2021年2月11日木曜日

なんちゃってスピリチュアルのこと

 アメリカ大統領選挙にまつわるQアノンとか、Jアノンとか、
なんかいろいろ来るところまで来ちゃったなぁと思って、
いろいろ心が重かったのですが、
ちょっと一度書いておかないといけないなぁと思っていたことを、
書いてみたいと思います。

私は「なんちゃってスピリチュアル」って表現してますけどね、
そういう、天使が~とか、光が~とか、救世主が~とか、オーラが~とか、
そういう表現を使って「遊んでいる」人たちについて、
私なりの考えを書いてみたいと思います。

私は以前のブログにも書いたように、
子供の頃から演劇をやっていて、憑依型の役者だったので、
なんというか、言語で表現できる世界を超えたもの、というのをたくさん体験した結果、
スピリチュアル系の人間になりました。
だからと言って役者が全員スピリチュアル系になるわけでもありません。
あと、私は別に何も見えないし聞こえません。

「スピリチュアル」という言葉の定義すら、
今となっては、「なんか地に足がついてない非現実的なことを言う人たち」、
みたいな雰囲気になっていて、
私としては、ちょっとこんな風になってほしくなかったなぁ、と思うところです。

「霊的な生き方」という言葉すら、もう怪しい言葉になってしまっています。
要するに、「人間の本質的なところを見つめて、より良い生き方を探る」姿勢であると、
私は思っています。

ただ、ここまで「愛」とか「光」とか「オーラ」とか「闇との闘い」とか、
なんかそういうスピリチュアルワードみたいなもので
キャッキャウフフしている人たちがいて、
そういう人たちがQアノンとかJアノンとかに流れ込んでいるらしい、というのを
ネット上で見ると、正直途方にくれます。
(あとなんか知らないワードがどんどん発生していて怖い(笑)
「ディープステート」とか「ケムトレイル(?)」とか何?
うっかりググって変なもの見ると精神やられて寝込みそうだし調べるのも怖い(笑))

前に、「なんちゃってスピリチュアル」のうさん臭さ、
既視感あるなぁと思って思い出したものがあります。
もうかれこれ20年以上前ですかね、『週刊SPA!』という雑誌で、
「クラバカたちの〇〇(←忘れました)」という特集記事があって、
そこに描写されていたクラバカ(クラブにたむろするバカ)と同質なものでした。

この記事によれば、クラブでは若い人たちが派手な格好をして派手に騒いで一流のアーティストであると名乗っているとのこと。
でも実際は、「映画監督」を名乗っているけど、映画を一本も撮ったことがない、とか、
「美容師でロンドンのサスーンで修行(当時ヴィダル・サスーンがおしゃれだった)」と
言っているけど、多分何もしていない(店の前を通ったことがあるくらいじゃね?)とか、
「建築家」を名乗っているけど工事現場でブロック塀を積んでるだけ、とか、
そんな奴らばっかりだよ、という内容の記事でした。

この記事読んだ当時、私もまだ若かったので、
まぁこの自分を少しでも大きく見せたいという若さ特有(?)の虚栄心みたいなもの、
私の中にもかなり生息していて、
「あ~私もこの世界にいたらこういう嘘ついていただろうなぁ」という
すごく痛い気持ちになったことを覚えています。
いやまぁ若くても虚栄心のかけらもない立派な方もいるんだろうと思いますので、
あくまでも私の場合と、この雑誌で語られている人たちの話ではありますが。

ま、このクラバカの人たちがそう見せ掛けようとしていた
「社会の裏も表も知り尽くした遊び上手な一流アーティスト」とか、
そういう人たちが集まる知る人ぞ知るスポットとか、
どっかには実際に存在したんだろうとは思いますよ、日本かどうかは知りませんが。
ダイアンのラップワンピとか、そういうところで生まれたと聞いてますし。

この『SPA!』の記事みたいに、
見る人が見たら「お前は違うだろ!」みたいにすぐバレる嘘、
でもそのグループ内では必須の嘘、みたいなのが、
この「クラバカ」も「なんちゃってスピリチュアル」もすんごく同質に感じられる。

あと、バブルの頃には「猫みたいな女の子ブーム」とかいうのがあったそうですね。
バーのカウンターで「あたしってぇ、『猫みたい』って言われるのぉ」と自ら言う女性が
たくさんいたのだとか。
何かで読んだだけなので、実際は知りませんが。
まぁ目の前の女性にそんなこと言われたら「走って逃げろ!!!」ですけどね。

