先日、本編の記事をアップした後にふと思い至ったのですが、
「虹は単に水蒸気と光の反射で~」とか言っていた男性は、
NHKの僧侶の脳波を調べる番組を見ていたようです。
虹の話と一緒に、
「イエス・キリストが神秘的なことを言ったり行ったりしたのは、
十字架刑の身体的苦痛によってもたらされた反応だ」みたいなことを言っていて、
あんまりにもバカ過ぎる発言なので晒しちゃかわいそうだと思って書かなかったのですが、
後になってふと思えば、論の立て方がNHKの番組とまったく同じでした。
NHKが仏教の僧侶だったから、イエス様に話を延長しちゃったのかなぁと推測しますが、
NHKの番組の話をツイッターで見た時に、
真っ先にこういう事態が生じることを危惧していました。
ほんとにこういうバカ増殖装置みたいな番組、無責任に放送するなよNHKと思いました。
まぁ信仰心とかがこれっぽっちもない人でも、
ちょっと落ち着いて考えればわかることなんですよ。
イエス・キリストが素晴らしい言動をして人々から絶大な支持を得たのは、
十字架にかけられる「前」。
十字架刑による苦痛によって初めて神秘的なことが起こったのなら、
それ以前はいい歳して定職にも就かずにフラフラ旅してるただのヒッピーおじさんじゃん。
なんでそんな人をわざわざ権力者が十字架にかけるのさ。
ほっときゃいいし、そもそも権力者がその存在を知ることもないだろうさ。
何もない時から、行く先々で素晴らしいことを語り成してきたからこそ、人々の圧倒的な支持を集めた。その影響力を脅威と感じて初めて、権力者がとらえて刑に処した。
何も素晴らしいことをしない人に、12人も弟子が付くわけないじゃん。
ちょっと落ち着いて前後関係を考えれば、「あ、、、」ってわかるはずなんですよ。
逆に、十二使徒の存在も知らないほどキリスト教に無知なら、言及すんなって話でね。
こういうの、ものすごく危ないことなのね。
「なんちゃってスピリチュアル」がトンデモなことをわぁわぁ言って現実から乖離するのも本当に危ないんだけど、
こういう「自分は理性的で迷信に惑わされない」とか思っちゃっている無知で傲慢なだけの人も本当に危ないのね。
どっちも同じなんですよ。
まぁ、「素晴らしい人」に出会ったことがないんだろうなぁ、と思います。
今期のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で、
徳川慶喜(草彅剛)と平岡円四郎(堤真一)の出会いのシーンが本当に素晴らしかったのですが(主人公パートはクソだけど)、
これが、「人が素晴らしい人に出会って心酔する」場面そのものでした。
草彅剛さんとんでもない気品で驚きました。
堤真一さんの芝居が浮かないほどの、圧倒的な気品と存在感。
あまりにも素晴らしすぎて、この場面だけ何度も再生しました(笑)
ただまぁ、残念なことに、素晴らしい人に出会ってもわからない人っているんですよね。
多分、草彅剛扮する徳川慶喜が、堤真一扮する平岡円四郎を召し抱えたのも、
「こいつはわかる奴だ」と感じたからだろうと思います。
万人がわかるわけではないのですよ、残念ながら。
万人が素晴らしい人を素晴らしい人だとわかるのなら、
イエス・キリストを刑に処すことできないのね、役人が恐れおののいちゃって。
ある程度の人間修行というか、人生経験というか、そういった蓄積がないと、
わからないものみたいです。とても残念なことに。
まぁ大河ドラマはしょせんドラマですけど。
ただ、そういう脚本や演技や演出が成立するというのは、
大なり小なり「そういうことがあるものだ」という認識があるからだと私は思います。
私は以前大変驚いたのですけど、
上橋菜穂子著『鹿の王』を読んでもその素晴らしさがわからなかった人がいて、
絶賛おすすめした私に「読みどころってどこなんですか?」と聞いてきた人がいます。
その人はいい歳してほとんど悪意のない、かなり「善い人」。
私は挫折とかうつ病とか、やりたくてしているつもりはなかったのですが、
人生経験が足りないと素晴らしいものを読んでも感動できないんだなぁと妙な感慨を受けました。まぁ本人が今幸せならそれはそれでいいのかもしれませんが。
私は本編記事でも書いたように、科学と宗教(スピリチュアル)は対立するものではなく、
補完し合うものだと考えています。
もちろん「なんちゃってスピリチュアル」やカルト宗教は害悪ですが、
精神性への敬意を欠いた科学偏重も度が過ぎれば害悪です。
生命への敬意を欠けば医学の名のもとに731部隊やナチスの人体実験にまで発展するのと同様です。
私が過去に習ったバレエの先生で、少女漫画から抜け出てきたのかと思うほどかわいらしくて、花柄の巻きスカートを巻いたりしている美女なのに、
理科室にあるような骨格模型を持ってきて、骸骨ガチャガチャさせながら、
「背骨ってこういう風に曲がっていて、だから背中をまっすぐにするというのは…」とか
「股関節というのはこういう風になっているから、足をあげるときには…」みたいに説明する先生がいました。
