2021年9月28日火曜日

まだ壊れていない私たちの心

日本では長年続いていた問題が様々な形で表出して、
日々辛い思いをしています。

が、その一方で、「こういうのが良い」「良いものは良い」というネット上の反応も
たくさん見るようになりました。

日本の社会はたくさんの問題を抱えており、それらが噴出しているけど、
でも、私たちの心はまだ壊れていない。
そして、現状にたくさんの過ちがあるからこそ、
たくさんの人が「どうしたら良くなるのか」と真剣に考えているということを、
今、目にしています。

そういうものを、少し拾ってみたいと思います。

*******

しばらく前にツイッターで、地方の巨大な駐車場の上に、ソーラーパネルが設置されている写真が流れていました。
ソーラーパネルが屋根のようになっていて、ツイッター発信者の方が、
「車が熱くならないという意味でも良い」というようなコメントをつけていました。
これに万単位の「いいね」がついていました。

原発をやめて、エコロジカルな発電で電気を賄いたい、とたくさんの人が望んでいます。
でも日本ではお金や権力を持っている人の中に、根本的に物事を理解できていない人が多く、「これからは太陽光発電だ」と言えば、豊かな山を切り開いてはげ山にして太陽光パネルを設置するような業者もいます。
お金も権力もない庶民は、「そうじゃない」「違う違う」と思いながら自分ではどうすることもできない……という状況がありました。

そういう中でこの巨大駐車場の屋根をソーラーパネルにした写真に、
たくさんの人が「こういうことが正しい!」「こういうことをやってほしい!」と
喜んだのだと思います。

もっと以前には、使われなくなった飛行場の滑走路にソーラーパネルを設置している写真も流れていました。
こういう「すでに更地になっているところ」で「使われずに放置されているところ」に
ソーラーパネルを設置するというのは、とても良い方法だと思います。

山や緑地には、そこでしかできない自然の役割があります。
人間が生きる以上、宅地や畑、工場や商業施設など、自然を破壊して作らなければならないものはある。
でも、それ以外のところはできる限り、自然のままに残したい。
破壊してしまった後で、それがどういう役割を果たしていたのか、私たちは理解することができない。同じものを同じように再生することもできない。

すでに人間が入って人工物を作ってしまったところで、太陽光発電をした方が良い。
たくさんの人たちがそういうことをわかっていて、でも自分たちで大規模発電施設を作れる財力を持たないからこそ、歯がゆい思いをしていた。
本当にエコロジカルなエネルギーを望んでいるのに、思い違いをしている金持ちが山を切り崩し自然破壊して作った太陽光発電施設をエコロジカル扱いしていることを、本当に腹正しく思っていた。
そういう思いが、これらの写真に万単位の「いいね」という形で現れたのだと思います。

私はずっと東京(の田舎と下町)で生活していたので、地方の土地の感覚があまりわからないのですが、ツイッターで流れていたように、地方に平地の巨大な駐車場があるなら、太陽光発電にうってつけだと思います。
都市圏の立体駐車場でも、うっかり混んでいて屋上までくると日差しがきつくて車が熱くなって困るので、すべての駐車場の屋根にソーラーパネル設置を義務化してもいいくらい。

というか国の政策として、商業施設や工場、一般の住宅も、設置可能な形状の建物にはすべてソーラーパネルを設置するように税金で賄い運営するべきだと私は思います。
上下水道や電気の配線と同じレベルで、ソーラーパネルの設置と管理を運営するべきだと思います。
もちろんこういったことは、現在の自民党・公明党政権(維新も含む)では不可能なので、政権交代した後の話ですが。

農地の上にソーラーパネルを設置している方もいるようで、作物の種類や地域によっては、そういうことも可能なのかもしれません。

また、今回のオリンピックで問題となった東京湾の水質汚染、東京の下水道の仕組みに起因するものです。雨水の量が多くなると下水に合流してどちらも東京湾に流れてしまうような仕組みになっているそうで、東京の配管設備が古く現在の気候に合っていないことが原因のようです。
これも、公共事業として東京の下水道設備を一新し、合わせて雨水の配管には小水力発電を設置するといいんじゃないかと思います。
晴れの日には太陽光発電で、雨の日には小水力発電でそれぞれ発電できるようにすれば、より安定した発電ができるようになるんじゃないかと思います。
こういう大規模な公共事業をやることで仕事を作り出し、かつ、問題であった東京湾の汚染を改善し、よりエコロジカルな発電もできる。
これも同じく自民党・公明党(+維新の会)政権を終わらせて、政権交代した後の話です。


また、「お店のレジ打ちを立ってやるのではなく、座ってやるようにすれば、
立ち仕事がつらい人や車いすの人でも仕事ができて良いのではないか」というツイートも、
半年に1回くらい流れてきて、それらも万単位の「いいね」が付いています。

そもそもレジを立ってやるのは日本くらいのものだそうで、
海外では座ってやるのが主流のようですね。
正直、あんまり「立っている」ことに意味はないように思います。
まぁお店の形態にもよりますけども。

一人で切り盛りしていてお店の隅々まで見渡す必要がある、とか、
コンビニのように後ろや横の棚からいろいろなものをもってこないといけない、とか、
そういうところは立ってやればいいだろうと思います。
どういうわけか、自分の仕事を「座ってでもできる価値の低い仕事」扱いをされたと言わんばかりに怒って反論してくる人が毎回いるのですが、
それは「店舗の形態による」というだけの話じゃないですかね。

