使いまわせるのではないかと、私は思います。
端切れだからと捨ててしまえば、その分ほかの布地を仕入れなければならず、その分安く買いたたくことになる。
でも端切れを流通させて、工業製品じゃない形で、個々人が趣味のレベルででも生活用品として活用すれば、その分余計な材料をほかの国から買い入れなくて済むようになる。

別にキルトに限ったものではなく、端切れを使って何か使えるものを作る文化、
もっと発達してもいいんじゃないかなと思います。

私は裁縫やらないんで布地とかの中古サイトは見ていないんですが、
アパレル向けの工業用糸扱っている業者さんで、布地も扱っているところもあるようで、
レース地とかも工業用の残りを中古サイトに出している業者さんもいます。
もっと一般的には、オカダヤさんとか普通の手芸材料店で、布地の切り売りしているところでは、もうメーターで取れなくなったような残り地を、端切れとしてワゴンセールしていたりします。
裁縫方面あんまりわからないのでアレですけど、そういう端切れの組み合わせのテディベアとかも可愛いと思いますし、ぜひ芸術的センスの高い方に、そのあたりのジャンルを開拓していただきたいなぁと思ったりします。
(ぬいぐるみのメーカーにいたので、テディベアについては、私はいろいろ思うところあります(笑))

カオハガンキルトにしても、もともとは島民の女性が賭け事しか娯楽がないところへ、
キルトを教えたらみんなが楽しんで作って、それが高い評価を受けた、というものなので、
別に端から売り物にしようとか、人から絶賛されるものを作ろうとか思う必要ないと思うんですよ(現代のSNS文化の弊害です)。
「テレビを観るしかない」とか「スマホを見るしかない」状態が、
「手を動かして何か作るの楽しいよね」になれば、充分意味があるんじゃないかと私は思います。
以前新聞で読んだのですが、貧困家庭の児童向けに手作りのプレゼントを贈る活動をしている方が、「パチンコしかやることがなかった母が、活動を知ってプレゼントを手作りするようになってから、見違えるように活き活きして元気になりました」というお礼状を頂いたこともあったそうです。
共働きで子育て真っただ中(シングルマザーはもちろん)な方はのんびり手作りを楽しむ余裕なんかないとは思いますが、リタイヤした時、ドロップアウトした時、それぞれにできることを楽しんでやることができるというのは、生きがいにもつながるのではないかと思います。

私も子供の頃にやっていた編み物を再開したのは、うつ病で寝たきりになったからでした。
私はたまたま編み物が性に合っていたようで、生きる気力もなかったのが(というか自殺する気力がなかった)、どんどん面白くなっていって、より複雑なものを作っているうちに、少しずつ元気になっていました。


だいぶ長くなってしまったので、いったん終わりにしようと思いますが、
こういう生産現場で廃棄されるもの、各家庭で死蔵されているもの、
そういった「その人・その現場にとっては廃棄物」であるものが、
ほかの人にとっては「資源であり原料である」ということが往々にしてあります。
それらを生かす知恵や、廃棄物・デッドストックをみんながアクセスできるデータにして、
社会の中で生かす仕組みを作りたいなぁと以前から思っていました。
そういったこともまた別途、記事にしたいと思います。