2021年3月25日木曜日

生理について 特に生理痛について

今に始まったことでは決してありませんが、
日本の状況、政治や社会のこと、女性をめぐる「男性側の問題」、
次から次へと問題が表面化しています。
まぁ問題が表面化すること自体はいいんですよ、表に現れないほうが悪いので。
ただやっぱりそういう問題と向き合うのは、ものすごく大変で、
私は言語化できるようになるまでに、ものすごく時間がかかります。
だいたい鬱になって寝込むからスタートします(笑)

というわけで、昨年来、ブログの記事にしたいと思いながら
なかなか文章化できないでいることが山ほどあるのですが、
今回は、そのごく一部分、比較的ネガティブな感情に負けず、
共有するのが早いほど役に立つ可能性があることだけをピックアップして
記事にしたいと思います。

私自身が長年生理痛に苦しんだ経験から、
生理痛について、もしかしたら改善のヒントになるかもしれないと私が思っていることを
書いてみたいと思います。
私は医師でも医療関係者でもありませんので、医学的な裏付けはありませんし、
医学的な治療をやめなさいという話でも全くありません。
日常生活の中でこういうことに注意をしたら、少し過ごしやすくなるかもしれない、というレベルの話ですので、現在医学的な治療を受けている方や、これから受けようと考えている方は、きちんと治療を受けてください。

*******

私は長年冷え性で、生理痛もかなり重い方でした。
大学生の時に構内で、生理痛で気を失いかけて保健センターに運ばれ、
その先生方の勧めで病院通いを始めました。
病院通いをしながら自分もいろいろ調べ、自分自身の体の反応を見ているうちに、
最初は大学病院で西洋医学と漢方を併用していたのが、
やがて漢方薬に(西洋医学つまり医師免許を持っている医師で、漢方治療を専門にやっている先生と出会い、保険診療で漢方薬を出してもらっていました)、
その後鍼灸治療をメインにするようになりました。

女性の諸々の不調には、どちらかと言えば東洋医学の考え方があっているように感じます。
私は食事も漢方の考え方を取り入れて、体を温める食べ方をするようになりました。
また、冬場はスカートをはかずにズボンや靴下で足腰を冷やさないようにするなど、
生活の仕方も変えていきました。

私はもともと母が冷え性で、生まれた時からの冷え性(先天的冷え性)、
かつ、実家が東京の中でも寒い地域だったので中学高校の制服でも冷え(友達と「寒くて骨が痛い」という会話をしていました)、
さらには大学時代にドルフィンスイムにはまって無理をしてでも海で泳ぎまくり、芯まで体を冷やしてしまいました(後天的冷え性)。
海で冷したのはまぁ自業自得なので仕方ないですね。

生理痛は本当に地獄で、私の体感としては次のような表現をしていました。
腰骨の出っ張ったところを鉄のかぎづめで下にギリギリと引っ張られ、
その痛みで背骨がギシギシする。
そして骨盤の底(おなかの底)を、鉛の玉がゴ~ロ、ゴ~ロとゆっくり転がり、
鉛玉が動くたびに血管や神経がブチブチとつぶされて、重く深い痛みが続く。
鎮痛剤を飲んでもすぐには効かず、鎮痛剤を飲んでから、一度痛みで気を失って、
目が覚めると痛みが少し収まっている(薬が効いた)というような感じでした。

とにかく辛いので、良くなる可能性があるなら何でもするという感じでした。

ただまぁ、冷え性に関しては私がかかった漢方の先生は、
「冷えを取るには冷した年数分かかる」と言っていたので、
私は20年かけて冷し20年かけてだいぶ楽になったなぁ、という感じです。
もともと体が強い方で、ちょっと無理して1年間で思いっきり冷しちゃった、みたいな方は、回復も早いと思いますが、
私のように元来冷え性で虚弱体質、かつ病気に無知で無理をしていると、
体質を改善するにはそれ相応の時間がかかるようです。

衣類でガードして「外から冷やさない」(特に下半身)というのと、
真夏の熱中症対策以外は冷たいものを飲み食いしない「内から冷さない」というのは、
ノーリスクでできることなので、女性はできるだけなさると良いのではないかと思います。

特に、日本ではどういうわけか、飲食店では通年氷の入った水を出されるので、
本当に真夏の熱中症対策以外は、
冷たい水を当たり前に飲むのも気をつけたほうが良いと思います。
大戸屋さんとか、冷たい水とあったかいお茶と選べるところでは、
「必ず」あったかいお茶を選んでいただきたいなぁと思います。
昔読んだところでは、中国人の男性と付き合っている女性が、
レストランで氷の入った水を出されて、
その男性に「そんなものを飲んではいけない!」と氷を捨てられた、
というエピソードがありました。
今現在は知りませんが、中国では東洋医学が生活の中にきちんと浸透していて、
何が女性の体に良くないか男性もよくわかっているということなんだなぁと感心しました。
日本ではそういう情報がほとんど共有されていないので、
最初の水はおろか、冬場でも氷入りの冷たい飲み物普通に注文している女性が多くて、
見ている私が怖くなります。
飲み物のアイスかホットかを選択するのはほとんど同料金なので、
ホットを選んでいただきたいところです。

あと、近年、鍼の先生からうかがった話では、
生理の時はすごくたくさんミネラルが必要になるのだそうです。
子宮内膜が剥がれ落ちて液体の状態で排泄されるのが生理ですが、
その子宮内膜をはがして液体の状態にするときに
たくさんミネラルを消費するんだそうです。
ミネラルが足りないと、力ではがして排泄することになり、それが生理痛なのだそうです。
まぁこの話は鍼の先生から聞いた話というだけで、ソース確認していないので、
参考程度に聞いていただければよいかとは思いますが。

で、鍼の先生のおすすめのミネラル補給方法は、「ぬちまーす」という沖縄の塩。
(これ似た名前で「シママース」という塩ありますが、似て非なるものなので注意。)
ぬちまーすは、沖縄の海水から水分だけ取り除いた塩で、ほかの塩よりミネラル分が豊富。
私も数年前から使っていましたが、お値段もほかの塩よりはるかにお高いので、
確実に食べる分のみに使っています(菜っ葉ゆでるとかパスタゆでるとかは普通の1㎏150円の生協の塩(笑))。
お値段250gで1080円。高っ(笑)。
あんまり置いているお店ないので通販がいいのかなとは思います。
新宿だと京王百貨店の上の方に沖縄グッズのお店があって、そこで扱っています。
通販は包装とかDMとかめんどくさいので、
新宿使う方でしたら、お店で買った方が手間が少ないかもと思います。
京王百貨店のこのフロアは、富澤商店も入っているので、
新宿使っていた時は、よく食材仕入れに行っていました。

あと、これは私が聞いた話をいろいろつなぎ合わせて考えただけなので、
あくまでも参考程度に考えていただきたいことではあるのですが、
海藻について。

以前、出産直前の韓国の女性とお話ししたことがあって、
その方が、韓国では、出産の前後にワカメをたくさん食べさせる、と仰っていました。
私が東洋医学の食養生で参考にしていたのは、中国の医療ですが、
中国だとどちらかというと、虚弱体質や産前産後・病後などには、
鳥とか豚とかの骨付き肉にクコの実や生姜を加えて煮込んだスープ、
みたいな動物性のものがメインという印象でした。
ワカメってなんかあんまり栄養ないような気がするんだけど…と聞いたときは感じたのですが、後になっていろいろ思い起こしてみると、
日本でも共通するようなこと確かに言われていました。
日本では、海苔とかワカメとかの「黒いもの」を食べると黒髪が美しくなるという言い方をしていました(まぁこんなの昭和生まれの人しか知らないと思いますが)。
子供の頃にそれを聞いたときは、なんかそういう安っぽいダジャレみたいなのどうなの、
口に入れたワカメがそのまま生えてくるわけじゃないんだからさ、と思ったものでした。
ただ、20代以降、自分が体質改善のために東洋医学を勉強しだしたら、東洋医学では、
「髪は血の余り(血余)」という言い方をするということを知りました。
どういうことかと言うと、体調が悪くなって血液が不足すると、
生命を維持することに体が集中するので、髪が抜けて生えてこなくなる。
ある程度体力がついて回復するとまた髪が生えるようになる、ということを表しています。生命維持に最低限必要な分の血液が足りていて、余った分が髪として生えているよ、
という認識です。
で、私はこの人生で出産をしていないので、実体験では知りませんが、
出産で出血したり、母乳育児をしていると(母乳はもろに血液なので)、
髪が抜けるという話はよく見聞きします。