あと近年感じたのが、「余命3年のナントカ」さんの真似してるようなネトウヨとか。
「余命3年のナントカ」さんも読むと精神病みそうと思ったので読んでないのですが、
多分そのあたりの「世の中の人が知らないことを知っている重要人物だった隠居爺」みたいな芸風と言うか文体を真似してるんだろうなぁという雰囲気の、おそらくは若い男性。
(菅野完さんのツイッターをずっと見ていたので、菅野完さんがそういうのを好んでおちょくっていたのを興味深く見ていました。)

なんて言うんですかねぇ、このあたりのことって、実際の人生を失敗している人が、
「このジャンルでなら成功者になれる!!!カリスマになれる!!!」みたいな感じで
大挙して押し寄せているように感じるんですよ。
「ブルーオーシャン見っけた~!!!」みたいな感じで。
(「人生失敗していてスピリチュアルな人」とか、まんま自己紹介みたいで自分で書いていて痛いですけどね私。私は「なんちゃって」じゃないスピリチュアルやってるつもりなんですが。)

あとまぁ私が本当に勘弁してほしいのは、日本会議系(?)の人たち、
やたらと日本の伝統とか神道とかを持ち出すような人たち、
何をどうしたら神道が「善」とするものとトランプさんが合致するの???
むしろ対極じゃないですかね。
私も無責任に「神道が『善』とするもの」なんて書き方をしてしまいましたけどね、
神道は「言葉」すら使わないじゃないですか、
聖書とかコーランのように「このようにしなさい」みたいな文書化したものないんですよ。
それが何をどうしたら「俺はすごいんだ~!!!」しか言わないような人を、
立派な人だと思えちゃったり、闇と戦う救世主だみたいな扱いできるんですか???
神道とか日本の文化がもっとも忌み嫌うタイプじゃないですかね。

世の中に何にもわかっていない人が山ほどいることは知っているし、
存在していること自体は問題じゃないです。
でも、神道がどうとか日本の伝統文化がどうとか言いながら、
トランプさんにOK出せる人は、本当にアウトです。
勘弁してほしいです。その一線は越えてほしくないです。
幼児が存在することは当たり前だし、刃物が存在することも当たり前ですが、
幼児に刃物持たせるのは、社会としてやめさせる必要があると私は思います。
わからない人にわからないこと語らせちゃいけません。
小学生が危険物扱う大学の研究室に入っちゃいけないのと同じことです。

*******

以下は私自身の苦い経験、後悔を伴った経験をお話しします。

私は芸術活動を通した体験と、南の島でイルカと泳いだりした経験などを通して、
スピリチュアルに傾倒して、ずいぶんたくさんのスピリチュアル系の本を読みました。
いわゆるトンデモ本というか「これちょっとおかしい」というのもたくさんありますが、
心から素晴らしいと思える本もありました。
もう10年以上も前ですが、そのうちの「これは鉄板」と思えるいくつかを、友人にも薦めていたのです。

そういうスピリチュアル系の良書を通して、
より良い生き方を模索していくことができると、純粋に思っていました。

大切な友人で、たくさん挫折を経験した人がいて、
彼女は私が薦めた本を一生懸命読んでくれました。
それが彼女の人生を良くするだろう、と思ったから私は薦めたのですが、
思ったようにはなりませんでした。
彼女はいろいろスピリチュアル情報を集めてその中で遊び始めてしまい、
結局、現実逃避のための依存の道具にしてしまいました。

本質的な、心を整えて正しく生きる、弱点を克服する、とかそういう部分ではなく、
〇〇天使が、とか、ドラゴンが、とか、〇〇次元が、とか、
付随的な知らなくてもいい情報、まがい物があふれている情報の中に耽溺してしまいました。
もともと恋愛依存体質だった彼女が、スピリチュアル依存に移行しただけでした。

私や心ある旦那さんの忠告はもう耳に入らなくなってしまい、
ある一線を越えてしまったので、
私は今生でのご縁を終わりにする、と告げて関係性を断ちました。

なんというかね、本質的なところでは、「失敗する自由」を認めるというのですかね。
これ説明するのが難しくて誤解を生みやすいのであんまり文章化したくない部分ではあるのですが、「親が、子供が失敗しないように先回りしすぎると子供が健全に育つことができない」みたいなことが、魂の経験にもあって、本人が痛い思いして懲りるしかない、という部分は確かにあるんです。
だから、「あなたが心底『もう地獄にいるのは嫌だ』と思ってそこから這い上がってくるまで、待つしかない」、と伝えました。

