2021年9月2日木曜日

競争ではなく

ちょっと私うっかりしておりました。
先日の記事、以前からつらつら書いていたものを、
私の体調が良くなったのと、壊れたPC買い換えたタイミングでアップしたのですが、
ちょうど日本の終戦記念日というか敗戦の日にアップしてしまいました。
あくまでも「負けを引き受けること」という意味について書いていたもので、
先の大戦の総括として書いたものではありません。
日本の加害責任について、今まだ私は語ることができず、何をどういう風に言葉にしたらいいのかわからないでいます(そういう事柄がたくさんあります)。
たくさんの苦しみを与え、大切なものを奪ったことについて、ただただ申し訳なく、
二度と繰り返してはいけないと思いながら、
今またたくさんの過ちを重ねている日本を、どうしたらいいのか、どうしたら少しでも他の国に迷惑をかけていることを減らし、日本に住んでいる私たち自身ももっと幸せに生きることができるのかと、考えている次第です。

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私はHSP(Highly Sensitive Person)という共感性や感受性が強いタイプで、
今の日本のようなひどい社会状況にあると、心身共に参ってしまいます。
ちょっとまた感情がダウンして身動きが取れなくなっていました。

今の自民・公明党政権下の日本というのは、トランプ政権下のアメリカみたいなもので、
「何をどう言いつくろってもダメなものはダメ。とにかく政権が変わらないとどうしようもない」という状況です。
アメリカの中に多くの問題があり、それでもトップが変わることで良い方向に舵を切ることができ、やがては少しずつ問題を改善して全体的に良くなっていくだろうと思うことができるように、
日本にも長年抱えてきた宿痾ともいうべき問題があり、今の政権はそこを強調して社会を分断し破壊することで自らをながらえてきていますが、
この政権を終わらせることで、問題を解決するためのものと認識し、まだ日本に残っている「良い部分」を伸ばしていく方向に舵を切ることができると思っています。

個々の事例を取り上げると私の心がつぶれてしまうので、現在表面化している個々の事例についての言及は今はできませんが、
諸々の事柄の根幹にあることについて、少し書いてみたいと思います。

「勝ち負けの概念について」といったところですかね。
前回の記事、「負けを引き受けること」というのがテーマだったのですが、
まぁ本来は、勝ち負けとか競争とかの概念を、もう手放して終わりにしようよ、ということが、私の言いたいことです。

「誰かを踏みつけにしないと生きていられない」みたいな心理が、現実として牙をむいているのが、今の日本の社会のあり様だなと思います。
入管での残酷な殺人、女性を狙った犯罪、コロナ禍での対応、オリンピック・パラリンピックの強行開催、沖縄の基地問題、アフガンからの関係者救出、メンタリストDaiGoやそれに類する人々の発言、日々見聞きする「些細なこと」と思われることに至るまで、物差しが全部「勝ち負け・強弱」でしかない人が起こしていることだなと思います。

私の母親はいわゆる「毒になる親」で、非常に問題のある人ですが、
彼女は「戦って生き残る」という世界観で生きている人でした。
「誰かから奪い取る、自分が少しでも多く取る、自分が相手よりも強くなる。」そうすることで生き残ることができる、という世界観で生きているんだなと思います。
私から見て、とても論理破綻しているなと思うのは、
「自分が相手よりも強くなることで生き残る」=「幸せ」と認識していることです。
まぁ、生物的にというか物理的にというか、相手を打ち負かせば生き残るという状況はあるだろうと思いますが、そのことと、「人間社会における幸せ」とは、おそらく相いれないだろう、と私は思います。

母は絵を習っているのですが、その教室で「忙しくて全然描けてないわぁ~」と言いながら、陰ではしっかり描いて準備しておく、みたいなことを「賢い人のやり方」であるように言ったりします。
そういうのを聞くと「この人は一体何をやりたいのかなぁ」と思います。
嘘しか言わないなら人から信用されず友達もできないだろうし、
自分の芸術性の追求のために絵を描いていて周りの人なんかどうでもいいというなら、
「私は全然描けてないのよ~」なんて言う必要はない。
私だったら「好きな絵を描くことを楽しみつつ、同じ趣味を持つ友達ができたらいいな」と考えるので、絵を描くことはできる範囲で一生懸命して、教室でご一緒する方とも誠心誠意お話したいなと思いますけどね。
周りの人を出し抜いてすごい絵を描けば、みんなから称賛されて愛されて幸せになれる、みたいなことを思い描いているみたいなんですけど、そんな世界ありますかね。
絵が下手でも、一緒にいて心地いい人とお話ししたいなと思ったり、友達になりたいなと思ったりするのが一般的じゃないかなと思います。
ま、孤高の天才みたいな人は常にいて、凡人には近寄りがたい雰囲気で、ものすごい芸術性を発揮する人もいるので、そういうタイプはまた別の話ですけども。

