しばらく前にツイッターで、青森県の怪談についてのお話が流れていました。
もう流れて行っちゃってどなたが発信したものなのかわからなくなってしまいましたが。
青森県に伝わる怪談をまとめた本が数冊発行されているようで、
青森県は、「その手の話」がものすごく多い土地なのだとか。
ただおもしろいことに、「その手の話」が、「フツーのこと」として語られているので、
他所から来た人が「怪談を調査しよう」とするとかえって見つけるのが困難なのだとか。
まぁ、土地の年寄りが当たり前のように「いわゆる怪奇現象」を日々のこととして語る、というような感じなのですかね。
「怪談はありませんか」「怖い言い伝えはありませんか」と聞いても出てこない。あくまでも「フツーのこと」だから(笑)。
で、そういったことを指して、この話を紹介していたツイッター発信者の方が、
青森県は「彼岸が近すぎる」という言い方をしていました。
ちょっと洒落た言い回しで、気に入ってしまいました。
まぁ確かに恐山とかもありますしねぇ。
なんかそういう「あの世(彼岸)」と「この世」の境目が他の地域より薄い土地なのかなぁ、などと思いました。
で、ずいぶん後になって気が付いたら、私の母方、青森県の出身でした。
私はいわゆる霊感体質というか、憑依体質というか霊媒体質というか、まぁ今どきの言葉でいうところの「スピリチュアルな」体質です。
厳密に見えたり聞こえたりするわけじゃないんですが(別にオーラとかも見えません)、
なんかいろいろなことに敏感で、影響を受けやすく、「その手の話」に理解があります。
東京で生活するには非常にやっかいな体質ですが、舞台芸術など芸術活動には有利な体質。
で、母と祖母もそういう体質でした。
母は「そういう話」に理解がなく、むしろ「非科学的」と見下している節があるため、かえって厄介。
憑依体質なのにガードや感情のコントロールをしないので、ネガティブな感情を野放しにしてすんごいレベルの低いエネルギーを呼び集めてしまい(そうすると本人のネガティブな状態がさらに悪化します)、実家が低俗霊の巣窟みたいになってしまう。
それだと私がしんどいので、母がいない時にあらゆるドアや窓を開け放って光と風を通し、掃除をし(特に拭き掃除)、マットやカーテンを洗濯しまくる、みたいな感じ(笑)
祖母は、「そういう体質」を自覚していたのかどうかわからないのですが(私が幼かったので)、かなりその手の力を自分の都合のいいように使えていたようで、今思うと「ちょっと普通ではあり得ないよね」というような「偶然」を起こしている人でした。
私は自分の体質を「母方の遺伝だなぁ」とは認識していたのですが、
これって、もしかして「青森県民」の体質?(笑)
いや最初は、青森という土地が、なんかそういうエネルギー的に「あっちの世界」と「こっちの世界」の境目が薄い土地だからそういうことが起こりやすいのかなと思ったのですが、
体質的にもそういうのを感じ取りやすい体質が受け継がれている、という可能性もある。
あと、土地の文化としてそういうのを「普通のこと」として語っていると、「その手のこと」を見たときに「寝ぼけて見間違えたのかな」と否定せずに、「〇〇を見た」とストレートに認識するようになる、というのはあります。
まぁこういうのって、理由をどれか一つに特定する必要はなくて、全部が要素として絡まり合っているんだろうなとは思いますが。
あと、近年お世話になっているバレエの先生も、割と「その手のこと」がOKな方。
「この人はどういう経緯でこうなったのかなぁ」と思っていたのですが、
ご出身の地域に、そういう霊媒師的な人がいたのだとか。
私としてはとても興味深かったのですが、その霊媒師的な方(今の言葉で言うと「チャネラー」ですかね)はダウン症の女性で「△△ちゃん」と呼ばれて地域で親しまれているのだけど、いわゆる「チャネリング」をするときになると、急に話し方とかも変わって、相談内容について教えてくれるのだとか。
で、数年前にバレエの先生が実家に帰った時、その「△△ちゃん」がもう歳を取ってできなくなったけど、別のダウン症の女性ができるようになったとお母様から聞いて、お母様と一緒に会いに行った、という話をしていました。(この手の話は教室内ではしません(笑))
いや、ちょっとなんというか「現代でもそういうことあるんだな」というか、結構地方ではそういうことが「普通に」残っていたりするのかなと思って、とても興味深かったです。
