桜の花と、つつじの花と
って、何のことかと言いますとね、
私が高校の時にそんな内容の作文を書いたんです。
桜の花って、華麗に咲いてあっという間に散る、その散り際までも美しい、
なんて言いますでしょ。
一方で、つつじの花って、葉っぱに紛れて咲くから花としてもそれほど豪華じゃないし、
咲いた後もきれいに花が落ちず、朽ちたままいつまでも枝に張り付いていて、
終わり方も正直言ってあんまり美しいものではない。
ただ、庭のつつじを眺めていて、「これは女の花だなぁ」と思ったんです、
高校生の私は。
「花は桜木 人は武士」なんて言葉もありますが、
桜の花が見事に咲いて、あっという間に散る、その潔さを男の美学とする考え方が日本にはありました。
その考え方が正しいかどうかは別として、
大義のために戦って死ぬことを良しとする文化があり、戦争でもたくさんの兵士が亡くなりました。そして、他国に甚大な被害をもたらしました。
いつの時代でもそうですが、戦争で男たちがたくさん死んだあと、
女たちはひたすら耐えて、傷ついた世界を修復し、再生させてきました。
「美しく散る」だの「潔く死ぬ」だの言っていられなかったんですよ、女たちは。
どんなにみじめだろうが、どんなに悲しかろうが、どんなに辛かろうが、
耐えて、生きて、社会を国を再生させてきたんです。
私はつつじの花の、未練がましい終わり方に、戦後の女たちの忍耐の姿を見たのです。
まぁ私も、小学生の時にテレビアニメの「ベルサイユのばら」を見た時は、
主題歌の「薔薇は薔薇は、気高く咲いて 薔薇は薔薇は、美しく散る」の歌詞にうっとりしましたよ。
薔薇のように気高く生き、美しく散るオスカル様のような、そんな激しくも美しい人生に憧れましたよ。
(実際は薔薇の散り際はあんまり美しくないですね(笑)花も散り際も一番見事なのは芍薬です(笑))
でも、高校生の時の私もすでに気づいていたし、もっとはるかに歳を取った今、
「美しく散る」だの「潔く死ぬ」だのは子供の言い分だな、と思います。
負けを引き受けみじめさに耐えながら、それでも社会を再生する努力をすること、
そして、もっと良い世の中を作ろうと決意すること、
そちらの方が人間的な成熟を必要としませんかね。
英雄になることもなく、ただの一介の庶民として、自分のできる範囲で社会を修復すること。
それが、それぞれの時代に女がやってきたことじゃないかと思います。
日本ではまったく評価されていませんが。
先日、追いはぎ男爵ことIOCバッハ会長の広島行に反対して、
「バッハに食わせるお好み焼きはない」という言葉がツイッターに流れていましたが、
この広島のお好み焼きも、焼野原となった広島で、
女性たちが配給の小麦粉と野菜をそこらに落ちている鉄板を使って焼き、
売ったことから始まったものだと聞いています。
復興して豊かになるにつれて具材や調味料も増え、味も良くなっていったのだろうと思いますが、最初は配給された食料のありあわせで、焼け残った鉄板を使って焼いたもの。
そうやって、生きて、再生させてきたんじゃないですかね、いつの時代も。
バッハは、B級グルメであるお好み焼きを食べたいとは思わねぇだろうと思いますが、
そういう経緯でできた料理であれば尚のこと、バッハなんかに食わせたくありませんね。
(あ~、で、ほかのたくさんのバッハさんや、ヨハン・セバスティアン・バッハはじめ音楽家のバッハさんや作品に類が及ばないように、奴のことは「くそバッハ」とか呼んではどうかなんていう提案もありましたね。賛成です。)
そうやって命をつなぎ、社会をつないできた女たちの努力の成果を、
なんかいつも男たちが取り上げて自分たちが偉かったかのようにふるまう、
この世の中は何なんですかね。
少なくない国で、この傾向はあるのだろうと認識していますが、
日本は特に顕著だし、
今のコロナ対策やオリンピックはじめ、日本の政治の経済の社会の問題は、
全部「金を持ったオッサン」「権力を持ったオッサン」によるものだと思います。
利権でしか動かない。人命を尊重しない。人の尊厳を尊重しない。自然界を尊重しない。
本当に未熟で思いあがった男たちの問題です。
すげぇ典型的だなと思ったのが、
名古屋市の市長が若い女性選手の金メダルを噛んでみせた件。
コロナや人命・人権の問題からすると主要な問題ではないとする方もいますが、