母のこういうところを見ると、「この人はまだ戦中・戦後の世界を生きているんじゃないか」と思ったりします。自分が生き残るために他人の食べ物を奪ったりするような世界に生きているんじゃないかと思います。

この「勝ち負けの世界観」と「幸せ」をごっちゃにしている人が、母に限った話じゃなく、
今の日本のいたるところに跋扈していて、時々「私がおかしいのかな」というか「私これから先この世界で生きていけるのかな」みたいな感覚に陥ることもしばしばです。

先日ツイッターで流れてきて話では、「夫に『収入を上げるために勉強をしたいから協力してほしい』と言われたので、数年間家事と育児を一人でがんばった女性が、晴れて転職して年収アップした夫から『俺の年収を超えてみろ』とマウントを取られた。『同じ年月家事と育児を代わってもらったらあなたの年収を超えてみせます』と返したら『ごめんなさい』と謝られた。謝らなくていいから私はフェアな戦いをしたい」という女性のツイートがありました。
この「夫」、家族を何だと思っているのかなっていうね。
まぁ、こういう男性多いですけどね。

大体女性の愚痴を見聞きしていて思うのは、男性側が「家族」というものを理解していないことが多いということです。
家族ってさ、生活していくための一つの共同体でしょ。
「生活を成り立たせるために必要なこと」っていうのが必ずあって、
現金収入を得ることや、家事の一つ一つや、育児や、親族との関係性や、地域社会との関係性とか、いろいろ「その家族の単位」で成し遂げなきゃならないことがあるわけよ。
で、その「家族の単位」の中で、「誰が何の役割をどのくらい分担するか」というのは、
その家族の中で状況に応じて分担していくものじゃないかと、私は思います。
どちらかが病気になったりしたら働ける人が働き、
子供に手がかかるときはもう一人が仕事も家事もカバーするとか、
「家族の単位」で成し遂げなきゃいけないことを、臨機応変に役割分担を変えて対応していくチームじゃないの、と思います。
なんだけど、先のツイートの「夫」とか、よく見聞きする愚痴に出てくる「パートナー(男)」とか、そういう「チーム」とか「共同体」とかの概念がすっぽ抜けていて、「自分がトップにある」ことが何よりも優先する。
チームワークじゃなくて、勝ち負け。
で、母と同じで、「勝てば幸せになる」と思っている。
目の前のものをすべて自分の下に組み敷こうとして、無意味な戦いを挑んでくる。

オリンピックの時も、若い選手が「『思い知ったか』と思わせたい」と発言していて、
なんでこういう風に取り違えちゃうんだろうなぁと思いました。
今回のコロナ禍で、私も、東京大会に限らずオリンピック全体をもう廃止しちゃえばいいよ、と思うに至りましたが、オリンピックの仕組みそのものが、競技スポーツの仕組みそのものが、勝ち負け・強弱の価値観を強化するものなので、正直、ここまでくると害悪でしかないです。

メンタリストDaiGoも「成功することが復讐」みたいなこと言っていたような気がしますが、その昔、ユーミンの歌にも「幸せはあなたへの復讐」みたいな歌詞ありましたね。
まぁ自分を振った男に思い知らせるために、きれいになって、あなたよりももっといい男と恋愛して、見返してやる、悔しがらせてやる、みたいな内容でしたけど。
あの男憎しで、美貌を磨き、「あの男よりもいい男(金持ちとかイケメンとか)」と恋愛して、「どうだ思い知ったか」とやることと、「幸せ」って、イコールですかね、って話なんですけどね。
その男が悔しがる顔を確認しないといられないのは、まったくもって不幸じゃないですかね。
その男のことなんか忘れるほど夢中になれる何かに出会って楽しむことができたら、それは本当に幸せだと思いますよ。それが恋愛であれ、才能を生かすことであれ。