なんかそういうのがぽろぽろと思い出されて、
「あれ、もしかしてこれって、みんな同じこと言ってる?」と思い至ったのです。

私は東洋医学も西洋医学も医師の資格もっていないので、ソースはなく、
ただの個人の推論にすぎません。
なので、医療の代わりには決してしないで、
「生活の知恵をちょっと聞いた」くらいのこととして聞いていただきたいと思います。
ただ、
「出産・母乳育児には血液をたくさん消費する。」
「日本では産後、髪が抜ける女性が多い。」
「韓国では産前・産後にワカメをたくさん食べさせられる。」
「日本では海苔・ワカメなど黒いものを食べると黒髪が美しくなると言われていた。」
「東洋医学では『髪は血の余り』と言われている。」
と並べると、ワカメなどの海藻には、血液を作るのに必要な栄養素が含まれているのではないか?と思われるのです。

あと平安時代とかだと、やんごとなき女性は髪を最大限伸ばしていて、
髪の長さや量、美しさが女性の価値、みたいなことになっていました。
「髪は女の命」みたいな言い回しもあって、なんのこっちゃと思っていたのですが、
これってつまり、髪が豊かで美しいっていうのは、
血液が豊富で健康状態が良い、ひいては妊娠出産に適している、
ということなんじゃないかと思い至ったわけです。
まぁ令和の時代に言うといろいろ問題がありますが、
過去において、健康な子供を産むことが至上命題だった時代が長きにわたってあり、
どういう状態であれば、健康な子供を産むことができるか、というのが、
いろんな形で伝わっていたのだろうと推測します。
やんごとなき女性が、自分で母乳育児をせず、乳母に任せていた、というのも、
母乳育児をするとすぐに妊娠できないというのもありますが、
髪が痩せるからというのもあるのではないかと思います。

まぁなので、鍼の先生から聞いた生理の時にミネラルを大量に必要とするよ、という話と、
ワカメなどの海藻類は血液を作るのに必要なんじゃないの?という話、
なんかどっちも「ミネラル?」という気がするのです。
まぁそれ以外の私にはよくわからない成分もあるのでしょうが。
なので、ミネラル補給を目的に「マグネシウム〇㎎」「鉄〇㎎」とかしか書いていないサプリメントをとるよりは、
海藻類とかぬちまーすとか、他のよくわからない成分が入っていそうな「食品」を日常生活に取り入れることを考えていただくと、害が少ないのではないかなと思います。
あと体に必要なものって「おいしい」と感じるので、妙な中毒や依存症状が出ているのでなければ(甘いものとか辛いものとかアルコールとかジャンクフードとか)、
「おいしい」「もっと食べたい」と感じるものを食べると良いのかなと思います。

私が個人的におすすめなのは、あおさ海苔とアミエビ。
あおさ海苔はみそ汁にそのまま入れるだけなので、ワカメみたいに戻したり切ったりする手間がなくて楽ちん。
というか、私があおさ海苔を異常においしいと感じるので、多分ワカメより私に必要な成分がたくさん入っているんじゃないかと勝手に思っています。なのであくまでも「個人的おすすめ」(笑)
アミエビは、私みたいにビンボー暮らしが長い人でなければ、桜エビですかね(笑)
桜エビ替わりに使っていますが、桜エビよりかなり安いので、ケチらずに使えます。
あおさ海苔・アミエビ(桜エビも)、どちらも富澤商店で大袋で売っています。

料理学校に通っていた時に、中華料理で小松菜と干しエビの炒め物というのがあって、
すごくおいしかったのですが、中華食材の「干しエビ」って高級品です。
一緒に料理していた年配の女性が「これ家で作るなら桜エビでいいわよね」とポロッと仰っていて、私は「そうですよね」と言いながら内心「私はアミエビだな」と思っていました。
まぁもちろん干しエビ・桜エビ・アミエビ、みんな風味は違いますけどね。それぞれに美味しいですよ。
あと桜エビや油揚げを使った炊き込みご飯というのも習いましたが、これもとても美味しかったので、私はアミエビで作っています(笑)。
学校で習ったのは、桜エビの美しい色を生かすべく、薄口醤油を使った春のお料理だったのですが、私は薄口醤油も常備していないのでアミエビと普通の醤油で作ってます(笑)
普通の醤油使う場合は、醤油は香りづけ程度に少なめにして、ぬちまーすで塩味を補強すると、やたらと茶色い料理にならずにすむと思います。(私も昭和の育ちなので、醤油と砂糖の甘辛味とか茶色い料理とか、結構トラウマであんまりおいしいと感じないんです。)
この炊き込みご飯、お弁当やおにぎりにして持って行っても食べやすいですし、
冷蔵庫に入れておいて、忙しい時や体調悪くて料理できない時でも、レンジであっためると美味しく食べられます。
学校のレシピ載っけるわけにいかないので、レシピ出しませんが、
似たようなものはネットや市販の料理本にもあるかと思いますので、
お料理お好きな方はいろいろお試しください。

桜エビ・アミエビあたりは、タンパク源としては頼りない感じはありますが、
殻ごと食べるので、カルシウムとかいっぱい入ってそうな気がします。
(いや、これもちゃんと調べていないので「気がする」だけです。)

そんな感じで、20年以上にわたる冷え対策と、ここ数年の食養生と、あと鍼に通ったりいろいろな要素が複雑に関連しているとは思いますが、
生理痛の痛みそのものは、本当に楽になって、ほとんど鎮痛剤を飲まないで生理を過ごせるようになりました。

ただ、私は鍼の先生曰く「生理の血と一緒に『気』も流れちゃう」らしく、
痛みはないけど、気が遠くなってぐーぐー眠ってしまう、みたいなのが残っています。
東洋医学で言う「気」って、生命エネルギーみたいな感じですかね。
東洋医学は「気・血・水を整える」という考え方をするのですが(水はリンパ液みたいなもの)。
私はこの「気」の流失をしやすい体質で、
生理もそうだし、汗を大量にかいたりすると(これも皮膚表面が緩んでいる(虚している)という症状なのですが)、一緒に気を流失しちゃうみたいで、
ダルくなって動けなくなったり、眠り込んだり、うつっぽくなったりします。
まぁ、もともとがひどい虚弱体質で冷え性で、
冬は毎日カイロを何個も貼ったり、
体重が37kgぐらいまで減ったり(身長161cm)したこともあったので、
本当にそれを思うと、よくここまで元気になったなぁと感慨深いし、
今ちょっとそっと不完全でも、焦らず少しずつでもよくなっていこう、
と思ったりしているところです。