ただ、今の日本社会の危機的状態って、こういう認識でいる男たちの問題なんですよね。
「お前のものは俺のもの。俺のものは俺のもの。」というジャイアンの思考。
こうやって女や弱者の努力を自分のものにしてきた。そういうものだと思ってきた。
だから、女や弱者がいくら死のうが苦しもうが、なんとも思わない。
いくらでもいるし替えがきくと思っている。
しばらく前に「町山智浩のアメリカの今を知るTV」で、黒人奴隷の搾取の歴史について取材したものを見ました。
私がびっくりしたのは、「白人は技能のある黒人を連れてきて労働をさせ、自分たちはその技術を持っていなかった」という点です。
始めは藍の栽培と染の技術を持っている黒人を連れてきて労働をさせたとのことですが、
それ以外にも、建築や料理も黒人にやらせていた白人たちはその技術を持っていなかったのだそうです。
比較的近年に、料理関係の商品のパッケージに黒人のマークを使うことが「差別的である」ということで禁止になったのだそうですが、それは、白人は料理ができず黒人が作ったものを食べていたので、「黒人の作ったものの方がおいしい」という背景があったからだそうです。「料理上手の〇〇おばさんのホットケーキミックス」みたいな感じ。
私は漠然と、白人が「こういう風にやるように」と黒人に技術を教えて指図していたのだと思っていたのですが、実際は「何にもできない人たちができる人たちにやらせていた」という搾取構造でした。ちょっと思っていた以上にひどかったですね。
ただ、なんというか、「うわ~、これ日本の男と同じじゃん」と思いました。
何にもできない人間が、黙って耐えて労働する人たちからただひたすら取り上げる。
この構造。
今に始まったことじゃありませんが、本当にうんざりしましてね。
なんかこの、「男に金を払い、男から金をもらわなければならない」構造から降りたいなと思ったんです。
私の大好きな裁縫バトル番組「ソーイング・ビー」で、インド風のパンツがお題だった時に、ガンジーがこのパンツをイギリスの植民地支配に対する抵抗の手段としたことが解説されていました。
それによれば、インドを植民地として支配したイギリスは、
最初はインドで栽培され、インドで織られた綿布を買っていたのですが、
やがてインドで栽培された綿花を買ってイギリスで織り、その綿製品をインドに売るようになりました。
これがインドをさらに苦しめていることに気付いたガンジーは、
インド人に、イギリスで織られた綿製品を買うことをやめ、植民地化される以前の、インドの伝統的手法で作られた民族衣装を着ることを提案しました。
衣服について、イギリスの搾取が入り込む余地をなくそうとしたのです。
実際、植民地インドという大きな販売先をなくしたイギリスの紡績関連の事業は大打撃を受けました。苦境にあえぐイギリスの紡績関連の労働者たちは、ガンジーをイギリスに招いて自分たちの現状を見てもらい、ガンジーにイギリス製品の不買をやめさせようとしました。
が、その労働者たちの住環境を実際に見たガンジーは、
「あなたがたは、本当の貧困を知らない」と言ってそれを拒みました。
(この経緯をイギリスの番組である「ソーイング・ビー」で、
イギリス人のファッション関係者が解説しているところが、
日本と違ってイギリスが成熟した社会である証左だと思います。)
まぁこのインドの伝統的手法によって紡ぎ織られた民族衣装のように完全な自給自足が、
今の日本で可能かと言うと「無理だな」としか思わないのですが、
それでも、少しでも搾取の入り込む余地を減らしたいなと、私は思っています。
しばらく前にたまたま見かけたテレビで、ユニクロの経営みたいな番組をやっていました。
一瞬見ただけでムカついて見るのやめたので詳しくはわからないのですが、
ずいぶん前にユニクロが野菜の販売に着手したことがありましたが、その発起人を取材しているみたいでした。
あの野菜の販売は、ニュースで見た当時「これはダメでしょ(笑)」と思いましたが、
その提案者の男性は、「あの野菜で失敗するまで、自分は『できる人間だ』と思っていた」と言っていました。あれで失敗して、主婦の人(?)が何を求めているのかわかっていないことに気付いた、と。
で、その人はその後「GU」を手掛けてそちらはうまく行っているようなのですが、