私は専攻が文化人類学なので、非常に興味深いですね、これ。
で、バレエの先生はそういう環境で育っているので、ほかの「見える・聞こえる・わかる」みたいな人にも抵抗がなく、そういう人からも気軽に「あんた□□だね」と「見えたこと」を話しかけられたりするのだとか。
それから私がずっとお世話になっている鍼の先生から聞いた話では、
先生が鍼灸治療の専門学校に入学した時、校長先生が入学式の挨拶で、
「これから鍼灸の勉強をして治療をしていくうちに、いろんなものが見えたり聞こえたりするようになるかもしれませんが、間違っても新興宗教の教祖になろうとか考えないように。
(いろんなものが見えたり聞こえたりするのは)普通のことなので。」と仰ったそうです。
ちょっとおもしろいですね。
でもまぁ、「普通のこと」だということです(笑)。
私が商品としてご案内している「虹色モヘアのプルオーバー」、
もともとは編み物学校の課題として編んだものをアレンジしたのですが、
この毛糸、ブログ記事でも書いたように、
編み物学校の先生から「夢々しい(ゆめゆめしい)」という聞きなれない評価を頂きました。
まぁ、パステルカラーのグラデーションで、可愛らしくファンタジックな色味であることは間違いありません。
↑この写真を見せたら「光っているのかと思った」と言った人もいます。
私は個人的には「これはユニコーンの翼の色~」と思っていました(私も常識のある大人なので、学校とか一般社会では言いません(笑))。
が、ふと気づいたら、「ユニコーンって翼ないじゃん!!!」
一応解説すると、一本角がある馬がユニコーン(一角獣)で、翼がある馬はペガサス(天馬)。どちらも想像上の動物です。
それを、鍼の先生に言うと結構大うけしていました。「ユニコーンのオーラの色なんじゃないですかね~」と鍼の先生は感じるようでした。
後日ネットで海外情報をぼんやり眺めていたら、ユニコーンの形のオモチャ(プールに浮かんだフロート)の写真があったのですが、それが体が白くて、たてがみや尻尾が虹色のユニコーン。
「あれ、私以外にも虹色がユニコーンの色だと思う人がいるんだ???」と思いました。
で、そのことを再び鍼の先生に話して、「なんで私はあんなに確信的に『これはユニコーンの色』と思ったんですかね~」と言ったら、「見えてるんじゃないですか」と言われました。
本来、人間の視覚器官っていうのはものすごい量の情報を見ているのですが、それを全部視覚情報として伝達してしまうと、処理しきれなくなる。このため、「私はこれを見た」として処理する情報をかなり制限しているのだそうです。まぁ別にスピった話じゃなくて、ごく一般的に言われていることですが。
ただ、明確な記憶として「私はこれを見た」と認識したもの以外も、ちゃんと見えていて、普通の記憶とは違うところにストックされている。それがふとした時に起動する、みたいな感じ。
だから私は「オーラが見える!」「今日ユニコーンがいた!」とか、私の記憶には一切ないんですけど、実はどこかしらか、何かしらかのタイミングで、見ている可能性はある(笑)
で、この「視覚情報を取捨選択して制限する」という人間の機能、別の場所で実験したことがあります。
おもしろいことにそれを解説していたのが、スピリチュアル全否定のカウンセラーの男性だったのですが(笑)
そのカウンセラーの先生が、一般向けの心理学講座みたいなのをやっていたのですが、
「どんだけ人間の記憶があやふやか」ということを確認するために、
「1000円札を見ないで描いてみましょう」というお題がありました。
いや、本当にものの見事に描けないですよ(笑)
なんか青っぽいインクで真ん中に丸い透かしがあって、1000円って右端に書いてあったっけ?みたいな、具体的に絵に描こうとすると、全然描けないんです。
毎日見ているようなものですら、実は全然ちゃんと見ていないんだよね、という話。
ま、これ、うつ病の人がよくする「あの時こういうことがあって、あの人がああいうことを言って、それはこういう意味で、私は世界中から否定されてるんだ~」みたいな病的な思考回路があるんですけど、「それって本当にそうですか?」っていう揺さぶりをかけるためのものなんです。「これしかない!(世界中から否定されているetc.)」と思い込んでいることが、どんだけいい加減な記憶で、それ以外の情報を見落としているか、ということに気づくためのもの。
で、そのお題の最後に、「皆さんこの会場に来るのに地図を見ながら来た人が多いと思うんですけど、この建物の近くに郵便ポストがあるのに気が付いた人はいますか?」