あ、あと「気の流失」とか、「気虚(気が足りなくなる)」ということに関しては、
お日様に当たるのが一番いいみたいです。
日本人女性、本当は日に当たった方がいいです。紫外線とかいいですそんなの、真夏の熱中症の危険がある時以外は。
日本人女性は、私を含め「陽の気が足りない(すごい大雑把な言い方をすればプラスのエネルギーが足りない)」状態になりやすいです。
特に自分に自信がない人、被害者になりやすい人、泣き寝入りをしがちな人、心配性な人、うつっぽい人なんかは、そうだと思ってください。あと依存体質とか嫉妬(憧れではなく)とかもそうです。
もう、お日様に当たってください。タダです、お日様は。
で、少し元気になったら、お肉を食べる量を増やしてください(肉食向いていない人もいますが、ほとんどの日本人女性は動物性たんぱく質足りてない傾向にあります)。
まずお日様。
猫になったと思って、猫のように毎日日向ぼっこしてください。
あるいはスマホを充電するがごとく、日光を吸収してください。
通勤時に意識して日向歩くだけで違います。昼休み屋上でお弁当食べるとか。
私は公園の芝生で編み物したりします。便利です編み物。一人で座っていると間が持たないことってあるかと思いますが(笑)
あと新宿をよく使っていた時は、新宿御苑の年間パスポート持っていました。
成城石井とかで安くなってるお弁当とか買って、新宿御苑の芝生やベンチで食べていました(笑)
私は喫茶店とかに入ると、人の会話とかなんかイライラしたエネルギーみたいなのにやられちゃうので、人混みをさけて安全スペースを確保する努力をしていました(笑)


あと、先ほど漢方についてちょっと書いたので、補足しておきます。
日本では東洋医学がきちんと理解されていなくて、
西洋医学の勉強しかしていない医者が、平気でめちゃくちゃな漢方薬出して来るので、
病院を選ぶときは注意が必要です。
漢方と西洋医学の診療はまったく異なる体系なので、
脈を診る、目の下を診る(あっかんべーの形)、舌を診る、おなかを触診する(痛みや張りなどを触って確認する)などの漢方の診療方法をとらない先生は、
少なくとも漢方薬をきちんと出すことはできない先生だと思ってください。
基本、飲んでまずい漢方は体にあっておらず、毒です。
まずい漢方薬を出す医者はやぶ医者だと思ってください。次の時に「まずくて飲めませんでした」と言ったら「あ、ごめんなさい」と言って薬を替えてくれる先生は大丈夫です。
私は最初大学病院でツムラの漢方薬を処方されていましたが、
まずくてどうにも飲めない薬を「良薬は口に苦しって言うし」と思って我慢して飲んでいたら、胃が痛くなって食べられなくなりました。
漢方の名医を見つけてそこにかかるようになってから、
その薬のことを伝えて「これは出してほしくないです」と言ったら、
「あなたならそうでしょうね」と言って、すごくおいしい薬を出してくれました。
ちなみにその時飲めなかった薬は当帰四逆加呉茱萸生姜湯(とうきしぎゃくかごしゅゆしょうきょうとう)、漢方の名医が出してくれたのは人参湯(にんじんとう)に附子(ぶし)を加えたもの。あと十全大補湯(じゅうぜんたいほとう)とか。
当帰四逆加呉茱萸生姜湯は冷えがある人の生理不順など「婦人病」の薬とされていますが、私よりも体力ある人向けの薬。
当時の私は冷え切って体力も最低レベルだったので、最低レベルの人向けの人参湯(高麗人参)にさらに附子(トリカブト)を加えたもの。十全大補湯は体力落ち切っている人に対して十種の生薬が全てを大きく補うという処方(と以前聞きました)。
薬の効果で体力が上がってくると、体力のある人用の薬が美味しく飲めるようになります。
ちなみに風邪薬として有名な葛根湯(かっこんとう)も、体力ある人向け。
当時私が風邪を引いた時にその漢方の名医が出していたのは、真武湯(しんぶとう)という普通の人が危機的状況に陥ってもう脈拍落ちてきたくらいの時に気付けに使うような薬(笑)。その先生も「危機一髪っていう時に使う薬よ(笑)」って言っていました。
そのくらい体力なかったです、私(笑)
今でこそ笑い話ですが、15年くらいお世話になっている鍼の先生も、
私の一番最初の診立ては、「枯骨様所見(かれぼねようしょけん)」だったそうです。
生きているんですが、死んで白骨化した骨みたいに固くて弾力性がなく生命力に乏しい体、という意味です。

いや、ひどかったですね。
そんなんでもがんばって生きて、仕事して、がんばって自分を労わって、治療して、
偉かったな私(笑)
いまだにこの人生で何にも成し遂げていませんが、
ここまで元気になったことがすごいことだなと、今改めて思いました(笑)

なので漢方薬については、本当に漢方の診立てをできる先生を見つけるのが難しいかもしれませんが、「不味いものは毒」と思って、たとえ大学病院で出されたものでも、
ご自身がまずいと思えば飲むのはやめたほうがいいと思います。
まぁもちろん、外科手術とかある種の難病とか、大学病院というか大病院でないと難しい治療というのはありますので、適切な役割分担ができればいいんじゃないかなとは思いますけどね。
事故やケガとか、現代社会からなくなることはないですし。
ただ私個人は、人生の比較的早い段階で、大学病院の先生だからってすごいわけじゃないんだということを実体験で知ることができたのは、良かったと思っています。
変な権威主義に陥らないですんだので。
ま、でも本当に数年前にも父が軽い皮膚がんで、大学病院ですごくきれいな手術をしていただき(皮膚のしわまできれいに再現してくださいました)、その後の経過観察も丁寧にしていただいたので、良い病院、良い先生にめぐり会えたことを、家族一同感謝しました。
その先生やその病院の得手不得手を理解して、こちらが対応すればいいのかなと思います。
それこそ漢方の名医のいる大学病院もあるでしょうし。
※今治療中の方は、いきなり大学病院の治療をやめるみたいなことは絶対にしないでください。もし不満足な点がある場合はセカンドオピニオンというか、いくつかの信頼できそうなところを探して比較検討し、慎重に対処してください。

2021年3月18日木曜日

【追記】シャーマニズム、クラブ、演劇、あるいは『マージナル』

 先日、本編の記事をアップした後にふと思い至ったのですが、
「虹は単に水蒸気と光の反射で~」とか言っていた男性は、
NHKの僧侶の脳波を調べる番組を見ていたようです。

虹の話と一緒に、
「イエス・キリストが神秘的なことを言ったり行ったりしたのは、
十字架刑の身体的苦痛によってもたらされた反応だ」みたいなことを言っていて、
あんまりにもバカ過ぎる発言なので晒しちゃかわいそうだと思って書かなかったのですが、
後になってふと思えば、論の立て方がNHKの番組とまったく同じでした。
NHKが仏教の僧侶だったから、イエス様に話を延長しちゃったのかなぁと推測しますが、
NHKの番組の話をツイッターで見た時に、
真っ先にこういう事態が生じることを危惧していました。
ほんとにこういうバカ増殖装置みたいな番組、無責任に放送するなよNHKと思いました。

まぁ信仰心とかがこれっぽっちもない人でも、
ちょっと落ち着いて考えればわかることなんですよ。
イエス・キリストが素晴らしい言動をして人々から絶大な支持を得たのは、
十字架にかけられる「前」。
十字架刑による苦痛によって初めて神秘的なことが起こったのなら、
それ以前はいい歳して定職にも就かずにフラフラ旅してるただのヒッピーおじさんじゃん。
なんでそんな人をわざわざ権力者が十字架にかけるのさ。
ほっときゃいいし、そもそも権力者がその存在を知ることもないだろうさ。
何もない時から、行く先々で素晴らしいことを語り成してきたからこそ、人々の圧倒的な支持を集めた。その影響力を脅威と感じて初めて、権力者がとらえて刑に処した。
何も素晴らしいことをしない人に、12人も弟子が付くわけないじゃん。
ちょっと落ち着いて前後関係を考えれば、「あ、、、」ってわかるはずなんですよ。
逆に、十二使徒の存在も知らないほどキリスト教に無知なら、言及すんなって話でね。
こういうの、ものすごく危ないことなのね。

「なんちゃってスピリチュアル」がトンデモなことをわぁわぁ言って現実から乖離するのも本当に危ないんだけど、
こういう「自分は理性的で迷信に惑わされない」とか思っちゃっている無知で傲慢なだけの人も本当に危ないのね。
どっちも同じなんですよ。