なんかもう、「あ~やだやだ」というか「なんだかねぇ」というか、
「生きているのが嫌になるようなものを見ちゃった」感が半端なかったですわ。
もう見るからに「俺はできる」と思っているタイプの男性でね。
「GU」が実際に成功しているのかどうか、私はよくわかりませんがね。たくさんの人が貧乏になって、「とにかく安い」ものしか買えなくなっているだけなんじゃないかと思いますが、安い以外の魅力がなんかあるんですかね。そもそも通りかかっても店舗に入りたいという気持ちにならないのでよくわかりませんが。
なんかこの野菜とGU手がけた人と良く似た感じのことが少し前にもありました。
月経用のショーツで、ナプキン使わずに経血を吸収するタイプのものがあるのですが、
もともとは、少しでも月経期間を快適に活動的に過ごせるようにと考える女性が作ったものでした。
そこに男性4人で立ち上げた会社が参入。商品としての質もダメなら(吸収力足りなすぎ)、宣伝の手法もダメダメ。たくさんの女性がいろんな点で嫌悪感を示していました。
「白人女性が生理中にもかかわらずパンツとブラだけでソファに寝そべっている図」(一応解説すると、生理中は冷え厳禁なので下着だけで寝そべるとかあり得ない)とか、
イケメン風のチャラ男が、だんだんに女性の大変さを学んでいくみたいな少女漫画崩れの啓蒙漫画とか、
もう何から何まで「女なんてチョロい」「女なんてこんなもんでしょ」感がてんこ盛り。
「おぅっっ……」ってなって直視できない代物でした。
なんかね、「野菜&GU」男とか「生理用吸収ショーツ」男とか、全部同じ人種。
「女はバカで、俺はできる男だから、女なんか簡単に操作できる」ってのが、駄々洩れ。
ほんとーに、駄々洩れ。おしっこもらしてるレベルで駄々洩れ。
以前の、日本がもう少し豊かだった時代なら、こういう頭の悪い勘違い男が世の中にいても、女性は海外旅行行ったり、グルメを楽しんだり、ファッションを楽しんだりしてストレス発散することができたんです。
でも今はもうストレス発散できるほどの経済的なゆとりがないどころか、
こういうバカな男を放置していることが、女性にとって死活問題にすらなります。
現状、本当に女性や弱者が生きていけない、殺されるような世の中になってしまいました。
非常に深刻な殺人・人権侵害が起こっている日本の現状で、
いろいろなレベルの対策を講じなければなりません。
私の中では一つ、先のガンジーの民族衣装によるイギリス製品不買運動のような、
こういう類の男たちの懐に入る金を、極力減らすことを考えていきたいなと感じています。
堀江貴文とか竹中平蔵とか、自民党・公明党・維新の面々とか、経団連とか、
まぁあの手の男たちに流れる金を、少しでも減らしたい。力を弱めたい。
あの手の男たちの商売に金を払うことで、自らがあの手の男たちに支配されるだけでなく、
他の国に対する搾取にも加担することになるこの仕組みを、壊したい。
まぁ、個人で何もかも完全に、はできないんです。そのことはわかっています。
でも、「総量を減らす」ことはできる。害のある男たちに払う金額の総量、搾取に加担する総量を。
その方法の一つとして、「服を自分で作る」ということを考えています。
もともと編み物はやっていたのですが、最近裁縫も少しするようになりました。
本来は「試してみたらうまくいったこと」の「裁縫編」として、
もっとお気楽テイストで書こうと思っていたのですが、次々と表面化する日本のひどい現状に、「ちょっとお気楽テイストで書くのもう無理」になってしまいました。
先日、よく通りかかる個人営業の手芸屋さんで、ガーゼ布がワゴンセールになっていまして、部屋着やパジャマ用ワンピースを作ろうかなと思って買ってみました。
昨年マスク不足の折、布マスク用のガーゼ布がたくさん流通したのですが、今はそれが過剰在庫になっているのかなと思います。
前に買っておいたAラインワンピースやチュニックの型紙をアレンジして、ボタン付けだの極力省き寝るときのストレスをなくした形で作ったのですが、すごく快適でした。
で、味をしめて本屋さんで裁縫の本を物色したところ、すごく良い本を見つけました。
「Quoi? Quoi?(コアコア)」という女性2名のユニットによる
