私の大好きなオーディション番組『Got Talent ゴットタレント』シリーズ、
いろいろ語りたいことあるのですが、
今日は、宗教と科学についての私の見解の説明に最適な動画、
ご紹介したいと思います。
最近「ジェフの翻訳チャンネル」さんが日本語訳をつけてくださっているので、
そちらをご紹介させていただきます。
↑私がもともと見ていたのはこちらの動画。14:36くらいから登場
オレナ・ウタイさんというロシア北東部サハ共和国出身の女性が、
伝統的な演奏を披露しています。
鳥の鳴き声に始まり、馬が駆ける様子やいななきなどを表現します。
最初は「この聞きなれない音は何?これは音楽なの?」と戸惑っていた会場の人たちが、
あれよあれよという間に熱狂的に踊りだします。
祭りです。パーリーです。クラブです。
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後ろの観客を立たせて踊らせるデイビッド。 こういうところ大好き。 |
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舞台袖の幸運の妖精アント&デックも踊りだす。 |
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アリーシャとアマンダがシンクロで踊ってるの マジ可愛い(笑) |
これ、本当に興味深いなぁと思って見ていました。
オレナさんは、「シャーマンの伝統文化を受け継いでいる」(上記「ジェフの翻訳チャンネル」2つ目より引用)と語っていますが、
シャーマンの伝統文化が、クラブミュージックなんですよ。
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オレナさんご本人はまるで森の女神のよう |
私は大学の専攻が文化人類学だったので、こういうのすごく面白く感じます。
多くの現代人は、「シャーマン(祈祷師)」とか言うとすごくうさん臭く感じるわけです。
民族の伝統文化とか、伝統音楽とかも、かなぐり捨ててきた過去もあったわけです。
そして、シャーマニズムなんかきれいさっぱり忘れた都会のクラブで、
そのシャーマンのリズムが自然発生的に生まれて、
何も知らない現代の若者が、かつての民族の祭りで焚火の周りで踊っていた人々と同じように踊り狂っているわけです。
これを見てもう一つ思い出すのが、〇十年前に読んだ『スフィンクス』(著:アンヌ・ガレタ, 訳:吉田暁子, 1991, 新潮社)という小説です。
クラブのDJをやっている性別不明の主人公が、非常に盛り上がった夜のことを述懐する箇所があります。
もう手元にないので、うろ覚えで恐縮なのですが、音楽に熱狂する人々が一つの塊りになって蠢いていて、そこから誰も離れることができなかった、と。一つの生命体であるかのように、一体になって踊っていて、個人の意思ではそこから離れることができないような状態になっていたという描写がありました。
私自身は、実家にいるときは親が厳しくて、働いて一人暮らしをしていた時は体調が悪くて、この手の夜遊びをあんまり経験していないのですが(笑)、
小学生の頃から演劇をやっていたので、舞台でこういうことが起こることを経験していました。
舞台上の自分の感情が拡大して、客席すべての感情と化し、それが大きなうねりとなって圧倒的な強さで一つの方向に(演劇の場合は物語の進行へと)動いていく。
台本のセリフを言っているのではなく、台本の動きをしているのではなく、
自分の口から勝手に言葉が流れ出し、勝手に体が動いている。
舞台上の他の役者の感情、自分の感情、客席の感情、そういったものが一つの大きなエネルギーとなって、意志を持って動いているかのよう。
そしてまた、自分の感情がそれら全体を動かしてもいる……。
演劇好きな方だと、鴻上尚史氏の「第三舞台」という劇団をご存知かと思いますが、
この劇団名の由来は、「役者がいる舞台が『第一の舞台』、客席が『第二の舞台』、そして役者のいる舞台(第一舞台)と客席(第二舞台)が融合して生まれるのが『第三舞台』」だからだよ、と演劇の先輩から聞きました。
この話を聞いた時に、「なんてわかっている人なんだろう」とすごく感動したのを覚えています。