まぁ、「素晴らしい人」に出会ったことがないんだろうなぁ、と思います。
今期のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で、
徳川慶喜(草彅剛)と平岡円四郎(堤真一)の出会いのシーンが本当に素晴らしかったのですが(主人公パートはクソだけど)、
これが、「人が素晴らしい人に出会って心酔する」場面そのものでした。
草彅剛さんとんでもない気品で驚きました。
堤真一さんの芝居が浮かないほどの、圧倒的な気品と存在感。
あまりにも素晴らしすぎて、この場面だけ何度も再生しました(笑)

ただまぁ、残念なことに、素晴らしい人に出会ってもわからない人っているんですよね。
多分、草彅剛扮する徳川慶喜が、堤真一扮する平岡円四郎を召し抱えたのも、
「こいつはわかる奴だ」と感じたからだろうと思います。
万人がわかるわけではないのですよ、残念ながら。
万人が素晴らしい人を素晴らしい人だとわかるのなら、
イエス・キリストを刑に処すことできないのね、役人が恐れおののいちゃって。
ある程度の人間修行というか、人生経験というか、そういった蓄積がないと、
わからないものみたいです。とても残念なことに。

まぁ大河ドラマはしょせんドラマですけど。
ただ、そういう脚本や演技や演出が成立するというのは、
大なり小なり「そういうことがあるものだ」という認識があるからだと私は思います。

私は以前大変驚いたのですけど、
上橋菜穂子著『鹿の王』を読んでもその素晴らしさがわからなかった人がいて、
絶賛おすすめした私に「読みどころってどこなんですか?」と聞いてきた人がいます。
その人はいい歳してほとんど悪意のない、かなり「善い人」。
私は挫折とかうつ病とか、やりたくてしているつもりはなかったのですが、
人生経験が足りないと素晴らしいものを読んでも感動できないんだなぁと妙な感慨を受けました。まぁ本人が今幸せならそれはそれでいいのかもしれませんが。


私は本編記事でも書いたように、科学と宗教(スピリチュアル)は対立するものではなく、
補完し合うものだと考えています。
もちろん「なんちゃってスピリチュアル」やカルト宗教は害悪ですが、
精神性への敬意を欠いた科学偏重も度が過ぎれば害悪です。
生命への敬意を欠けば医学の名のもとに731部隊やナチスの人体実験にまで発展するのと同様です。

私が過去に習ったバレエの先生で、少女漫画から抜け出てきたのかと思うほどかわいらしくて、花柄の巻きスカートを巻いたりしている美女なのに、
理科室にあるような骨格模型を持ってきて、骸骨ガチャガチャさせながら、
「背骨ってこういう風に曲がっていて、だから背中をまっすぐにするというのは…」とか
「股関節というのはこういう風になっているから、足をあげるときには…」みたいに説明する先生がいました。
また、声楽の先生でも、カラーの人体解剖図持ってきて、「肺はこうなっていて息を吸うとこうなって、さらに横隔膜がここにあって、これを押し下げることでさらに容積を大きくすることができて…」と説明する先生もいましたし、
頭声を使う発声法の本では、頭部の断面図に、「どこに向かって息を当てれば、どの音が出るか」みたいなのが、放射線と音符で図解されていたりします。私も高音が出きらない時は、後頭部を指で押さえて息を当てる方向性を調節したりします。
ま、何の話かと言うと、芸術を芸術として高めるために医学を参照しているよ、という話です。

一方で、声楽やバレエが、医学や自然科学ときちんと向き合うのは、ただ超高音を突発的にポンと出すためでも、世界で一番足を高くあげるためでもなく、
あくまでも芸術を芸術として表現するためです。
また逆に、その最高の一点を達成するためという意味で興味深いのは、
ジャック・マイヨール氏の活躍で有名になった潜水競技。
タンクなしで、一呼吸でどこまで深く潜れるか、という競技ですが、
その人間にとっての究極の深度、一点に到達する時に、
瞑想状態というか、海との一体感というか、何か宗教的な心理状態が必要になるということもあります。酸素の消費量が格段に変わってくるからです。
私は競技潜水はやっておらず、あくまでも遊びの範囲の素潜りしかしませんが、
それでも、自分が海と一体になったような感覚に陥ったとき、いつまでも潜っていられた経験があります。

だから、芸術をやっているからと言って、蝶よ花よと浮世離れしたことだけ考えているわけでは決してありません。
医学的な知識を活用して、レベルを上げる努力をしているわけです。
対立構造ではないのです。

一方で、人体はどこまでの深海に耐えうるのか、みたいなことも、
精神性に左右されるのです。

どうして対立を煽ろうとするのだろうかと、思います。
なぜ科学を使って宗教(精神性)を否定しようとするのだろかと思います。
深い精神性によって何がもたらされるのかを、科学で用いて調べて、社会をよりよくするために還元すればいいのにと思うのですが、なぜ否定するための道具として使おうとするのか、理解に苦しみます。

私はよく「偽善と欺瞞」という言い方をしますが、
大義名分を自分の目的のために使っているだけの人が、いつの時代にもいて、
時代によってその道具が変わるだけだと思っています。

マザーテレサや中村哲医師がよりどころとしたのもキリスト教ですが、
魔女狩りによって無辜の人々を虐殺したのもキリスト教ですし、
布教を口実として各国を侵略したのもキリスト教です。
社会の不平等を是正しようとした共産主義も自分の権力のために利用すれば歴史が証明したような結果をもたらします。
自分の利益しか考えられない人だらけの現在の資本主義も同じことです。
私に「虹が」「イエス・キリストが」と言った男性は、科学的というよりは、そもそも「スピリチュアル女ざまぁ」みたいに女性を踏みつけていたいというのが本音だと思うし、
「なんちゃってスピリチュアル」の記事で書いたダンスの先生も、「治癒の女神・救済の天使」みたいな役どころでセレブに取り入ろうとしただけで、スピリチュアルとはかけ離れた欲が本音だと思います。
正直、どっち側にも出ます、こういう人たちは。科学の側にも宗教の側にも、フェミニズムの側にも(残念ながら物事がわからない人はどこの世界にもいます)、どんなイデオロギー側にも出ます。
もともと強い立場にいた者がさらに相手を叩くためにも使いますし、
弱者であった者が強者に成り代わるための道具としても使います。

私がこれをいろんな場面で厳しく言うのは、
この「きれいな言葉で自分の邪念を言いつくろう」ことが本当に危ないと、
この人生で何度も経験したからです。
幸いというかなんというか、私は害を被っただけで、自分が加害者にはなっていませんが。
私の人生は何度かめちゃくちゃになりましたが、自分が他人の人生をめちゃくちゃにする後悔からすれば、はるかに楽な立場であることは重々承知しています。

日本語で「魔が差す」という言葉がありますが、
こういうところから、どんどん道を誤って転がり落ちていきます。
最初の一点、「イエス・キリストの布教活動と十字架刑の前後関係を確認する」とか、
「病気の人を救いたいというより自分がセレブに取り入りたいだけなんじゃないかと自問する」とか、そういう「一呼吸置く」ことをすれば、踏みとどまれることなのです。
転がり落ちる勢いは強いものなので、この落ちる直前に冷静になることが、本当に大きな違いを生みます。

それをせずに、自分の欲望や邪念を美辞麗句でごまかしていると(自分自身も他人も)、
今の日本の政府みたいに醜悪な有様になります。
まぁ見ている人にはわかりますよ。「思いっきり嘘ついてやがるな」と。
醜悪で目を背けたいだけならまだしも、人が死にますから、今のコロナ禍のように。
日本の戦争もそうでしたし、オウム真理教の事件もそうでした。

私は、人間には自己中心的で未熟な欲望はあるものだと思っています。
ただ、それが暴走して人を害し自分の自尊心を傷つける前に、
踏みとどまる努力をすることが私たちにできる大切なことだとも思っています。