ただ、私はこの体験、本当にこたえました。
だから、私はもう未熟な人にスピリチュアル系の話をするのをやめました。

数年前にも、私が海とかイルカが好きと聞きつけて話しかけてきてくれた女性がいて、友達になったのですが、彼女も危ないと思って深い話はしていません(笑)
女性は結構、敏感な体質と言うか、都会の雑踏にいると具合が悪くなるとか、海に入ると不思議と楽になる、とかそういうのを自覚している人がいて、彼女もそのタイプ。
だから、海とかイルカとかの話はするし、旅先でちょっと既視感を感じた、程度の会話はOKですが、それ以上の話は一切しません。
そっちの方向に向かって背中を押すと危ない人だなぁと感じたので。


あと、私が実際に会った「失敗しちゃったね」という人の例をいくつか。

私がうつ病からの回復途上で、いろいろ習い事とかお話会とかに参加していた時期に、
あるダンスのクラスに参加しました。
そのダンスの先生は『アミ 小さな宇宙人』を読んでいたく感動したようで、
『アミ』に書かれているような、この世界を良くする活動をしたいと思っているようでした。ま、言ってしまえば「スピリチュアルリーダーになりたい」ってやつですね。
(ちなみに『アミ』は名著で(3巻目だけちょっとおかしいけど)、私がかつて人に薦めていた鉄板本のうちの一つです(笑))

で、アミの本に書かれているマーク(ハートに羽が生えている図)を入れ墨したそうです。
入れ墨好きな人は一定数いるんで彫りたきゃ彫ればいいと思うし、
お気に入りの図柄がそれならそれでいいけど、
アミのマーク彫ったからと言って、アミが言わんとしていることを本当に理解したとか、そのメッセージをいつも心に抱いて生きるとかは、まったく別なことなのね。
ただアミに感動してマークを入れ墨したということをSNSにあげれば、「すご~い」という反応はあるだろうし、ダンスの生徒さんも「すごいですね」と言うとは思うよ(笑)

で、その先生のレッスンに通っていた当時、小林麻央さんが闘病中でした。
ダンスのクラスの生徒さんで、お子さんが麻央さんのお子さんと同じクラスの方がいたようで、ある時、ダンスの先生から、「今度の満月の夜に麻央さんが元気になるようにお祈りしましょう」みたいなメールが来ました。

あぁ~ちょっと勘弁してほしいなぁ~と思いました。
曰く、その生徒さんを通して千羽鶴送りたいとか打診したけど、先方はもうたくさんいただいているので結構です、ということで、代わりに、満月には力があるのでみんなで一斉にお祈りしましょう、ということでした。
いやね、病気で苦しんでいる方の回復を祈るのは全然いいんですよ。
ただ、「なんで有名人なの?」と思っちゃうのね。

小林麻央さんのご家族とか、ご親戚とか、ご友人とかが、「元気になるようにたくさんの人に祈ってもらいたい」という気持ちになるのは全然いいんですよ。当然のことです。
ただ、そのダンスの先生が「麻央さん」の回復を祈りたいのはなんでなんですかね。
いや、ダンスの先生は「私も同じ子供を持つ母親として」と書いていましたけどね。

私はそのメール来た時に、麻央さんが回復して、「皆様のおかげで元気になりました」と、千羽鶴やら贈り物に囲まれて微笑んでいる様子がテレビで放送されて、
誰にも知られることなく母親が亡くなったほかのお子さんが「どうしてこの人はみんなに応援してもらえたのに、僕のママは誰にも応援してもらえなかったんだろう」って気持ちになる図が思い浮かんじゃって、胃がぎぃ~って痛くなりました。
愛してくれるご家族がいればまだしも、孤独で、場合によっては十分な医療費を払える経済力もなく、病で亡くなる方は、本当にたくさんいるだろう、と思うのです。

麻央さんは、本当に見事な御最期だったと、伺っています。
私だったら弱さや卑怯さに負けて、とても到達できないであろうところへ達した方だと、いろいろな方のネットの記述で読みました。
そういうご立派さとは、まったく別の話として、
おそらくは、誰からも知られていない人の中に、そういう見事な御最期を遂げた方が、
たくさんいらっしゃるのだろう、と思います。
あるいは、充分な医療、充分な愛情を得ることができれば、その域に達することができたはずの方が、たくさんいらっしゃるのだろう、と私は思います。

だから「ご立派な麻央さんに何ていうことを言うんだ!」みたいな話とは別の話として、
頼むから、『アミ』を読んで感動した、というような人には、
せめて、「麻央さんのことで病気で苦しんでいる人がいることに気付いた。満月の力を借りて、麻央さんや、ほかの病気の方が元気になるようにお祈りしましょう」と言ってほしかったんですよ。
「麻央さんにはたくさんの人が千羽鶴を贈っているので、私達は、ほかの人たちに鶴を一羽ずつ贈りませんか」という話だったら、私は喜んで徹夜して100羽200羽折りますよ。
それに、遠くの他人を思うまでもなく、数十人いるダンスの生徒さんの中に、「家族が・親戚が・友人が、同じ病気で」という方、きっといたと思うんですよ、私は新入りだったんで知りませんが。