一方で、先日ツイッターでちょっと気になったものが流れていました。
以前、NHKで、修行をしている僧侶の方の脳波を調べるような番組を見たのだけど、
詳細忘れたので情報が探せないがもう一度見たい、というもの。
その番組では滝行やらなにやらしている時の脳波を測って、科学者の人がコメント入れるみたいなものだったようです。
で、ツイッターの短い文章なので厳密にはわかりませんが、滝行とかして何か宗教的なことを話されている状況なんですかね、その科学者の方が脳波見ながら「幻覚です」とか「幻聴です」みたいな冷静なコメントを入れているような番組だったようです。
滝行のような身体的な極限状況で出やすい幻覚とか幻聴だと、科学者が冷静に説明しているような感じだったようです。
まぁ、この情報だけだと、どういう意図のどういう番組なのか(その科学者の意図も)わからないのですが、私が政治やコロナ関連でチェックしている男性のツイッター発信者が複数リツイートしていました。その方々もどういう方向性の興味でリツイートしたのかは、私はわかりませんが。
で、私がこのツイートを見て思ったのは、
「幻覚・幻聴だったら、何なの?」
私からすると、滝行している僧侶の脳波見て「幻覚・幻聴です」と言われたところで、
「息を吸い込むと肺が膨らみ、息を吐くと肺がしぼみます」と言われているようなもので、
「そのこと自体は知っているけど、そのことをもって何を言いたいのだろう、この人は」と思うわけです。
ま、一番初めのオレナ・ウタイさん然り、『スフィンクス』のクラブDJ然り、私の演劇経験然り、私が思うのは、人間は「変性意識状態」になることを必要としている生き物なのではないか、ということです。
私は文化人類学・民族学が専攻なので、民族舞踊とか伝統音楽とか原始宗教とか、とても興味があります。
地を這うような太鼓のリズムが高潮していくさま、焚火、一体感を伴うダンス、どこまでが真実かは私は確認していませんが幻覚作用を伴う薬草などを使うという話も聞きます。
いろいろな地域のいろいろな文化の中にこういったものが存在し、
それらが忘れられた現代の都会では、自然発生的にそれらをまた作り出している。
ただ、現代の都会で生まれたものは、社会を維持するための規制装置が働いていないので
より「快楽」を追求する傾向があり、薬物依存に陥るような合成麻薬を作り出したり、破壊的・破滅的な文化に陥る危険性もはらんでいると思います。
ただ、本来は、滝行のように体を追いつめることで発生するものであれ、
リズムや音楽、光、踊りを用いたものであれ、
あるいはある種の変性意識状態をもたらす物質を用いたものであれ、
そのようなものによって生まれる状態を、人間は必要としていると私は考えます。
それは普段の考え方を超越した考えであったり、個人という枠を超えた一体感であったり、あるいは単にフラストレーションを発散して感覚を一新するということであったり、
そういったことが、人間が健全に社会を営んでいくために必要で、
人間は常にその仕組みを作り出し、維持してきたのではないか、と私は思います。
そのための仕組みが、宗教として維持されている部分があると私は思っています。
先の滝行の僧侶、仏を見たのか仏の声を聴いたのかわかりませんが、変性意識状態になって、普段の常識を超えたものを見聞きして、それで物事が良い方向に動いていくのなら、それに何の問題があるんでしょうね。
あ、こういう言い方しているのは、「幻覚・幻聴だから宗教なんて嘘っぱちだ」とか言い出す輩が少なからずいるからです。
①人間はそもそも変性意識状態になることを必要としている
↓
②その変性意識状態を社会が健全な方向に向かうように利用する
↓
③そのために危険性を排除すべく方向性を定める
そうして生まれたものが宗教と考えるなら、それで十分じゃないですかね。
というか、①だけあって、②や③が働かない文化は破滅して残らないと思うんですよ。
だから現在のクラブ文化が、どこまで②や③を意識できるかで、破壊的な終わりを迎えるか、社会に必要なものとして維持されるかというところが変わってくるのかなぁと言う気もします。
私は数年前にカウンセリングの勉強をしていたことがあって、