2021年3月10日水曜日

シャーマニズム、クラブ、演劇、あるいは『マージナル』

 私の大好きなオーディション番組『Got Talent ゴットタレント』シリーズ、
いろいろ語りたいことあるのですが、
今日は、宗教と科学についての私の見解の説明に最適な動画、
ご紹介したいと思います。

最近「ジェフの翻訳チャンネル」さんが日本語訳をつけてくださっているので、
そちらをご紹介させていただきます。



↑私がもともと見ていたのはこちらの動画。14:36くらいから登場

オレナ・ウタイさんというロシア北東部サハ共和国出身の女性が、
伝統的な演奏を披露しています。
鳥の鳴き声に始まり、馬が駆ける様子やいななきなどを表現します。
最初は「この聞きなれない音は何?これは音楽なの?」と戸惑っていた会場の人たちが、
あれよあれよという間に熱狂的に踊りだします。
祭りです。パーリーです。クラブです。

後ろの観客を立たせて踊らせるデイビッド。
こういうところ大好き。

舞台袖の幸運の妖精アント&デックも踊りだす。

アリーシャとアマンダがシンクロで踊ってるの
マジ可愛い(笑)

これ、本当に興味深いなぁと思って見ていました。
オレナさんは、「シャーマンの伝統文化を受け継いでいる」(上記「ジェフの翻訳チャンネル」2つ目より引用)と語っていますが、
シャーマンの伝統文化が、クラブミュージックなんですよ。

オレナさんご本人はまるで森の女神のよう

私は大学の専攻が文化人類学だったので、こういうのすごく面白く感じます。
多くの現代人は、「シャーマン(祈祷師)」とか言うとすごくうさん臭く感じるわけです。
民族の伝統文化とか、伝統音楽とかも、かなぐり捨ててきた過去もあったわけです。
そして、シャーマニズムなんかきれいさっぱり忘れた都会のクラブで、
そのシャーマンのリズムが自然発生的に生まれて、
何も知らない現代の若者が、かつての民族の祭りで焚火の周りで踊っていた人々と同じように踊り狂っているわけです。

これを見てもう一つ思い出すのが、〇十年前に読んだ『スフィンクス』(著:アンヌ・ガレタ, 訳:吉田暁子, 1991, 新潮社)という小説です。
クラブのDJをやっている性別不明の主人公が、非常に盛り上がった夜のことを述懐する箇所があります。
もう手元にないので、うろ覚えで恐縮なのですが、音楽に熱狂する人々が一つの塊りになって蠢いていて、そこから誰も離れることができなかった、と。一つの生命体であるかのように、一体になって踊っていて、個人の意思ではそこから離れることができないような状態になっていたという描写がありました。

私自身は、実家にいるときは親が厳しくて、働いて一人暮らしをしていた時は体調が悪くて、この手の夜遊びをあんまり経験していないのですが(笑)、
小学生の頃から演劇をやっていたので、舞台でこういうことが起こることを経験していました。
舞台上の自分の感情が拡大して、客席すべての感情と化し、それが大きなうねりとなって圧倒的な強さで一つの方向に(演劇の場合は物語の進行へと)動いていく。
台本のセリフを言っているのではなく、台本の動きをしているのではなく、
自分の口から勝手に言葉が流れ出し、勝手に体が動いている。
舞台上の他の役者の感情、自分の感情、客席の感情、そういったものが一つの大きなエネルギーとなって、意志を持って動いているかのよう。
そしてまた、自分の感情がそれら全体を動かしてもいる……。
演劇好きな方だと、鴻上尚史氏の「第三舞台」という劇団をご存知かと思いますが、
この劇団名の由来は、「役者がいる舞台が『第一の舞台』、客席が『第二の舞台』、そして役者のいる舞台(第一舞台)と客席(第二舞台)が融合して生まれるのが『第三舞台』」だからだよ、と演劇の先輩から聞きました。
この話を聞いた時に、「なんてわかっている人なんだろう」とすごく感動したのを覚えています。


一方で、先日ツイッターでちょっと気になったものが流れていました。
以前、NHKで、修行をしている僧侶の方の脳波を調べるような番組を見たのだけど、
詳細忘れたので情報が探せないがもう一度見たい、というもの。
その番組では滝行やらなにやらしている時の脳波を測って、科学者の人がコメント入れるみたいなものだったようです。
で、ツイッターの短い文章なので厳密にはわかりませんが、滝行とかして何か宗教的なことを話されている状況なんですかね、その科学者の方が脳波見ながら「幻覚です」とか「幻聴です」みたいな冷静なコメントを入れているような番組だったようです。
滝行のような身体的な極限状況で出やすい幻覚とか幻聴だと、科学者が冷静に説明しているような感じだったようです。

まぁ、この情報だけだと、どういう意図のどういう番組なのか(その科学者の意図も)わからないのですが、私が政治やコロナ関連でチェックしている男性のツイッター発信者が複数リツイートしていました。その方々もどういう方向性の興味でリツイートしたのかは、私はわかりませんが。

で、私がこのツイートを見て思ったのは、
「幻覚・幻聴だったら、何なの?」
私からすると、滝行している僧侶の脳波見て「幻覚・幻聴です」と言われたところで、
「息を吸い込むと肺が膨らみ、息を吐くと肺がしぼみます」と言われているようなもので、
「そのこと自体は知っているけど、そのことをもって何を言いたいのだろう、この人は」と思うわけです。

ま、一番初めのオレナ・ウタイさん然り、『スフィンクス』のクラブDJ然り、私の演劇経験然り、私が思うのは、人間は「変性意識状態」になることを必要としている生き物なのではないか、ということです。

私は文化人類学・民族学が専攻なので、民族舞踊とか伝統音楽とか原始宗教とか、とても興味があります。
地を這うような太鼓のリズムが高潮していくさま、焚火、一体感を伴うダンス、どこまでが真実かは私は確認していませんが幻覚作用を伴う薬草などを使うという話も聞きます。
いろいろな地域のいろいろな文化の中にこういったものが存在し、
それらが忘れられた現代の都会では、自然発生的にそれらをまた作り出している。
ただ、現代の都会で生まれたものは、社会を維持するための規制装置が働いていないので
より「快楽」を追求する傾向があり、薬物依存に陥るような合成麻薬を作り出したり、破壊的・破滅的な文化に陥る危険性もはらんでいると思います。

ただ、本来は、滝行のように体を追いつめることで発生するものであれ、
リズムや音楽、光、踊りを用いたものであれ、
あるいはある種の変性意識状態をもたらす物質を用いたものであれ、
そのようなものによって生まれる状態を、人間は必要としていると私は考えます。

それは普段の考え方を超越した考えであったり、個人という枠を超えた一体感であったり、あるいは単にフラストレーションを発散して感覚を一新するということであったり、
そういったことが、人間が健全に社会を営んでいくために必要で、
人間は常にその仕組みを作り出し、維持してきたのではないか、と私は思います。
そのための仕組みが、宗教として維持されている部分があると私は思っています。

先の滝行の僧侶、仏を見たのか仏の声を聴いたのかわかりませんが、変性意識状態になって、普段の常識を超えたものを見聞きして、それで物事が良い方向に動いていくのなら、それに何の問題があるんでしょうね。
あ、こういう言い方しているのは、「幻覚・幻聴だから宗教なんて嘘っぱちだ」とか言い出す輩が少なからずいるからです。

①人間はそもそも変性意識状態になることを必要としている
         ↓
②その変性意識状態を社会が健全な方向に向かうように利用する
         ↓
③そのために危険性を排除すべく方向性を定める

そうして生まれたものが宗教と考えるなら、それで十分じゃないですかね。
というか、①だけあって、②や③が働かない文化は破滅して残らないと思うんですよ。
だから現在のクラブ文化が、どこまで②や③を意識できるかで、破壊的な終わりを迎えるか、社会に必要なものとして維持されるかというところが変わってくるのかなぁと言う気もします。