なんかこの勝ち負けとか競争の価値観を持っている人と一緒に何かやるのって、
無理じゃないですか。それが家族であれ、仕事であれ。
今の社会って、仕事も競争の価値観で動いていますけど、それも間違ってませんかね。

自分のやりたいことを追及していたら結果的に「あなたが一番すごい」と言われた、はあるかもしれないけど、「一番になること」を目指してやっていると、自分を見失って何をしているのかわからなくなりませんかね。

オリンピックでも今のスポーツって、「勝ち負け」を競うんですけど、「勝ち負け」を競わないとスポーツってできないもんですかね。
例えばさ、テニスとか、延々と打ち合い続けてその打ち返し合う中で何かが生まれる、みたいな楽しみ方ってないですかね。
相手が打ち返せないような球を打つことじゃなくて、お互いに返し合い続けることを楽しむ、みたいなこと。
夢枕獏の小説『宿神』で、のちに西行法師となる佐藤義清と蹴鞠の名手(名前忘れた)との蹴鞠のシーンの描写が、そういったものでした。
蹴鞠は鞠を落とさずに続ける中で、華麗な技を披露するという類のもののようで、
佐藤義清と蹴鞠の名手のやり取りの中で、素晴らしい技が次々と繰り出され、その時間と空間が現実世界とは違うものになったように感じられた、という描写でした。
こういう感覚、舞台芸術でもよくありますし、現代のスポーツでも感覚として持っている方は少なからずいるようです。「ゾーンに入る」という言い方をするようですが、球が止まって見える、とか、スローモーションに見える、とか、そういう感覚です。
この蹴鞠のシーンとかは、相手が落とすような鞠を蹴って相手を負けさせよう、という心理は働いていないのですが、それでも、この二人の蹴鞠を見た人たちは、「あれこそ当代一の蹴鞠の名手よ」と思うわけじゃないですか。

あと今回のオリンピックのものじゃないんですけど、競技サーフィンの選手の言葉で、
「なんだかなぁ」と思ったものがありました。
試合の時に、「先に出て大技を決めたほうが、相手に心理的ダメージを与えられて有利だから、試合では早くに出る方を選ぶ」みたいなこと言っている人がいました。
まぁ、「競技サーフィン」というものは、そういうものなのかもしれないけど、
なんか、「何にもわかってねぇな、こいつ」と思いました。
私はサーフィンやらないんですけど、でも「海で遊ぶ」「自然の中で遊ぶ」って、そういうことじゃねぇだろ、と思います。
以前見たジェリー・ロペスのポスターで、すごい大波に乗りながら興奮して叫んでいるようなものを見たことがありますが、たぶん、ジェリー・ロペスが「競技相手」を意識することはないんじゃないかと思います。

昨年、日本のコロナ禍がいったん収まったように感じられた秋口に、どうしても耐えられなくて近場の海に行って、一日浜辺でのんびりしたことがあったのですが、
その時に地元のサーファーの男性にナンパされて少し話をしました。
私はもともと一人で旅行したりして、地元の人や宿で一緒になった人とよくおしゃべりを楽しんで友達になったりするので、
まぁ、海が好きな人と話をすること自体は基本歓迎なんですけど、
なんかどうにも「ドヤりたがる」のは勘弁してほしいですね。
その海はサーフィン向きの海なので、たくさんサーファーさんがいるんですが、
私がよく座って海を眺める浜は、良い波が立つのが割と沖の方なので、上手な方しかいません。が、少し離れたところでは、波打ち際近くに良い波が立つので、たくさんの人がイモ洗い状態でサーフィンをしています。
そのことについて、私が「ここは人が少なくて上手な人だけだからいいけど、あっちの方とか行くと、イモ洗い状態で、なんか『見栄の張り合い』みたいなことになってるでしょ」というと、その男性が「あれは『見栄の張り合い』なんじゃなくて『戦い』なんだよ」とドヤるのです。
ほんとクソだなと思いながら「私はそんなもの見たくないよ。そんなもの東京にいれば電車の中ででもどこででも見られるんだよ。私はそんなもの見るためにここまで来てるわけじゃないよ」と言いました。
まぁ私も素潜りやドルフィンスイムやるんで(今は経済的に無理だけど)、「私も人間だから競争心はあるけどね、イルカと泳ごうとして海入ると『あのイルカと私が泳ぎたい』みたいな気持ちは出ちゃうけどね、でも、海で遊ぶとか、イルカと遊ぶって、そういうことじゃないでしょ。海とか、自然と、自分がどれだけ一緒にできるか、でしょ」と言いました。
そしたら、その男性も私が言わんとしていることがわかったのか、「そういえば〇〇浜とか行くと、自分でも『うまくライドできたな~』と思ったときは他の人がシャカサイン(ハワイのハンドサイン。やったね、みたいな意味がある)してくれるなぁ」と言いました。
「そう、そういう文化があるところが好き」と私も応えました。
まぁ、女性に「すご~い」と言われてチヤホヤされたい気持ちと、本当に海が好きで海で遊ぶことを楽しみたい気持ちと、両方あるんだなと思いましたが。
ただ、私の感覚では「女性に『すご~い』と言われてチヤホヤされたい」男性にはまったく魅力は感じませんが、「本当に海が好きで海で遊ぶことを楽しんでいる」男性は、とてもすてきだと思いますし、恋愛関係になるかどうかは別として、同じ海好きとして(遊び方の種類は違っても)尊重し、友達になることはできます。