その時の男性の先生が、私のスピリチュアル的な性質が気に入らないらしく、
ちょこちょこ矯正しようと小細工をしていました(笑)
なんかね、「虹ってすごく美しくてロマンチックなんだけど、あれは単に水蒸気と光の反射でナンタラカンタラ」とか言ってくるのね。
「だから何?」ですけど(笑)
水蒸気と光の反射だろうが何だろうが、
「美しい虹や夕焼けを見て、これまでグチャグチャ悩んでいたことがどうでもよくなった」なら、それ以上何があるの?と思いますけど(笑)
まぁだから「スピリチュアル的な現象とか科学で解説できる意味のないことだよ」みたいなことを暗に言いたかったみたいなんですけどね(笑)
ま、「中2病なんだなぁ」と思いますけど、そういうこと言ってくるのって(笑)
それ言ったら、小説なんて読む意味ないし、オーケストラなんて必要ないし、演劇も映画も必要ないし、絵を描く必要も写真を撮る必要もないでしょ。
先の僧侶の脳波の解説している科学者とか、ちょっとそういう臭いがしちゃうのね、偏見かもしれないけど。
水蒸気と光の反射が、とか、幻聴が聞こえる脳波が、とかで全部終了すると思っているなら、真っ暗な部屋でパソコンに向かってコンピューター言語打っているだけでいいじゃん、と思うわけですよ。でも実際の人生そういう風になってないじゃん(笑)
ま、私はこういう人たちを「俺は男だバカ」と呼んでますけどね。
最近は「お理工さん(おりこうさん)」というネットスラングがあるようですが(理系の男性が文系の女性を見下したがる傾向を揶揄している)。
で、逆に、「人間は本来宗教的な要素(変性意識状態や信仰の対象)を必要としているがゆえに、宗教を必要とする」という認識を非常にうまく使っている例が、
萩尾望都のSF漫画『マージナル』(小学館)です。
砂漠のアラブ風の民族文化の中での迷信に満ちた混乱や個人的な愛憎劇と、地球を管理する高度な科学文明を持つ地球外人類による「カンパニー」の場面が交互に展開され、
それらがやがて、過去の疫病によって女性が生まれなくなり、男性しか生きることができなくなった不毛(マージナル)の地球を、すでに地球外に移住していた地球発祥の人類が、卵子を提供して体外受精で子供を作り出すことで地球人類を維持し管理している…という壮大な背景の物語に収束していきます。
その中で非常に興味深いのが、「マザ」というすべての地球人類を生み出す母なる女性。地球は女王蜂を頂点とするミツバチのような社会が構成されており、マザは神のような信仰の対象であるのだが、実はマザは本当の女性ではなく、「カンパニー」が選んだ少年に手術で女性のような胸を作り、祭事儀礼以外は眠らせて保管している偶像である、という点。
なぜ、このような仕組みが生まれたのかと言うと、男性だけの社会をやっていると、時折生まれる女性性の強い個体を「マザ」として祭り上げるような事態があちこちで自然発生してしまう。だから、それらが野放しになって破壊的な状態にならないように、カンパニーが管理する必要性が生まれた、というもの。
まぁ、このSFの設定の荒唐無稽さとか、カンパニーによってマザにされる個体に対する非人道性とかは、いったん置いといて、
「スピリチュアルに対するマウンティングとしての科学」を展開するなら、
このくらいのことは考えてほしいなと思うわけですよ。
この『マージナル』という作品の中にも、文化人類学者が登場して、この男性社会の中に入り込んで生活しながらいろいろ苦悩しているのですが、萩尾望都氏ご自身が文化人類学を学ばれたんだろうなぁと思います。
人間には変性意識状態であるとか、宗教的な信仰の対象が必要であり、放っておくとそういったものを勝手に作り出してしまう。
未熟な人間がそれらを作り出した場合、社会を健全に維持するように機能するかどうかわからない(『マージナル』の他の場面では感応力の高い遺伝子を持つ部族が、時折レミングのように集団自殺行動をとることがあり、危険なため、この遺伝子を持つものは子孫を残すことを禁じられている、という箇所がある)。
このため、社会を健全に保つには人工的に宗教を組織して管理する必要がある、という結論に至った、という筋書き。
スピリチュアルに対抗する科学なら、ここまで考えてから物を言ってほしいんですよ、