私を含め、気づいた人はほとんどいない様子。
「じゃぁ帰りに郵便ポストがどこにあるか確認してみてください」と言われて、会場を出ると、ポストは建物の入り口の真正面にある(笑)
地図を一生懸命見て「〇〇交差点を右に曲がって、△△ビルね、このビルの◇◇階ね」という歩き方をしていると、建物入り口の真ん前にあるポストが目に入らない(笑)
別にユニコーンとか妖精さんとかじゃなくても、現代社会で存在すると合意されているものでさえ、見えない(笑) というか、「『見た』と認識されない」。
ま、こんなことがあるから、先の青森県の怪談のように、「地元の年寄りがフツーのこととして話している」共同体だと、その下の世代も、現代社会では怪奇現象と言われていることを「〇〇を見た」とストレートに認識するんだろうなぁと思います。
私は東京の外れの新興住宅地で育ったので、そういうものが「見える」ものだと認識する機会がなく、よって、見ても「見た」と思わないのだろうと思います。視覚器官がキャッチしても記憶として処理しないというか。
つまり、仮に「赤いポストの上に赤鬼がいた」場合、
①「鬼なんか存在しない」という認識の社会
+ 他に気を取られながら歩いている(地図を見るなど)
→ ポストも鬼も見えない(見たと認識しない)。
②「鬼なんか存在しない」という認識の社会 + ある程度周りを見て歩いている
→ 「ポストを見た」と認識するが、赤鬼の視覚情報は否定する(認識しない)。
③「鬼は存在する」という認識の社会 + ある程度周りを見て歩いている
→ 「ポストの上に赤鬼がいた」と認識する。
(たぶん青森のお年寄りは「ポストの上に赤鬼が座ってて同じ色しておもしろかった~」
みたいな話し方をするんだろうなぁと推測。津軽弁もう忘れてしまいましたが)
で、もうちょっと言っちゃうと、一般的に「スピリチュアルな能力」と言われているもの、
見える・聞こえる・感じる・未来のことがわかる、みたいなやつ、
私はそんなに特殊な能力じゃないと思っています。
音楽家の絶対音感とか、バレエダンサーのトゥシューズで踊るとか、
そういうのとおんなじレベルの能力。
なんか現代社会って「見えないものが見えるなんておかしい!」みたいな言い方するんだけど(「非科学的」という言葉を使います)、
それ言ったらバレエダンサーがトゥシューズで立って踊るのとかもおかしいのよ(笑)
だって足って、足の裏全面を地面につけて立つようにできているって考えられているでしょ。
それを足の裏どこもつけないで、つま先すらまっすぐにして立って踊るとか(踊るって言っても、片足で何回転もするとか、足180度以上に開脚してジャンプするとか)、そんなの人間の身体の仕組みからしてできるわけない、と考えるのが「科学的」でしょ。
でも、世界中に掃いて捨てるほど(失礼)トゥシューズで立って踊れるバレエダンサーがいて、それで金稼いで生活している人だって山ほどいる。そのバレエダンサーが「インチキ」でも「頭がお花畑」なわけでもないわけよ。
ただ、向き不向きがあるというか、そういうのに適した身体を持って生まれて、正しい訓練を正しい時にすると、できる可能性が高い、という類のもの。現代の人類が全員できるわけではない。でも、できるという人が嘘をついているわけでもない。(ちなみに私はできません(笑))
音楽家の人の絶対音感とかもそんな感じ。
世の中の音が全部「ドレミファソラシド」(音階)で聞こえるとか、「は?何それ?」なわけじゃん、一般人には。
でも、トゥシューズと同じで、素質と適切な時期の適切な訓練で、できる人はできる。
稀に、才能があって大した訓練しなくてもできちゃう人もいる。
あと結構重要なのが、「トゥシューズで立てるからと言って素晴らしいダンサーであるとも限らない」「絶対音感があるからと言って素晴らしい音楽家であるとも限らない」ように、
「スピリチュアルな能力があるからと言って素晴らしい人であるとは限らない」ということがあります。
見える人は見えちゃいますけど、だからと言って霊性が高いかというと、それもまた別の話。
霊格あんまり高くないけど霊的能力高い人っていうのもいますよ。今回のオリンピックで明らかになったように、運動能力高いけど人間的には未熟な人も少なくないように。
なので、その手の能力が高いことをもって「すごい人だ」と思わないように、ということは口を酸っぱくしてお伝えしたいと思います。