私は数年前にカウンセリングの勉強をしていたことがあって、
その時の男性の先生が、私のスピリチュアル的な性質が気に入らないらしく、
ちょこちょこ矯正しようと小細工をしていました(笑)
なんかね、「虹ってすごく美しくてロマンチックなんだけど、あれは単に水蒸気と光の反射でナンタラカンタラ」とか言ってくるのね。
「だから何?」ですけど(笑)
水蒸気と光の反射だろうが何だろうが、
「美しい虹や夕焼けを見て、これまでグチャグチャ悩んでいたことがどうでもよくなった」なら、それ以上何があるの?と思いますけど(笑)
まぁだから「スピリチュアル的な現象とか科学で解説できる意味のないことだよ」みたいなことを暗に言いたかったみたいなんですけどね(笑)
ま、「中2病なんだなぁ」と思いますけど、そういうこと言ってくるのって(笑)

それ言ったら、小説なんて読む意味ないし、オーケストラなんて必要ないし、演劇も映画も必要ないし、絵を描く必要も写真を撮る必要もないでしょ。
先の僧侶の脳波の解説している科学者とか、ちょっとそういう臭いがしちゃうのね、偏見かもしれないけど。
水蒸気と光の反射が、とか、幻聴が聞こえる脳波が、とかで全部終了すると思っているなら、真っ暗な部屋でパソコンに向かってコンピューター言語打っているだけでいいじゃん、と思うわけですよ。でも実際の人生そういう風になってないじゃん(笑)

ま、私はこういう人たちを「俺は男だバカ」と呼んでますけどね。
最近は「お理工さん(おりこうさん)」というネットスラングがあるようですが(理系の男性が文系の女性を見下したがる傾向を揶揄している)。


で、逆に、「人間は本来宗教的な要素(変性意識状態や信仰の対象)を必要としているがゆえに、宗教を必要とする」という認識を非常にうまく使っている例が、
萩尾望都のSF漫画『マージナル』(小学館)です。

砂漠のアラブ風の民族文化の中での迷信に満ちた混乱や個人的な愛憎劇と、地球を管理する高度な科学文明を持つ地球外人類による「カンパニー」の場面が交互に展開され、
それらがやがて、過去の疫病によって女性が生まれなくなり、男性しか生きることができなくなった不毛(マージナル)の地球を、すでに地球外に移住していた地球発祥の人類が、卵子を提供して体外受精で子供を作り出すことで地球人類を維持し管理している…という壮大な背景の物語に収束していきます。

その中で非常に興味深いのが、「マザ」というすべての地球人類を生み出す母なる女性。地球は女王蜂を頂点とするミツバチのような社会が構成されており、マザは神のような信仰の対象であるのだが、実はマザは本当の女性ではなく、「カンパニー」が選んだ少年に手術で女性のような胸を作り、祭事儀礼以外は眠らせて保管している偶像である、という点。
なぜ、このような仕組みが生まれたのかと言うと、男性だけの社会をやっていると、時折生まれる女性性の強い個体を「マザ」として祭り上げるような事態があちこちで自然発生してしまう。だから、それらが野放しになって破壊的な状態にならないように、カンパニーが管理する必要性が生まれた、というもの。
まぁ、このSFの設定の荒唐無稽さとか、カンパニーによってマザにされる個体に対する非人道性とかは、いったん置いといて、
「スピリチュアルに対するマウンティングとしての科学」を展開するなら、
このくらいのことは考えてほしいなと思うわけですよ。

この『マージナル』という作品の中にも、文化人類学者が登場して、この男性社会の中に入り込んで生活しながらいろいろ苦悩しているのですが、萩尾望都氏ご自身が文化人類学を学ばれたんだろうなぁと思います。

人間には変性意識状態であるとか、宗教的な信仰の対象が必要であり、放っておくとそういったものを勝手に作り出してしまう。
未熟な人間がそれらを作り出した場合、社会を健全に維持するように機能するかどうかわからない(『マージナル』の他の場面では感応力の高い遺伝子を持つ部族が、時折レミングのように集団自殺行動をとることがあり、危険なため、この遺伝子を持つものは子孫を残すことを禁じられている、という箇所がある)。
このため、社会を健全に保つには人工的に宗教を組織して管理する必要がある、という結論に至った、という筋書き。

スピリチュアルに対抗する科学なら、ここまで考えてから物を言ってほしいんですよ、
ほんとに(笑)
あんたは子供か!と思いますよね。人生を何にも知らんのか、と。


で、先の僧侶のように幻覚・幻聴を見聞きするような状態、変性意識状態で見聞きしたものは、何か意味があるのか、まやかしで価値がないものなのかについて、二つ例を挙げます。

一つ目。
インドの天才数学者ラマヌジャン(1887-1920)。
私がラマヌジャンの存在を知ったのは、藤原正彦・小川洋子共著による『世にも美しい数学入門』(筑摩書房, 2005)から。
2016年には、ラマヌジャンを主人公にした映画『奇跡がくれた数式』も日本で公開されています(映画の原題は"THE MAN WHO KNEW INFINITY"。邦題は、小川洋子氏の小説『博士が愛した数式』をパクっています。数学者藤原正彦氏は、小説の登場人物である数学博士のモデル)。

『世にも美しい数学入門』によれば、20世紀初頭、まだイギリス植民地時代のインドに生まれたラマヌジャンは、天才的な数学の才を発揮し、宗主国イギリスの大学教授数名に自分の研究内容を示す手紙を送ります。他の教授が無視する中、ケンブリッジ大学のG・H・ハーディ教授はラマヌジャンの才に驚き、イギリスに招きます。
それからラマヌジャンとハーディー教授がコンビを組んで、ラマヌジャンが次々と発見する天才的な数学定理を証明していく…ということなのですが、
ラマヌジャンは、これらの偉大な発見を、ラマヌジャンが信仰しているヒンズー教の女神(ナーマギリ女神)が夢の中で教えてくれるものを、朝言われた通りに書いているだけだと述べているそうです。(p.43)
で、私は数学の才ないので数式を見てもラマヌジャンの偉大さがわからないのですが、
以下に、映画『奇跡がくれた数式』のプログラムの説明を引用します(孫引ですみません)。

ラマヌジャン・ハーディ法
今日、数学者と物理学者は超弦理論を研究しており、ラマヌジャン・ハーディ法という言語を用いてブラックホールに関連する質量を計算しているが、当然ラマヌジャンの生きた時代には、ブラックホールの存在を知る者など誰もいなかった。彼の考え方はコンピュータのセキュリティで用いられる数学の分野にも刺激を与えており、ラマヌジャンの公式は、数学界への贈り物のような奇跡であると同時に、人類発展に欠かせない未来へのヒントにもなっている。
(『奇跡がくれた数式』劇場用プログラム,  ㈱KADOKAWA, 2016, p9,
引用箇所の出典  著:ロバート・カニ―ゲル, 訳:田中靖夫, 「無限の天才 夭折の数学者・ラマヌジャン〈新装版〉」, 工作舎, 1994/2016,  p.384)


二つ目。
アリス・ウォーカー著 小説『カラーパープル』("THE COLOR PURPLE" , by Alice Walker, 1982)。
黒人女性のセリーが、人種と性別による2重の抑圧を受けながら、自分自身の愛と信仰を見出していく物語で、1983年にピューリッツァ賞と全米図書賞を受賞しています。
(暴力描写が冒頭含む随所にあるので、繊細な体質の方は閲覧注意。)
私が持っているのは集英社文庫版ですが、その翻訳者柳沢由美子氏による解説から引用(『カラーパープル』, 著:アリス・ウォーカー, 訳:柳沢由美子, 集英社, 1986)。