大変申し訳ないけど、その先生が元気になった麻央さんと海老蔵さんに囲まれている写真をネットにアップしたいんだなぁと、感じずにはいられませんでした。
元気になった姿として、ダンスのクラスで麻央さんが一緒に踊っている姿をイメージしても構いません、とか書いていたので(それが本音だよねってやつですが)。

私は、こういうことを見るのが、心底辛い。

スピリチュアルであるということは、「満月は祈りの力を大きくしてくれます~」とかそういうことを言うことではなく、「同じ子供を愛する一人の母親として」みたいなことを言うことでもなく、
ただ、「自分の成功のために、有名人の不幸を利用しようとしている自分に気付いて、立ち止まること」です。
誰にでもあるんですよ、なんとかこの壁を乗り越えて成功ルートに乗りたい、みたいに焦る時が。その時に、人の不幸でさえ、自分のチャンスと感じてしまうような、利己心が暴走するということが、誰にでもあるのです。
それが完全にない、ということは、普通の人間には難しいことなのだろうと私は思っています。マザーテレサとか、中村哲医師のようなレベルにならないと無理なんだと思います。
だから、そういう利己心があること、動いてしまうことをもって、非難はしません。
ただ、そういう利己心が自分の中にあることを知っていて、それが動き出した時に気付いて、立ち止まること。自制すること。
私はその努力をこそ、スピリチュアルであると認識しています。

まぁ、ほかにもいろいろ気になった点があったので、
そのダンスクラスは半年後の発表会の参加をもって退会しました。
うつ病でいろいろ自信をなくしていた時期だったので、ほかの皆さんと一緒に発表会に参加させてもらえたことで、ずいぶん心の回復につながりました。
すごく芸術的なセンスが高く、教え方も上手な先生だったので、
初心者の私でも、とても良い発表をすることができて、とても感謝しました。

で、その一年後くらいですかね、その先生とはフェイスブックでつながったままだったのですけど、辞めてから音沙汰なかったのに、突然「いいね!リクエスト」が送られてきて(笑)
ま、その年も発表会やるのでそれについて「いいね!」をするように、ということだったのですが。

本当にここまでくると笑うしかないっつーね。
一体『アミ』の何を読んだんでしょうね(笑)

フェイスブックであろうが何であろうが、
「何を良いと思うか」は、完全に私の心の自由なのね。
ましてや、「何を良いと思い、それを世間に向けて意思表示するかどうか」も、
完全に私の意思決定によるものなんですよ。

あなたは何が偉くて、私に「良いと思いなさい」、「良いと思ってそれを世間に示しなさい」と指図するんですかね(笑)

これがものすごい無礼で、相手を見下していることだと、わからない人はちょっとやばいのね(笑)
感情の自由という最低限の尊厳さえ、ナチュラルに踏みにじれるとか、どうなの(笑)

仮に大手のプロダクションがその先生に「うちでアーティストとしてデビューしませんか」と声をかけてきた、とか、
出版社が「本を出しませんか」と声をかけてきた、とか、
海老蔵さんが「麻央のことを応援してくださったそうで…」と声をかけてきたとして、
フェイスブックでもつながったとしてもさ、
定例の発表会があるという連絡を、いきなり「いいね!リクエスト」ではしないでしょ(笑)
「私はこういう考えでこういう活動をしていて、今度それについての発表会がありますので、もしよろしければご覧いただければ幸いです」的な文章で送るでしょう(笑)

なんで私には突然「いいね!リクエスト」をボーンと送ってくるのさ(笑)
「最近いかがですか」的なお伺いすらなく、リクエストだけ突然(笑)
まぁ個人で商売立ち上げて、ネットを使って営業している人はたくさんいるんで、
そういう人同士が、「お互いにいいね!しあって、営業協力しましょう」みたいなことしてるなら別にいいんだけど、私はその先生に「いいね!リクエスト送っていいか」の確認をされたことがないのね。

そもそも論で、私はレッスン代という形で彼女の生活費の一部を払った「客」なのね。
彼女が求めているのが、大手のナントカから華々しくデビューすること、とか、
セレブの仲間入りをすること、であったとしても、
現金収入をもたらすのは「一般人の客」なのね。

「セレブはチヤホヤするけど、あなたは一般人なので見下します」みたいな意思表示をしちゃダメでしょ。
スピリチュアル以前に、商売としても、人としても(笑)