で、ジェリー・ロペスに話を戻すと、競技相手を打ち負かすことを意識しなくても、
海で夢中で遊んでいるジェリー・ロペスを見た人は「当代一のサーファー」だと思うわけですよ、蹴鞠の二人のように。
それで良くないですかね。そういうことじゃダメですかね。

あと、昔フィギュアスケートをよく見ていた時に、
技の難易度で言ったらこの人の方がすごいんだけど、
美しさ(芸術点)で言ったらあっちの人の方がすごい、みたいなことがあって、
難易度高い技決めた人が優勝したけど、私は美しく滑った人の方が好きなんだよな~みたいなことがよくありました。
こういうのって、もう「一つの競技として同じ土俵で競わせて順位を決める」こと自体が無理なんじゃないの、と思います。
というか、物事がそもそもそういう風にできているんじゃないかと思います。
一つの基準で評価できないということの方が当たり前で、理にかなっているんじゃないかと。ましてや勝ち負けでもない、と。

この「勝ち負け」とか「競争」とか「強弱」の価値観、取っ払うことはできませんかね。
というか、この価値観がどういったもので、どういったことを引き起こしているのかを、
社会として、一度直視してみる必要はありませんかね。特に日本は。

「勝ち負け」で「勝つ」ことが、期待した「幸せ」をもたらさないという「現実」を、
直視する必要がありませんかね。特に日本は。


私は、この日本の社会に適応しなくて、本当に長い間辛い思いをしました(今もですが)。
心も体も、いろんな形で壊してきました。
今でも、絶望して身動きが取れなくなることがよくあります。

それでも、私が「生きるっていうのはこういうことじゃないかな」とか、
「人を愛して人と一緒に生きるというのはこういうことじゃないかな」と思えることを、
いくつか見聞きすることができるので、
この人生で私がそういうものに出会えるかどうかは今はわからないけど、
人間の営みの中で、確かにこういうものはある、と思えることを、
少し拾って私自身の希望としたいと思います。