『カラーパープル』は、踏み台になった側の人間、ウォーカーの言葉で言えば、”大事なことは知らなくてもいいとされてきた人間たち”が、アリス・ウォーカーという媒体を得て、自分の体験を語った記録とも言える。
ウォーカーがニューヨークに住んでいたときには現れてこなかったこれらの人々の霊魂は、彼女がサンフランシスコ郊外の、山や海に恵まれた自然の中に居を移すと、頻繁に現れ、語りかけてくれたという。
実際、ウォーカーはこの本を書くために机に向かったことはないと話している。朝食のテーブルでとか、人と話している時に思いついたことを新聞のはしやティッシュペーパーのきれはしなどに書きとめておいた。あるときは部屋の本棚のあたりからセリーの話が聞こえ、あるときは散歩しているときにミスターの声が体の中から湧いてくる。
ウォーカーは、こうして自分に語られた言葉を書き綴ってこの本を書き上げたという。魂たちの言葉はみなパーフェクトで、自分は何も書き加えるものがなかったと語っている。本書の巻頭と巻末にある言葉は、まさに霊媒の役割を果たしたアリス・ウォーカーが、目に見えないものに導かれてこの本を書き上げたことを意味している。
(p358-359)


巻頭の言葉:

精霊へ

その力を借りずには
この本も
私も
書かれなかったにちがいない
(p.3)

巻末の言葉: 

この本に現れたすべての人に感謝します。 
         作者および霊媒の役割を果たしたアリス・ウォーカー
(p356)


柳沢由美子氏、私の大好きな翻訳者の一人で、氏の翻訳による外国書籍はどれも良書。
(フィクションでは『おばちゃまは飛び入りスパイ』シリーズなど。)
この『カラーパープル』の解説文も全文載せたいくらい素晴らしいのですが、論点がぼけるので(というか無断転載になるし)、泣く泣くこの箇所のみ引用。
つまり、アリス・ウォーカーは『カラーパープル』を書くにあたって、自分で試行錯誤して物語を構築したのではなく、(変性意識状態の時に)聞き取ったものを書きとめただけである、という点。


以下、この二つの例を元にした私自身の考察。

例①のラマヌジャンは、自身で仮説を組み立てて計算したり証明したりして数式を発見したのではなく、夢の中でナーマギリ女神に教えてもらったことをそのまま書いたと言っている。
その数式の正しさや価値は、当時はもちろん、100年たった現在においてすらも、認められている。
この場合、「ナーマギリ女神」という存在が、真にナーマギリ女神である必要があるか?
つまり、先の滝行などをしている僧侶が、「仏様を見たor聞いた」と言った場合、「それが幻覚・幻聴であり、意味はない」と断じることが、果たして科学的な態度であるかどうか、ということ。
ラマヌジャンの言う「ナーマギリ女神」が真にナーマギリ女神でなかったとしても、その数式が正しく、圧倒的に価値のあるものであった場合、ラマヌジャンが認識している「ナーマギリ女神」という存在が真にナーマギリ女神であるという必要性はあるのか?ということ。

これは、今現在の偏った文化だとあまり認識されていないように思うのだけど、
スピリチュアルの観点からもいくつかの可能性が考えられる現象で、
ラマヌジャンの言う「ナーマギリ女神」は
①実際に存在する本物のナーマギリ女神であり、ラマヌジャンは女神の御言葉を正しく聞いている。
②ナーマギリ女神よりも下位の存在がナーマギリ女神を名乗っている。
③ナーマギリ女神よりも上位の存在がナーマギリ女神を名乗っている。
④ヒンズー教の中に存在しない霊的な存在がナーマギリ女神を名乗っている。
⑤ラマヌジャンの本質(潜在意識や魂といったもの)が、ナーマギリ女神に投影されている。

まぁ、現代人にとって一番心が落ち着くのは⑤なんじゃないかなとは思いますけどね。
ラマヌジャンはバラモンの階層で、非常に信心深いので、世の中すべてをヒンズー教のフィルターを通してみているわけです。
なので、善なることすべてを、ヒンズー教の神々のおかげだと投影して認識している可能性はあります。
ただ私は、霊的な存在が実在していて、コンタクトできる人がいることも否定しません(ラマヌジャンがそうであるかどうかは私にはわかりませんが)。

ただ、この場合、「ナーマギリ女神が真にナーマギリ女神である」必要性ってありますかね。
そして、それを証明することってできますかね。
私はどちらも「NO」だと思いますけど。
ラマヌジャンの数式の正しさと価値は、「ナーマギリ女神が真にナーマギリ女神であるか否か」によって左右されることじゃないんですよ。
こっちが本質じゃないですかね。

だから私は、滝行をする僧侶が見たもの・聞いたものがなんであれ、それが真に仏様なのかどうなのかは、まったく意味をなさないと思うんです。
ただ、その状態で得たもの(美しいビジョンを見たことによって心が清らかになった、とか、善を説く言葉を聞いた、とかいうこと)が、その人や社会にとって「善いこと」であれば、それ以上何を追求する必要があるのだろう、と思うのです。


例②の『カラーパープル』はさらに面白くて、著者アリス・ウォーカーは、聞こえてきたことを書きとめただけで自分では物語を構築していないと言っている。
ただ、聞こえてきた「声」、『カラーパープル』の登場人物たちの声というものは、いったい何なのか?
『カラーパープル』本編は、登場人物たちの独白が様々に重なって、大きな物語を紡いでいます。
この登場人物たちは、実在した人間なのか?実在した人間が亡くなって、霊魂として存在していて、「聞く」能力を持っているウォーカーに、自分たちの思いを語りかけているのか?
主人公セリーはともかくとして、歌手としてアメリカ中で公演をしたシャグは実在したのか(違う名前を名乗っているとしても)? セリーの妹ネッティーがアフリカに渡った記録は残っているのか?
それとも登場人物にあたる人物はまったく「実在」しなかったのか?
実在しなかった場合、ウォーカーに自分の思いを語りかけてきたものは、「何」なのか?

ちょっと話はそれますが、その昔英語の勉強のためにロアルド・ダールの童話を何冊か読みました。ロアルド・ダールは映画化もされた『チョコレート工場の秘密』が有名です。
確か『THE BFG』だったと思うのですが、なんか空気中にフワフワと漂っているものを、虫取り網みたいなもので捕まえて、瓶につめて棚にしまっておいて、物語を書くときは、その瓶をいくつか選んで中身を混ぜ合わせて一つの本を書くんだよ、みたいなお話しがあったのです。
この童話を紹介した日本の本で(何だったか忘れてしまいました)、これが小説家の小説の書き方です、みたいなこと書いていて、ちょっと印象に残っていたのです。
まぁ、『カラーパープル』のことを思うと、なるほどと思いますけど。

で、戻って『カラーパープル』の登場人物たち、実在した人の霊魂なのか、人間として実際に生きていないけど、『THE BFG』みたいに何か空気中に漂っている「思い」や「イメージ」みたいなものなのか。
それとも、神様がウォーカーに「こういう小説を書かせたい」と思ってこういう形で伝達しているのか。
あるいはラマヌジャンの⑤みたいに、ウォーカーの深層心理が、投影されているのか。
ま、いろんなこと考えられると思いますけど。
ただ、ラマヌジャンと同じで、今現在の科学では、何も証明できません。
で、登場人物が実在した・しない、この物語がどこから出てきたものなのか、は、
この小説の素晴らしさ、存在価値を、左右するのか。
この小説を読んだ時の圧倒的感動は、そういったことで左右されるのか(ま、実在していたら、それはそれでまた別の感動がありますが)。