日本の商業伝統で、七面倒くさい定型文がやたらめったらはびこっているのは、
こういう失敗をやらかさないためなんですよ。
本音は「私の商売に金を払いなさい」「私の商売の宣伝をしなさい(タダで)」であったとしても、そういうわれて金払う客はいないのね。
「あなたを大切に思っているので、私の提供する商品(サービス)が、あなたを幸せにすることを願って、ご案内します」という体をとるのさ。
島国で、評判落ちたら商売終わり、な環境で発達した文化だと勝手に思ってますけど。

フェイスブックとかさ、「アメリカという歴史の浅い国」の「若造」が作った、
幾重にも礼儀知らずのシステムなのさ(笑)
うかうか乗っかるなよ、そういうのに。
「いいね!リクエスト」というツールがあっても、「日本でこれ使うと多分ヤバいね」という判断が効くのが大人なんじゃね?と思います。
アム〇ェイみたいなネットワークビジネスとかさ、アメリカではどうか知らないけど、
日本社会には向いてないな、とか、あるでしょそういうの(笑)

態度に出さなかったので、私が「こいつクソだな」と思ってやめたのを知らないとしても、退会した人に発表会の宣伝するなら、「その後いかがですか?」から始まって、
「〇〇さんが退会して早一年ですね。今年も発表会があります。昨年〇〇さんと一緒のチームだった△△さんは、今年は上級クラスでの発表です。……」みたいな文章になりませんかね。
そういうメールもらったら「あの時腹立ててやめちゃったけど、お世話になった△△さんお元気かなぁ」とか思って、「ちょっと見に行こうかな(金払う)」とか、「見に行けないからせめて『いいね!』しとくか(宣伝する)」になりませんかね。
ま、私の場合ですけど(笑)
一度離れた顧客を再取得するために、一般企業がどういう営業かけてるかっつー話なのね、身も蓋もない言い方すると。

私も東日本大震災の時の海外の反応を見るまで、日本の「礼節」と言う文化がどういうものなのか理解できなかったのですが、
やたらと定型文とかはびこって、決まりごとがいっぱいあって、めんどくさいことこの上ないぐらいに思っていたのですが、
「相手を思いやる気持ち」「相手を大切に思う気持ち」を表すやり方が積み重なって、型になったものなんだなぁと思うようになりました(合っているかどうかはわかりませんが)。

その人が心の中で私のことをどう思っているかはその人の自由だけど、
「私はあなたを見下しています」というのを、わざわざ私に対して直接表明してほしくはなかったな(笑)

だからまぁ、「人類愛が」とか、「光が」とか言う前に、
そういう足元に転がっている先人の知恵というか、「あなたを蔑ろにはしません、大切に思っています」という意思表示のツールを、少し勉強して身につけたほうがいいんじゃね?と思います。
セレブじゃない人でも心から大切に思えるようになれれば、礼儀作法をわざわざ学ぶ必要すらないけど(笑)そもそも論で。

スピリチュアルに限らず、なんか「入門者」とか「初心者」がよくやる失敗だなとは思いますけどね。
「私はほかの人が知らないすごいことを知ったから、ほかの人より偉いんだ!!」みたいな思い違いは。
ただ、こういう土台のところで間違ったまま、「私は光の戦士です~」みたいな高揚感で突っ走っちゃったのが、安倍昭恵さんとかQアノンとかJアノンなのかなぁと思ったので、
敢えて強く書いてみました。
失敗しちゃった人の例何人が書くつもりだったんだけど、1人の人で長くなっちゃったのでやめました。

っていうか、ここまで長々書いてきて、今更だけど、
私が自分の信念としているものを「スピリチュアル」と表現することをあきらめればいいだけなのか?もしかして。
ネトウヨが「愛国」とか「愛国者」とかいう言葉を彼らのものにしてしまったがために、
本当に自分の国を愛して諸々を憂えてきた人々ではなく、
ただ差別をし弱いものを叩いて快感を得ることを目的としている卑怯者の屁理屈を表す言葉になってしまったように、
「スピリチュアル」という言葉も、私が「なんちゃってスピリチュアル」と呼ぶ人たちが、
現実逃避をして妄想の中で自分はすごいと思っていることを指す言葉であると、
「もうそうなっちゃっているんだから仕方ない」とあきらめて、
私はほかの言葉に乗り換えればいいんだろうか。
「霊性の向上」とかももうすでにヤバい言葉になっていそうだし、
「精神の修練」とかだと朝から鉢巻して井戸水かぶってそうだし、
なんか、適切な表現ありますかね。
ちょっと検討してみます。