まずは、私の好きなオーディション番組、ゴットタレントシリーズから(動画があった方がわかりやすいと思うし)。

8分26秒くらいから始まる、車椅子の男性ともう一人の男性にによるダンス。
Florent and Justin on France's Got Talent

ちょっと信じられないほど美しくて、言葉になりません。
あまりに美しく、繊細で、心揺さぶられます。痛み、後悔、そして分かち合い。
見終わって、この二人はゲイのカップルなのかな、と思ってしまいましたが、
まぁ恋愛感情があるかどうかはどうでもいいのですが、
二人とも大変美しい男性であるとはいえ、もともとの顔だちもタイプも違うのに、
同じ繊細さ、同じ痛み、同じ悲しみ、ささやかな勇気、そして同じ穢れのない透明感を宿した表情とたたずまいをしていて、なんというか、「一つになるために生まれてきた二人だ」と感じてしまいます。
不思議なことに、この二人のダンスを見ているうちに、審査員や司会者の瞳にまで、
同じ種類の透明な輝きが宿り、人間の本質的な美しさが現れてくるかのようです。
だいぶ以前に、YouTubeで2CELLOSの動画を見ていた時に、あるクラシックの曲の演奏動画のコメントに、「これはゲイの音楽ではない。彼らは友達と素晴らしい演奏ができてうれしいんだ」みたいなものがありました。英語のコメントだったので、厳密にこの通りだったか忘れてしまいましたが。
2CELLOSのお二人はゲイのカップルではないのですが、でも、確かにそのクラシック曲の演奏は、あまりに完璧すぎて、二人が補い合って一つのものを作り上げていて、
「ああ、そうか、恋愛感情がある二人に見えてしまうのも無理はないかもしれない」と思ったのを覚えています。
(まぁ厳密なことを言ってしまえば、基本的に芸術、特に舞台芸術は、恋愛や性愛と同じ性質のものです。)
このダンスの動画で私が感じたものも、そういったものなのかもしれません。

あと、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真でも、寄り添う二人がそっくり同じに写っているものがあります。
ジョン・レノンの曲は大好きな曲もあるけど、まぁ前妻に対する態度とか、それはどうなのと思うこともあるし、
オノ・ヨーコも、まぁ特権階級のお嬢様よね、と思うし、
人間的には正直あんまり好きな人たちではないのだけど、ただ、二人で写っている写真に関しては、人種も性別も顔だちも違う二人が、おんなじ顔に見えるように写っていて、
「この二人は結ばれるべくして生まれてきた二人なんだな」と思います。
こういう風に結ばれることができたのは、とても幸せなことだと思うし、
まぁ人間的に未熟な状態で傷つけた人や物事についてはもちろん害悪であるのだけど、
この二人が結ばれるということに関しては、こうなることになっていたんだなというか、
なんかいろいろ仕方なかったんだなと、妙な感慨を抱きました。

それから、私の好きなNHKの語学番組「旅するヨーロッパ」のシリーズ、
第一シーズン、雅楽師東儀秀樹さんの「旅するイタリア語」の最終回、
とても素敵なご夫婦が出てきました。
イタリア語の先生エヴァさんの友人夫婦のお宅でランチパーティがあったのですが、
とても仲の良いご夫婦で、いつも二人でキッチンにいて一緒に料理をしているとのこと。
で、東儀さんがお礼に笙と篳篥の演奏をしました。
東儀さんが「笙の音は、天から差し込む光を象徴しています」と言って即興で演奏を始めると、旦那さんのイヴォさんは、ポカンと口を半開きにして前のめりになって聞き入ります。
そして演奏が終わると「その音は本当に天上の音色を思わせるね」と感想を言います。
東儀さんがさっさと篳篥に移ろうとするところを、楽器を「見せてもらえる?」と言って説明を求め、試しに演奏させてもらってよい音が出て褒められると、なんとも言えない、子供が褒められて恥ずかしがるような、あふれる気持ちを何と言ったらいいのかわからないというような、少し涙ぐんでいるような表情をします。
イヴォさん、スキンヘッドでひげさえも白髪の男性なのですが、こんなに繊細で、こんなに美しいものを求め、感動する心を持っている。
そして、奥様と仲良くいつも二人でキッチンに立って料理している。
私は、生きるということは、こういうことだと、思いたい。
本来は、誰もがイヴォさんのような、繊細さ、優しさ、美しいものを求める気持ち、愛情を持っていると、思いたい。

日本では、恋愛や結婚でさえも、「成功の証」や「強さの証」としてとらえられ、
恋愛関係や夫婦関係においてすら、「どちらが上か」という主に男性からの権力争いの場にされることが少なくありませんでした。
本当に愛することが必要で、愛を持って生きること、愛し合って生きることを、
そもそも思い描くことすらしないような、そんな風潮がありました。
何のために生きているのだろう、幸せって何なんだろう。
そういう苦しさの中で、「もうこの世界にいたくない」と絶望してしまうことも、
少なからずありました。

それでも、生きることの本質に気づいて、きちんとそれと向かい合って生きている人はこの世界にちゃんといる。
そう思って、消え入りそうになる心の火をまた灯して生きていく。