ほんとに(笑)
あんたは子供か!と思いますよね。人生を何にも知らんのか、と。
で、先の僧侶のように幻覚・幻聴を見聞きするような状態、変性意識状態で見聞きしたものは、何か意味があるのか、まやかしで価値がないものなのかについて、二つ例を挙げます。
一つ目。
インドの天才数学者ラマヌジャン(1887-1920)。
私がラマヌジャンの存在を知ったのは、藤原正彦・小川洋子共著による『世にも美しい数学入門』(筑摩書房, 2005)から。
2016年には、ラマヌジャンを主人公にした映画『奇跡がくれた数式』も日本で公開されています(映画の原題は"THE MAN WHO KNEW INFINITY"。邦題は、小川洋子氏の小説『博士が愛した数式』をパクっています。数学者藤原正彦氏は、小説の登場人物である数学博士のモデル)。
『世にも美しい数学入門』によれば、20世紀初頭、まだイギリス植民地時代のインドに生まれたラマヌジャンは、天才的な数学の才を発揮し、宗主国イギリスの大学教授数名に自分の研究内容を示す手紙を送ります。他の教授が無視する中、ケンブリッジ大学のG・H・ハーディ教授はラマヌジャンの才に驚き、イギリスに招きます。
それからラマヌジャンとハーディー教授がコンビを組んで、ラマヌジャンが次々と発見する天才的な数学定理を証明していく…ということなのですが、
ラマヌジャンは、これらの偉大な発見を、ラマヌジャンが信仰しているヒンズー教の女神(ナーマギリ女神)が夢の中で教えてくれるものを、朝言われた通りに書いているだけだと述べているそうです。(p.43)
で、私は数学の才ないので数式を見てもラマヌジャンの偉大さがわからないのですが、
以下に、映画『奇跡がくれた数式』のプログラムの説明を引用します(孫引ですみません)。
ラマヌジャン・ハーディ法今日、数学者と物理学者は超弦理論を研究しており、ラマヌジャン・ハーディ法という言語を用いてブラックホールに関連する質量を計算しているが、当然ラマヌジャンの生きた時代には、ブラックホールの存在を知る者など誰もいなかった。彼の考え方はコンピュータのセキュリティで用いられる数学の分野にも刺激を与えており、ラマヌジャンの公式は、数学界への贈り物のような奇跡であると同時に、人類発展に欠かせない未来へのヒントにもなっている。
(『奇跡がくれた数式』劇場用プログラム, ㈱KADOKAWA, 2016, p9,
引用箇所の出典 著:ロバート・カニ―ゲル, 訳:田中靖夫, 「無限の天才 夭折の数学者・ラマヌジャン〈新装版〉」, 工作舎, 1994/2016, p.384)
二つ目。
アリス・ウォーカー著 小説『カラーパープル』("THE COLOR PURPLE" , by Alice Walker, 1982)。
黒人女性のセリーが、人種と性別による2重の抑圧を受けながら、自分自身の愛と信仰を見出していく物語で、1983年にピューリッツァ賞と全米図書賞を受賞しています。
(暴力描写が冒頭含む随所にあるので、繊細な体質の方は閲覧注意。)
私が持っているのは集英社文庫版ですが、その翻訳者柳沢由美子氏による解説から引用(『カラーパープル』, 著:アリス・ウォーカー, 訳:柳沢由美子, 集英社, 1986)。
『カラーパープル』は、踏み台になった側の人間、ウォーカーの言葉で言えば、”大事なことは知らなくてもいいとされてきた人間たち”が、アリス・ウォーカーという媒体を得て、自分の体験を語った記録とも言える。ウォーカーがニューヨークに住んでいたときには現れてこなかったこれらの人々の霊魂は、彼女がサンフランシスコ郊外の、山や海に恵まれた自然の中に居を移すと、頻繁に現れ、語りかけてくれたという。実際、ウォーカーはこの本を書くために机に向かったことはないと話している。朝食のテーブルでとか、人と話している時に思いついたことを新聞のはしやティッシュペーパーのきれはしなどに書きとめておいた。あるときは部屋の本棚のあたりからセリーの話が聞こえ、あるときは散歩しているときにミスターの声が体の中から湧いてくる。ウォーカーは、こうして自分に語られた言葉を書き綴ってこの本を書き上げたという。魂たちの言葉はみなパーフェクトで、自分は何も書き加えるものがなかったと語っている。本書の巻頭と巻末にある言葉は、まさに霊媒の役割を果たしたアリス・ウォーカーが、目に見えないものに導かれてこの本を書き上げたことを意味している。(p358-359)