また、声楽の先生でも、カラーの人体解剖図持ってきて、「肺はこうなっていて息を吸うとこうなって、さらに横隔膜がここにあって、これを押し下げることでさらに容積を大きくすることができて…」と説明する先生もいましたし、
頭声を使う発声法の本では、頭部の断面図に、「どこに向かって息を当てれば、どの音が出るか」みたいなのが、放射線と音符で図解されていたりします。私も高音が出きらない時は、後頭部を指で押さえて息を当てる方向性を調節したりします。
ま、何の話かと言うと、芸術を芸術として高めるために医学を参照しているよ、という話です。
一方で、声楽やバレエが、医学や自然科学ときちんと向き合うのは、ただ超高音を突発的にポンと出すためでも、世界で一番足を高くあげるためでもなく、
あくまでも芸術を芸術として表現するためです。
また逆に、その最高の一点を達成するためという意味で興味深いのは、
ジャック・マイヨール氏の活躍で有名になった潜水競技。
タンクなしで、一呼吸でどこまで深く潜れるか、という競技ですが、
その人間にとっての究極の深度、一点に到達する時に、
瞑想状態というか、海との一体感というか、何か宗教的な心理状態が必要になるということもあります。酸素の消費量が格段に変わってくるからです。
私は競技潜水はやっておらず、あくまでも遊びの範囲の素潜りしかしませんが、
それでも、自分が海と一体になったような感覚に陥ったとき、いつまでも潜っていられた経験があります。
だから、芸術をやっているからと言って、蝶よ花よと浮世離れしたことだけ考えているわけでは決してありません。
医学的な知識を活用して、レベルを上げる努力をしているわけです。
対立構造ではないのです。
一方で、人体はどこまでの深海に耐えうるのか、みたいなことも、
精神性に左右されるのです。
どうして対立を煽ろうとするのだろうかと、思います。
なぜ科学を使って宗教(精神性)を否定しようとするのだろかと思います。
深い精神性によって何がもたらされるのかを、科学で用いて調べて、社会をよりよくするために還元すればいいのにと思うのですが、なぜ否定するための道具として使おうとするのか、理解に苦しみます。
私はよく「偽善と欺瞞」という言い方をしますが、
大義名分を自分の目的のために使っているだけの人が、いつの時代にもいて、
時代によってその道具が変わるだけだと思っています。
マザーテレサや中村哲医師がよりどころとしたのもキリスト教ですが、
魔女狩りによって無辜の人々を虐殺したのもキリスト教ですし、
布教を口実として各国を侵略したのもキリスト教です。
社会の不平等を是正しようとした共産主義も自分の権力のために利用すれば歴史が証明したような結果をもたらします。
自分の利益しか考えられない人だらけの現在の資本主義も同じことです。
私に「虹が」「イエス・キリストが」と言った男性は、科学的というよりは、そもそも「スピリチュアル女ざまぁ」みたいに女性を踏みつけていたいというのが本音だと思うし、
「なんちゃってスピリチュアル」の記事で書いたダンスの先生も、「治癒の女神・救済の天使」みたいな役どころでセレブに取り入ろうとしただけで、スピリチュアルとはかけ離れた欲が本音だと思います。
正直、どっち側にも出ます、こういう人たちは。科学の側にも宗教の側にも、フェミニズムの側にも(残念ながら物事がわからない人はどこの世界にもいます)、どんなイデオロギー側にも出ます。
もともと強い立場にいた者がさらに相手を叩くためにも使いますし、
弱者であった者が強者に成り代わるための道具としても使います。
私がこれをいろんな場面で厳しく言うのは、
この「きれいな言葉で自分の邪念を言いつくろう」ことが本当に危ないと、
この人生で何度も経験したからです。
幸いというかなんというか、私は害を被っただけで、自分が加害者にはなっていませんが。
私の人生は何度かめちゃくちゃになりましたが、自分が他人の人生をめちゃくちゃにする後悔からすれば、はるかに楽な立場であることは重々承知しています。
日本語で「魔が差す」という言葉がありますが、
こういうところから、どんどん道を誤って転がり落ちていきます。
最初の一点、「イエス・キリストの布教活動と十字架刑の前後関係を確認する」とか、
「病気の人を救いたいというより自分がセレブに取り入りたいだけなんじゃないかと自問する」とか、そういう「一呼吸置く」ことをすれば、踏みとどまれることなのです。
転がり落ちる勢いは強いものなので、この落ちる直前に冷静になることが、本当に大きな違いを生みます。
それをせずに、自分の欲望や邪念を美辞麗句でごまかしていると(自分自身も他人も)、
今の日本の政府みたいに醜悪な有様になります。
まぁ見ている人にはわかりますよ。「思いっきり嘘ついてやがるな」と。
醜悪で目を背けたいだけならまだしも、人が死にますから、今のコロナ禍のように。
日本の戦争もそうでしたし、オウム真理教の事件もそうでした。
私は、人間には自己中心的で未熟な欲望はあるものだと思っています。
ただ、それが暴走して人を害し自分の自尊心を傷つける前に、
踏みとどまる努力をすることが私たちにできる大切なことだとも思っています。