『1日でぬえる!簡単楽ちんワンピース おしゃれなアッパッパ』(㈱主婦の友社, 2020.07)。
「アッパッパ」って、「昭和の時代のおばさんワンピース」って言ったらいいんですかね。
この本によれば「かぶって着られるワンピース」とのこと。
「ファスナーやボタンがなく、着脱簡単、ぬうのも簡単、風通しがよく着心地は抜群!」。
このコアコアのお二人によるアッパッパは「マキシ丈のロングワンピース」とでもいうべき、オサレな代物。
まず本を眺めていて「大人可愛い」と感じるのですが、
これ全般に「女性による女性のための衣服」だなぁと思います。
①男性受けを狙っておらず、女性が「可愛い」と感じるデザイン。
②女性の身体に優しいデザイン。締め付けがなく、ゆるやかなラインで苦しくなく、下に重ね着をしやすい。ロング丈のため、冷えやすい下半身を守る。
③「ペタンコ靴」と相性がいい。スニーカー、ローファー、サンダル、ブーツなどと合わせると可愛い。靴下やスパッツがのぞいても違和感がない。
④ロング丈でボディラインがはっきりしないため、男性の性的視線からも身を守る。
④自分で作ることができる。
ざっと挙げただけでもこんな特長があります。
一口に「アッパッパ」と言っても、本の中ではいろいろなデザインが紹介されていて、
長袖で共布ベルトを巻いたものなどは「オフィスでもOKのきちんと感」と説明されていたりします。ま、私が今までに経験した職場ではこれでもアウトだろうなぁと感じましたが、
男性の価値観に支配されていない職場で、女性同士で仕事しているなら、OKだと思います。
というか、そういう「女性にとって安全」な「女性の職場」を、これから作っていきたいと私は思います。
私は青春時代というか色気づくお年頃というのが80~90年代だったので、いまだにピンヒールやミニタイトのワンピースやスカートを素敵だと思う感覚を持っています。
でもそれはそれとして、ヒールの靴も、ストッキングも、タイトな服も、ミニスカートも、女性の心身の健康には害悪であるということも身に染みてわかっています。
なので、そういった服は、ある種のコスプレのようなものと認識して、
特別なパーティとかデートとか、そういう「晴れの舞台で着るもの」みたいな扱いをするといいのかなと思ったりします。
マリー・アントワネットのドレスを素敵だと思ったとしても、あれを日常に着ていたら「変な人」であるわけで(私はジョゼフィーヌのドレスが好みですが)。
多くの日本の職場で女性に求められている「ひざ丈のタイトスカートにストッキングに適度なヒールの靴」という恰好は、本当に女性の身体によくありません。
ヒール靴の害は#kutooの活動などで、たくさんの方が訴えてくださっています。
タイトスカートとストッキングは動きにくいだけでなく、冷やしてはいけない下半身が冷えますし、締め付けと冷えで血行不良が起きますし、日本の湿度の高い季節は蒸れてとても不快です。
こういった苦痛や不快感を我慢し続けていると、だんだん感覚が麻痺していって、
ある時突然限界値を超え、深刻な自律神経失調症になったりします。
本当は「ちょっと嫌だな」「気持ち悪いな」という段階で対策を講じるべきなのですが、
今の日本の社会はそういう風になっておらず、女性はずっと我慢を重ね、心身に深刻な影響を受けてしまうことが少なくありません。
男性の価値観に染まった既存の職場では、そういうことを変えていくのがものすごく困難だなと思うので、女性が女性同士で仕事をしていくような場で、こういうやり方を増やしていくといいのではないのかなと思います。
最初から全部というのは難しいのだろうと思うので、男性とかかわらなければならないようなときはスーツ着ていくとか、やりすごすというのもありなのかなと思います。
できればそういう価値観じゃない男性と仕事でも関われたらいいと思いますが。
あと、この本のいくつかのデザインを眺めていて「なるほどなぁ」と思ったのですが、
「切り替えなしのAラインのワンピース」が、一番まとまった量の布が必要です。
縫う作業自体は楽だと思いますが、大きな平面の布地が必要で、端切れの量も多くなります。