巻頭の言葉:
精霊へその力を借りずにはこの本も私も書かれなかったにちがいない(p.3)
巻末の言葉:
この本に現れたすべての人に感謝します。
作者および霊媒の役割を果たしたアリス・ウォーカー(p356)
柳沢由美子氏、私の大好きな翻訳者の一人で、氏の翻訳による外国書籍はどれも良書。
(フィクションでは『おばちゃまは飛び入りスパイ』シリーズなど。)
この『カラーパープル』の解説文も全文載せたいくらい素晴らしいのですが、論点がぼけるので(というか無断転載になるし)、泣く泣くこの箇所のみ引用。
つまり、アリス・ウォーカーは『カラーパープル』を書くにあたって、自分で試行錯誤して物語を構築したのではなく、(変性意識状態の時に)聞き取ったものを書きとめただけである、という点。
以下、この二つの例を元にした私自身の考察。
例①のラマヌジャンは、自身で仮説を組み立てて計算したり証明したりして数式を発見したのではなく、夢の中でナーマギリ女神に教えてもらったことをそのまま書いたと言っている。
その数式の正しさや価値は、当時はもちろん、100年たった現在においてすらも、認められている。
この場合、「ナーマギリ女神」という存在が、真にナーマギリ女神である必要があるか?
つまり、先の滝行などをしている僧侶が、「仏様を見たor聞いた」と言った場合、「それが幻覚・幻聴であり、意味はない」と断じることが、果たして科学的な態度であるかどうか、ということ。
ラマヌジャンの言う「ナーマギリ女神」が真にナーマギリ女神でなかったとしても、その数式が正しく、圧倒的に価値のあるものであった場合、ラマヌジャンが認識している「ナーマギリ女神」という存在が真にナーマギリ女神であるという必要性はあるのか?ということ。
これは、今現在の偏った文化だとあまり認識されていないように思うのだけど、
スピリチュアルの観点からもいくつかの可能性が考えられる現象で、
ラマヌジャンの言う「ナーマギリ女神」は
①実際に存在する本物のナーマギリ女神であり、ラマヌジャンは女神の御言葉を正しく聞いている。
②ナーマギリ女神よりも下位の存在がナーマギリ女神を名乗っている。
③ナーマギリ女神よりも上位の存在がナーマギリ女神を名乗っている。
④ヒンズー教の中に存在しない霊的な存在がナーマギリ女神を名乗っている。
⑤ラマヌジャンの本質(潜在意識や魂といったもの)が、ナーマギリ女神に投影されている。
まぁ、現代人にとって一番心が落ち着くのは⑤なんじゃないかなとは思いますけどね。
ラマヌジャンはバラモンの階層で、非常に信心深いので、世の中すべてをヒンズー教のフィルターを通してみているわけです。
なので、善なることすべてを、ヒンズー教の神々のおかげだと投影して認識している可能性はあります。
ただ私は、霊的な存在が実在していて、コンタクトできる人がいることも否定しません(ラマヌジャンがそうであるかどうかは私にはわかりませんが)。
ただ、この場合、「ナーマギリ女神が真にナーマギリ女神である」必要性ってありますかね。
そして、それを証明することってできますかね。
私はどちらも「NO」だと思いますけど。
ラマヌジャンの数式の正しさと価値は、「ナーマギリ女神が真にナーマギリ女神であるか否か」によって左右されることじゃないんですよ。
こっちが本質じゃないですかね。
だから私は、滝行をする僧侶が見たもの・聞いたものがなんであれ、それが真に仏様なのかどうなのかは、まったく意味をなさないと思うんです。
ただ、その状態で得たもの(美しいビジョンを見たことによって心が清らかになった、とか、善を説く言葉を聞いた、とかいうこと)が、その人や社会にとって「善いこと」であれば、それ以上何を追求する必要があるのだろう、と思うのです。
例②の『カラーパープル』はさらに面白くて、著者アリス・ウォーカーは、聞こえてきたことを書きとめただけで自分では物語を構築していないと言っている。
ただ、聞こえてきた「声」、『カラーパープル』の登場人物たちの声というものは、いったい何なのか?
