もだえ神
って、聞きなれない神様ですね。
この言葉、
私が尊敬する二人の作家さんを通して
知りました。
石牟礼道子さんと、
石牟礼道子さんの言葉として紹介した
三砂ちづるさん。
石牟礼道子さんの地元では、
他の人の悲しみや苦しみを、
我がことのように受け止めて
身悶えして悲しんだり苦しんだりする
心優しい人を、
「もだえ神様」と言うのだそうです。
何にもできずに、
ただ自分を苦しめて
泣くことしかできないような人を、
それでも、
「あの人は神様だ」とありがたく思うような、
そういう土地柄なのでしょう。
三砂ちづるさんのエッセイの中で
(何の本だったか忘れてしまいました)、
育児に悩むお母さんたちの集まりで、
若いお母さんが
不安や悩みを打ち明けていた時に、
その場にいた知的障害の男性が、
「苦しいね、苦しいね、」と言って
おいおい声をあげて泣いた、
というエピソードがありました。
(記憶で書いているので、
言葉や表現が違っているかもしれません。)
一方その場に男性の大学教授もいて、
女性的な感情を吐露する場が
居心地悪かったのか、
知的なアドバイスや批判をする。
でも、その場にいた人たちは、
知的障害の男性が声をあげて泣いたことに、
何か、慰められたような、
あたたかい空気を感じた、
ということでした。
この男性のような人を
「もだえ神様」と称するのだろう、
と紹介されていました。
(記憶で書いているので、以下同)
*******
なんか最近、自分のことを、
もだえ神様だな、と思うのです。
いや、偉いとか立派とか言う意味じゃなくて。
世の中のいろんなことが苦しくて、
でも、自分には何もできない。
だから、鬱になって寝込む
(最近は減りました)。
こんな無力な自分じゃいけないと責めたりする。
でも、たぶん、
「私はそのことを知っている」と言うだけで、
きっとそれは大きな違いなのだと思う。
東日本大震災の後、
私は鬱病になって自宅療養しました。
いろいろな事情が重なっていました。
闘病生活はお金がかかるので、
親からお金をもらうようになります。
今日〇〇のために1000円ください、
みたいなことになります。
病院に行くために通る地元の駅では、
ある時から私と同年代の男性が
『ビッグイシュー』の販売を
するようになりました。
私には当時350円のビッグイシューを買うお金が
ありませんでした。
そして私は、
その男性の前を素通りすることが
できませんでした。
それは、
「あなたなんて知らない」
=「あなたなんて何の価値もない」
というメッセージを発することになるから。
私は見栄っ張りなので、
無収入で親から少額の小遣いをもらっていても、
働いていた時に買った
かっちりしたトレンチコートを着て
歩いていました。
そういう
「お金を持っているように見える私」が、
ビッグイシューを買わないのは、
「あなたに興味がないから」
としか見えないだろう。
だから私は、
その男性の前を通ることができなくて、
遠回りして別の道を歩いていました。
震災や、長年の経済・政治の過りによって、
職を失って、
私はたまたま親に頼ることができただけ、
それだけの違いでしかないものを。
数年していくらか回復した時、
私は、社会貢献を熱心にしている会社に
就職しました。
私のような元鬱病患者や
(まだ完治していませんでしたが)、
ホームレスの人、障害のある人、
犯罪歴のある人も
積極的に採用することを掲げている会社でした。
1年くらい働いて少し慣れた頃に、
気安く話をさせてもらっている
採用担当の若い人に、
このビッグイシューを売っている男性の話を
しました。
年がたつごとに体調が悪化しているように見え、
不安でした。
ホームレスも採用すると言っているけど、
住む場所がない、スーツがない、
保証人がいない状況で、
この会社は採用する可能性があるのか、と。
その若い担当者は、
「正直たぶん難しいと思います」と答えました。
その会社は、日報の中で、
会社に対する改善案なども
提案する決まりになっていました。
それで、こういう事例があるので、
古いスーツを社内で集めたり、
保証人の制度を作ったりしてはどうかなどの
提案をしました。
そしたら上司が速攻ですっ飛んできて
(上司は準役員くらいでした)、
「かわいそうだから、という理由で
採用はできない」と言われました。
ただ、能力のある人は以前採用したことがある、
とのことでした。
まぁ、営利企業なので、
それならそれで仕方ないな、と思ったのです。
本来は政府がやることなのだから。
社会貢献や慈善事業のために
経営が破たんするのは
営利企業としては間違っている、と
さんざん社長も言っていたので。
この会社はこういう方針で、
できるだけのことをやっているのだから、
今の私にできることはここまでだろう、と。
そうして社会復帰しようと必死で働いている間、
その販売員がいる駅を使っていませんでした。
そして、ある時その駅を通ったら、
その人はもういませんでした。
おそらくは、死を選んだのだろう、と思います。
他の駅で、ビッグイシューを売っている方で、
しばらくいなくなって、
でもまた販売をして、という方がいました。
その方は、すごくエネルギーのある感じで、
仕事を得ることができたら仕事をして、
職を失ったら販売員をして
がんばっているのだなという印象を受けました。
でも、私の地元の駅にいたその人は、
だんだんにビッグイシューを売る気力も
失っているようでした。
もしかしたら、誰か助けてくれる人がいて、
どこか別の場所で元気でいるかもしれません。
でも私は、きっとあの人は死を選んだのだろう、
と感じました。
別に、あの会社が彼を殺したとも思わないし、
私が彼を殺したとも思いません。
鬱病上がりで再就職したばかりの私に
できることは限られていたし、
あの会社は営利企業として
できる範囲のことをしていた。
ただ、私は、
あの人があの場所に立っていたことを
覚えています。
もう何年も経ったけど、私は覚えています。
私は、「あの人を知らない」とは言いません。
同じ場所を通る時、
私は神様に
「私はあの人がここにいたことを知っています」
と言います。
私は今までに何もできていません。
でも、いつも、
「どうしたらあの人のような苦しみ方をする人が
いない世の中を作れるだろう」
と思っています。
多分その思いがあるとないとでは、
いくつかの選択肢が目の前に現れた時に、
何を選ぶのかが違ってくるのだろうと思います。
例えば選挙の時に。
例えば何を言うか言わないか、
という判断の時に。
*******
森友学園に関して文書改竄をさせられ自殺した
近畿財務局の赤木さんの裁判が始まりました。
私は何もできないけど、
それでも、「それを知らない」とは言いません。
私はこのことを知っていて、見ていると、
私は言います。
誰も見ていないと思うなよ、と思います。
宇都宮けんじさん応援のフリーバナーでも、
素敵な言葉がありました。
「私たちは微力だけど無力じゃない」。