一方で、「3段ティアードのギャザー入りワンピース」は、縫う作業は大変ですが、切り替えが何か所も入っているので、大きな一枚布でなくても作れます。つまり、端切れであるとか、古着をほどいたものの再利用、幅や長さの足りない布のつなぎ合わせなどがやりやすいデザインです。浴衣地とか、洋裁向けに売られていないような生地も使いやすいし、センスのいい方なら、違う生地を組み合わせてデザインの幅を広げることも可能だと思います。
本の案内にもあるように、生地を変えたり重ね着をしたりで、一年中着ることができる画期的なデザインだなぁと思いました。
私は編み物をやるので、ウールやアルパカなどの質の良い毛糸を使った靴下やスパッツを作ってご案内したいと思っていますが、そういったものと合わせるのに最適だと思います。
以前、ヤフーの「Gyoppy!」で、倫理観の高い若者たちが「買いたい服が見つからない」と言って古着を選ぶケースが増えている、という記事を読みました。(『古着ブームの裏側に高まる若者の環境意識? 「優しい目線」の買い物が欲しい未来を引き寄せる』,文:鈴木陸夫,2021.06.18)
「ALL YOURS」というファッションブランドを展開する木村昌史さんを取材した記事でした。
木村さんが語るには、若い人で環境問題や人権問題を考える人が、そういう害悪に加担しない服を着たいと望むけれどもなかなか適したものがない。結果的に、運送コストが発生する程度の古着を着るのが合理的なのかな、ということで古着にたどりつく人が少なくないのだとか。
今の社会が選択肢を用意できていないことはもちろん問題なのですが、とても希望の持てる話だなぁと思いました。
で、木村さん自身も語っていましたが「サステナブルな糸や生地を使いたいと思っても、綿農家さんや生地屋さんを支えるためには何百トンというロットで作らないといけなくなる。自分たちの経済規模ではまず無理なんです」と。私もよくそれを考えます。
木村さんは、大手のブランドがエシカルでサステナブルな路線を作り出せば、そういった素材が流通するようになり、経済規模の小さいところでも使えるようになるといいます。
私も、「一人で全部やる」は無理なのを理解しているので、「自分ができる部分」「自分ができる形」で、環境的にも人権的にも、より倫理的な生活の仕方・ビジネスの仕方をしていきたいと考えています。
なので、今現在私は、アパレルメーカーの余剰品・処分品として流通している高品質な工業用糸を仕入れてニット製品を作るという方向性をとっています。
先のワンピース類のように、いろいろな余剰品や中古品を使って衣類を作ったり、端切れの利用などについても、どんな風にすれば捨てないで使えるかをよく考えています。
スーツやコートを作ることができなくても(そういったものを手作りする方もいらっしゃいますが)、日常の衣服を作ることで「安物を大量に作って大量に消費する」搾取構造に加担する割合を減らすことはできます。
あとまぁ、編み物であれ、裁縫であれ、料理でもそうなんですが、
私が「自分で作る人が増えるといいなぁ」と思ってこういうことを紹介するのは、
「すそ野を広げることが大切である」と考えるからです。
上手だろうが下手だろうがやる人が増えれば、その中から才能がある人が出てくる可能性が増えます。そうすると、その分野が飛躍的に発展することもありうるわけです。
全体が少ないと、本当はすごい才能があるのにその技術に出会うことなく、才能が眠ったまま終わってしまった、みたいなことが、いろんなジャンルであるんじゃないかと思います。
例えば、自分がへたくそなりにバレエをやってみて思ったのが、昔はバレエをやるのは英才教育か才能のある特殊な人だけみたいな時代もあったのですが、今はカルチャーセンター的に初心者や下手くそな人も受け入れて丁寧に教えてくれるところも増え、結果的にバレエ人口が増えています。
それによって、レオタードとかのバレエ用品が売れるようになって素敵なデザインが増えたり、舞台やPVを見る人も増えたり、バレエ業界全体が活性化してきています。
こういうことが、いろんなジャンルで必要なんじゃないかと思うのです。
別にその分野の一流の人になろうとしなくても。
そういう全体のすそ野が広がった中から、いろいろな才能や、思いもしなかった飛躍が生まれていく。
私はそういう社会を豊かな社会だなと思うし、現状の問題を打破する可能性が高まっていくんじゃないかなと考えています。