『カラーパープル』本編は、登場人物たちの独白が様々に重なって、大きな物語を紡いでいます。
この登場人物たちは、実在した人間なのか?実在した人間が亡くなって、霊魂として存在していて、「聞く」能力を持っているウォーカーに、自分たちの思いを語りかけているのか?
主人公セリーはともかくとして、歌手としてアメリカ中で公演をしたシャグは実在したのか(違う名前を名乗っているとしても)? セリーの妹ネッティーがアフリカに渡った記録は残っているのか?
それとも登場人物にあたる人物はまったく「実在」しなかったのか?
実在しなかった場合、ウォーカーに自分の思いを語りかけてきたものは、「何」なのか?
ちょっと話はそれますが、その昔英語の勉強のためにロアルド・ダールの童話を何冊か読みました。ロアルド・ダールは映画化もされた『チョコレート工場の秘密』が有名です。
確か『THE BFG』だったと思うのですが、なんか空気中にフワフワと漂っているものを、虫取り網みたいなもので捕まえて、瓶につめて棚にしまっておいて、物語を書くときは、その瓶をいくつか選んで中身を混ぜ合わせて一つの本を書くんだよ、みたいなお話しがあったのです。
この童話を紹介した日本の本で(何だったか忘れてしまいました)、これが小説家の小説の書き方です、みたいなこと書いていて、ちょっと印象に残っていたのです。
まぁ、『カラーパープル』のことを思うと、なるほどと思いますけど。
で、戻って『カラーパープル』の登場人物たち、実在した人の霊魂なのか、人間として実際に生きていないけど、『THE BFG』みたいに何か空気中に漂っている「思い」や「イメージ」みたいなものなのか。
それとも、神様がウォーカーに「こういう小説を書かせたい」と思ってこういう形で伝達しているのか。
あるいはラマヌジャンの⑤みたいに、ウォーカーの深層心理が、投影されているのか。
ま、いろんなこと考えられると思いますけど。
ただ、ラマヌジャンと同じで、今現在の科学では、何も証明できません。
で、登場人物が実在した・しない、この物語がどこから出てきたものなのか、は、
この小説の素晴らしさ、存在価値を、左右するのか。
この小説を読んだ時の圧倒的感動は、そういったことで左右されるのか(ま、実在していたら、それはそれでまた別の感動がありますが)。
一つ付け加えると、小説『カラーパープル』は、スピルバーグ監督によって映画化もされています。(主演はウーピー・ゴールドバーグ。)
が、この映画版、概して評価が低く、スピルバーグ監督はこれを失敗したがために『シンドラーのリスト』を撮影するまでアカデミー賞を受賞することができなかった、という言い方をする人もいます。
私はこのスピルバーグ監督による映画版、卒論の資料として読み込んでいたアメリカのフェミニズム史に関する著書の中で言及されているのを読んだだけで、映画自体は見ていません(というか「ぜってぇ見たくない」と思った)。
この本の中で、映画版では最後の方で、シャグが牧師である父親に「許してください」と謝るシーンが出てくる点が批判されている、と書かれていました。
これ、原作版にはこんな箇所ありません。
シャグはいわゆる「恋多き女」で、婚外子を3人出産、その後もたくさんの男性・女性を愛し、歌手として成功し、男性の規範に一切従いません。
原作の中でシャグに関して牧師が出てくるのは1か所、シャグがセリーに、自分の出産の様子を語る場面のみ。シャグが初めて出産する時に信心深い女性や牧師が来て、悔い改めさせようとした、というエピソードだけ。
けれども、スピルバーグ監督は、ここからストーリーを創作して、男性の規範に従わない女シャグの父親を牧師にし、シャグに牧師である父親に謝らせるという愚を犯した。