一つ付け加えると、小説『カラーパープル』は、スピルバーグ監督によって映画化もされています。(主演はウーピー・ゴールドバーグ。)
が、この映画版、概して評価が低く、スピルバーグ監督はこれを失敗したがために『シンドラーのリスト』を撮影するまでアカデミー賞を受賞することができなかった、という言い方をする人もいます。
私はこのスピルバーグ監督による映画版、卒論の資料として読み込んでいたアメリカのフェミニズム史に関する著書の中で言及されているのを読んだだけで、映画自体は見ていません(というか「ぜってぇ見たくない」と思った)。
この本の中で、映画版では最後の方で、シャグが牧師である父親に「許してください」と謝るシーンが出てくる点が批判されている、と書かれていました。
これ、原作版にはこんな箇所ありません。
シャグはいわゆる「恋多き女」で、婚外子を3人出産、その後もたくさんの男性・女性を愛し、歌手として成功し、男性の規範に一切従いません。
原作の中でシャグに関して牧師が出てくるのは1か所、シャグがセリーに、自分の出産の様子を語る場面のみ。シャグが初めて出産する時に信心深い女性や牧師が来て、悔い改めさせようとした、というエピソードだけ。
けれども、スピルバーグ監督は、ここからストーリーを創作して、男性の規範に従わない女シャグの父親を牧師にし、シャグに牧師である父親に謝らせるという愚を犯した。
原作を読んでみるとわかるのですが、シャグは、「キリスト教という『白人』『男性』の宗教」を否定する存在。セリーを、キリスト教ひいては男性や白人の抑圧から解放する存在。
男性の拘束に従わない「ふしだらな女」、というだけでも許せないのに、「キリスト教」という男の宗教まで否定しやがる女は、もう虫唾が走るほど存在を許せないのでしょうね(笑)
なんだったら映画版のシャグの父親、牧師であるだけじゃなく、白人にしたかったぐらいだろうと思いますよ。さすがにシャグは黒人なので理性が止めたのだろうとは思いますが。
ふしだらで、男の拘束に従わず、女を愛し、キリスト教ではない自然な信仰を自分で見つけた黒人女を、「悔い改め」させて「白人の宗教であるキリスト教の牧師」である「父親」に、「泣いて謝らせ」て、スッキリしたんだなぁ、とね。
で、これ、スピルバーグ監督にシャグの父親についてインタビューしても、「芸術的インスピレーション」だとしか言わないだろうと思いますよ。本人も「本当に」そう思っているだろうし。
常に女性を踏みつけていたいという思い、常に黒人を踏みつけていたいという差別意識が、無自覚に表出するんですよ、こういう形で。


こういった例を考えると、「変性意識状態によってもたらされた」ことを理由に、その知識なり見識なりを否定することは、科学的な態度であるとは思えません。
ただし、その得られた知識なり状態が、社会にとって健全な効果をもたらすものであるかどうかを、正しく判断することが必要だと、私は考えます。
『カラーパープル』の、原作の「何も書き加えるものがないパーフェクト」な物語なのか、
自分の無自覚の差別意識(加害意識)が表出したものであるのか。
また、「これまでの常識」が覆されるようのものがもたらされた場合、どうやってそれを評価するのか。

これ実は、立場が逆転しているだけで、宗教(スピリチュアル)と科学の間で何度も起こっている葛藤です。
ガリレオが地動説を唱えてカトリック教会から異端とされたのは有名ですが、
他にもローマ時代よりも格段に技術レベルが落ちた中世ヨーロッパでは、ローマ時代の水道橋などの遺跡は、「人間にこんなものが作れるわけがない。これは悪魔が作ったものだ」と言われていたとか(これちょっと出典確認していないのでアレですが)。
いや、あんたたちのレベルが落ちただけやろ、と現代人は思うのですが。

この遺跡の話なんかは、今聞くと本当に誰でも笑っちゃうと思うんですよ。
でも今、科学と宗教(スピリチュアル)が逆転して同じことが起こっていることに、気づいてほしいと思います。
つまり、ある種の無知で愚かな人というのは常にいて、その人が権威側に立って、自分の知らないことを否定する、ということが繰り返されている。
中世ヨーロッパにおいては、宗教(スピリチュアル)が権威側であり、地動説やローマの技術を否定した。
現代においては、科学が権威側であり、変性意識状態によってもたらされる知識や状態を否定している。
私が批判しているのは、「科学そのもの」ではなく、無知で愚かな人が権威側に立って自分の知らないことを否定する姿勢です。

「幻覚・幻聴の出る脳波です」と言って何かをわかった気になることの愚かしさに、気付いてほしい。
人間はそもそも変性意識状態になることが必要な生き物だと、私は思います。
その状態を、社会を健全な方向に発展させていくために、どうやって利用していくか。
スピルバーグのような加害意識を膨張させる発露ではなく、ラマヌジャンのような素晴らしい発見や、人の心を豊かにし元気にするような芸術や、思いやりや一体感を育むもの、ストレスを発散して気分を一新させるもの、そういった社会をよりよい方向に前進させるための力を持ったものとして、どうやって活用するか。危険性をどうやって排除するか。
既存の常識が破壊されるような大発見があった時、既存の社会の在り方さえも覆されるような事実がもたらされた時(ガリレオの地動説のように)、それを否定することなく、誠実に検証し、社会に反映していくためには、どうしたらいいのか。

顕微鏡の中だけを覗いて、モニターの動向だけを見て、何かが完了すると思うのではなく、
顕微鏡の中から知りえたこと、モニターの動向から知りえたことと、社会をどう整合させ、社会全体がより良くなるように活用していくか。

これは、理系の世界単体で答えがでるものではなく、文系の世界と照らし合わせて、一見まったく違ったものと思われていた二つから、何か一つの共通する像が浮かび上がるかのように、解が見いだされるものなのではないかと思っています。

そこまで考えて初めて科学的な態度と言えるのではないかと私は思います。



蛇足ながらまとめておくと(お理工さんは文章が読めない人が多いので)、

ラマヌジャンを例にとると、
『ラマヌジャンは、「ナーマギリ女神が教えてくれた」という数式を発表した。』
この場合、

①数式が正しいことは、ナーマギリ女神が存在することを意味しない。
 且つ、
 数式が誤っていることは、ナーマギリ女神が存在しないことを意味しない。

②ナーマギリ女神が存在することは、数式が正しいことを意味しない。
 且つ、
 ナーマギリ女神が存在しないことは、数式が誤っていることを意味しない。

③一つの数式が正しいことは、ほかのすべての数式も正しいことを意味しない。
 且つ、
 一つの数式が誤っていることは、ほかのすべての数式も誤っていることを意味しない。

という点を認識していただくと良いのかなと思います。

お理工さんがよく引っかかって失敗するのが、②。
「ナーマギリ女神なんて幻覚・幻聴だ」と言ったところで、数式が正しいことが数学的に証明されれば、数式は正しく、有用なものであることに何の問題もない。
にも拘わらず、ナーマギリ女神の存在を否定することで、数式も丸ごと否定してしまう。
ナーマギリ女神の存在の真偽を問うことがそもそも誤り。

「なんちゃってスピリチュアル」とか、カルト宗教にはまる人が大抵失敗するのが、③。
一つ正しいことがあったからと言って、その宗教や教祖の何もかもすべてが正しいわけではない。
一つ一つの事例を、これは正しいか誤りかを検証する必要がある。

私自身は、霊的な存在を否定しませんが、今はまだそれを議論できるほど世の中が成熟していないと感じています。
まずお理工さんが②に引っかかってスピリチュアル全否定するのをやめて、
「変性意識状態でもたらされたものであっても、社会に有益な情報がある」ということを、
世の中が認識すること。
そのうえで、その状態でもたらされた情報の真偽を一つ一つ調査する冷静さを持つこと
(「なんちゃってスピリチュアル」が見ていないものでも見たと言い張るので
 こんなことになっているのだと思いますが。マリア様を見たとか龍神を見たとか。
 マリア様も龍神もいいので、もたらされた情報の真偽を確かめよう、ということです)。

その状態を経過して初めて、「霊的な存在はあるのか」「あるならどういう状態で存在しているのか」を検討することができるようになるのではないかなと思います。
古代ローマの科学技術より何段階もレベルダウンした暗黒の中世ヨーロッパでは、ローマの技術を理解するための基礎知識すらなかった、というのと同じで、ある程度の土台がないと、それ以上の知識を理解しようとすること自体がそもそも無理、みたいなことになるので。
ま、これはあくまでも私の見解です。