原作を読んでみるとわかるのですが、シャグは、「キリスト教という『白人』『男性』の宗教」を否定する存在。セリーを、キリスト教ひいては男性や白人の抑圧から解放する存在。
男性の拘束に従わない「ふしだらな女」、というだけでも許せないのに、「キリスト教」という男の宗教まで否定しやがる女は、もう虫唾が走るほど存在を許せないのでしょうね(笑)
なんだったら映画版のシャグの父親、牧師であるだけじゃなく、白人にしたかったぐらいだろうと思いますよ。さすがにシャグは黒人なので理性が止めたのだろうとは思いますが。
ふしだらで、男の拘束に従わず、女を愛し、キリスト教ではない自然な信仰を自分で見つけた黒人女を、「悔い改め」させて「白人の宗教であるキリスト教の牧師」である「父親」に、「泣いて謝らせ」て、スッキリしたんだなぁ、とね。
で、これ、スピルバーグ監督にシャグの父親についてインタビューしても、「芸術的インスピレーション」だとしか言わないだろうと思いますよ。本人も「本当に」そう思っているだろうし。
常に女性を踏みつけていたいという思い、常に黒人を踏みつけていたいという差別意識が、無自覚に表出するんですよ、こういう形で。
こういった例を考えると、「変性意識状態によってもたらされた」ことを理由に、その知識なり見識なりを否定することは、科学的な態度であるとは思えません。
ただし、その得られた知識なり状態が、社会にとって健全な効果をもたらすものであるかどうかを、正しく判断することが必要だと、私は考えます。
『カラーパープル』の、原作の「何も書き加えるものがないパーフェクト」な物語なのか、
自分の無自覚の差別意識(加害意識)が表出したものであるのか。
また、「これまでの常識」が覆されるようのものがもたらされた場合、どうやってそれを評価するのか。
これ実は、立場が逆転しているだけで、宗教(スピリチュアル)と科学の間で何度も起こっている葛藤です。
ガリレオが地動説を唱えてカトリック教会から異端とされたのは有名ですが、
他にもローマ時代よりも格段に技術レベルが落ちた中世ヨーロッパでは、ローマ時代の水道橋などの遺跡は、「人間にこんなものが作れるわけがない。これは悪魔が作ったものだ」と言われていたとか(これちょっと出典確認していないのでアレですが)。
いや、あんたたちのレベルが落ちただけやろ、と現代人は思うのですが。
この遺跡の話なんかは、今聞くと本当に誰でも笑っちゃうと思うんですよ。
でも今、科学と宗教(スピリチュアル)が逆転して同じことが起こっていることに、気づいてほしいと思います。
つまり、ある種の無知で愚かな人というのは常にいて、その人が権威側に立って、自分の知らないことを否定する、ということが繰り返されている。
中世ヨーロッパにおいては、宗教(スピリチュアル)が権威側であり、地動説やローマの技術を否定した。
現代においては、科学が権威側であり、変性意識状態によってもたらされる知識や状態を否定している。
私が批判しているのは、「科学そのもの」ではなく、無知で愚かな人が権威側に立って自分の知らないことを否定する姿勢です。
「幻覚・幻聴の出る脳波です」と言って何かをわかった気になることの愚かしさに、気付いてほしい。
人間はそもそも変性意識状態になることが必要な生き物だと、私は思います。
その状態を、社会を健全な方向に発展させていくために、どうやって利用していくか。
スピルバーグのような加害意識を膨張させる発露ではなく、ラマヌジャンのような素晴らしい発見や、人の心を豊かにし元気にするような芸術や、思いやりや一体感を育むもの、ストレスを発散して気分を一新させるもの、そういった社会をよりよい方向に前進させるための力を持ったものとして、どうやって活用するか。危険性をどうやって排除するか。
既存の常識が破壊されるような大発見があった時、既存の社会の在り方さえも覆されるような事実がもたらされた時(ガリレオの地動説のように)、それを否定することなく、誠実に検証し、社会に反映していくためには、どうしたらいいのか。
顕微鏡の中だけを覗いて、モニターの動向だけを見て、何かが完了すると思うのではなく、
顕微鏡の中から知りえたこと、モニターの動向から知りえたことと、社会をどう整合させ、社会全体がより良くなるように活用していくか。
これは、理系の世界単体で答えがでるものではなく、文系の世界と照らし合わせて、一見まったく違ったものと思われていた二つから、何か一つの共通する像が浮かび上がるかのように、解が見いだされるものなのではないかと思っています。
そこまで考えて初めて科学的な態度と言えるのではないかと私は思います。
蛇足ながらまとめておくと(お理工さんは文章が読めない人が多いので)、
ラマヌジャンを例にとると、
『ラマヌジャンは、「ナーマギリ女神が教えてくれた」という数式を発表した。』
この場合、
①数式が正しいことは、ナーマギリ女神が存在することを意味しない。
且つ、
数式が誤っていることは、ナーマギリ女神が存在しないことを意味しない。
②ナーマギリ女神が存在することは、数式が正しいことを意味しない。
且つ、
ナーマギリ女神が存在しないことは、数式が誤っていることを意味しない。
③一つの数式が正しいことは、ほかのすべての数式も正しいことを意味しない。
且つ、
一つの数式が誤っていることは、ほかのすべての数式も誤っていることを意味しない。
という点を認識していただくと良いのかなと思います。
お理工さんがよく引っかかって失敗するのが、②。
「ナーマギリ女神なんて幻覚・幻聴だ」と言ったところで、数式が正しいことが数学的に証明されれば、数式は正しく、有用なものであることに何の問題もない。
にも拘わらず、ナーマギリ女神の存在を否定することで、数式も丸ごと否定してしまう。
ナーマギリ女神の存在の真偽を問うことがそもそも誤り。
「なんちゃってスピリチュアル」とか、カルト宗教にはまる人が大抵失敗するのが、③。
一つ正しいことがあったからと言って、その宗教や教祖の何もかもすべてが正しいわけではない。
一つ一つの事例を、これは正しいか誤りかを検証する必要がある。
私自身は、霊的な存在を否定しませんが、今はまだそれを議論できるほど世の中が成熟していないと感じています。
まずお理工さんが②に引っかかってスピリチュアル全否定するのをやめて、
「変性意識状態でもたらされたものであっても、社会に有益な情報がある」ということを、
世の中が認識すること。
そのうえで、その状態でもたらされた情報の真偽を一つ一つ調査する冷静さを持つこと
(「なんちゃってスピリチュアル」が見ていないものでも見たと言い張るので
こんなことになっているのだと思いますが。マリア様を見たとか龍神を見たとか。
マリア様も龍神もいいので、もたらされた情報の真偽を確かめよう、ということです)。
その状態を経過して初めて、「霊的な存在はあるのか」「あるならどういう状態で存在しているのか」を検討することができるようになるのではないかなと思います。
古代ローマの科学技術より何段階もレベルダウンした暗黒の中世ヨーロッパでは、ローマの技術を理解するための基礎知識すらなかった、というのと同じで、ある程度の土台がないと、それ以上の知識を理解しようとすること自体がそもそも無理、みたいなことになるので。
ま、これはあくまでも私の見解です。