スーパーやドラッグストア、ある程度規模の大きい販売店だと、
たいていレジが複数台あって、
お客さんがいない時でも一人は必ずレジに立つことになっているじゃないですか。
私は昔、無〇良品で販売員をしていたことがあったんですが、
「1レジ」「2レジ」みたいな感じで担当決まっていて、
「1レジ」担当は必ずレジに張り付き。
で、レジが混んできたら他のレジ担当を呼び集める。レジの混雑が終わったら、
「1レジ」以外は売り場整理に戻る、みたいな感じ。
見ていると、少し規模の大きいところはどこもそんなやり方していますよね。
その「1レジ」を、立ち作業が辛い人が担当できるようにすればいいんじゃないか、という趣旨で流れているツイートだと思います。

あと「立っている方が礼儀正しい」みたいなよくわからない理屈をこねたがる人もいて、
「あなたは買い物をするときに『立ってやるレジの店』と『座ってやるレジの店』とどちらを選びますか」みたいな反論の仕方をしてくる人もいるのですが(これネトウヨの人たちがよく使う反論の構文です)、そんなもん座って気持ちよく働ける店がいいに決まってるじゃん、と私は思います。
別に目の前の働く人が苦しむことを求めているわけではないのですよ。
ただ、必要な物を買うのにレジでお金を払う必要があるだけで。
召使も奴隷も必要ないです。
お互いが必要なことをするために、お互いが気持ちよくできる状況であればいいだけです。
働きたいと思う人が、働ける機会がたくさんあった方がいい。それだけの話です。
そしてそう感じている人がたくさんいるからこそ、この手のツイートに万単位の「いいね」が付くのだと思います。
(一方で、今回のテキサスの法整備で明らかになったように、自分が虐げることができる奴隷を必要とする人たちがいます。日本のネトウヨや一部の人たちもそうです。そういう人たちは精神的な治療が必要です。これまで日本では「被害者(外傷を受けた人やうつ病患者など)」に対する治療しかしていませんでしたが、本来は「加害者」の治療をするべきです。)


またどこかのスーパーでは、「ゆっくりレジ」という仕組みを作ったところがあるそうです
もともとは敬老の日だかシルバーウィークだかの単発のイベントとして作ったようですが、
お年寄りがお財布を出すのに時間がかかったり、小銭を出すのに時間がかかったりするのを、「気にしないでゆっくりしていただいて大丈夫ですよ」というレジだそうです。
そして、「少しおしゃべりされていっても大丈夫ですよ」というものだそうです。

これ、素晴らしいですね。

日本のスーパーの仕組みは、お年寄りには冷酷です。
お財布がどこにいったかわからない、小銭をうまく取り出せない、そんなこと歳を取ったら誰にでも起こりうるでしょう。
そして、昔の個人商店ではあったような、日々の挨拶やちょっとした世間話がない生活は、あまりにも無味乾燥していて、お年寄りどころか、私にだって辛いです。
レジに時間がかかっても、後ろの人がイライラしない仕組み、とても画期的だと思います。
この仕組みは、好評だったのか、期間が終わっても午後の一部の時間でこれからも続けるとのことです。
どこの地域での取り組みなのかわかりませんが(ツイッターで流れてました)、この仕組み、いろいろな地域で広がってほしいです。

もちろん、忙しくてレジを少しでも早く済ませたい人もたくさんいます。
だから、海外では一般的な「商品数が少ない人用のスピーディレジ」と、「一般レジ」、「ゆっくりレジ」を用意すれば、いろいろな人が幸せにお買い物できるようになるのではないかと思います。

竹中平蔵や自民党議員やその利権関係者に流れるお金を「なくして」、
こういうレジにきちんと人件費を払って仕組みを作れば、私たちの社会は本当に良くなります。


そしてもう一つ、「ビッグイシュー 414号」に掲載されていた記事から(『約700種の食品、すべて個包装せず量り売り 容器持参の「ゼロウェイストスーパー」オープン』 2021.9.1)。

できるかぎりのごみ削減を目指して商品すべてを量り売りする「斗々屋」さんというスーパーが京都にできたそうです。
こちらは画期的な計量技術が用いられていて、「量り売り」にまつわる「計量が大変」とか「時間がかかる」という難点を解決し、1時間に100人分のレジができる仕組みが導入されているのだとか。
この技術面を支えたのが、計量器メーカー「㈱寺岡精工」。
斗々屋の量り売りのモデルショップが、東京にオープンしたことを新聞で知った同社会長が訪問し、

「そこで若い方々が量り売りの普及に取り組んでいる姿を見て、量りを作ってきた会社の人間として非常に胸を打たれたんです。これはぜひ一緒に活動したいと、押しかけ営業してしまいました(笑)」(p.23)

とのこと。 

この斗々屋さんを運営する㈱斗々屋は、そもそもフランスで料理を勉強した梅田温子氏が、日本向けにオーガニック食材の卸をはじめ、環境に配慮した商品だからごみ問題にも取り組みたいと、量り売り専用の卸事業を始めたものだそう。

少しでも世の中を良くするやり方をしたいと試行錯誤する人に感化されて、
こうしていろいろなジャンルの人が合流し、新しい仕組みが生まれる。

日本の社会の、政治の、ひどい状況に疲れて心が動かなくなっていたところ、
この記事を読んで本当に救われました。
こうして、世の中を良くしたいと試行錯誤している人たちは、いろんな分野でいる。
そして、その心意気に感化されて、協力を申し出る人たちもいろんな分野でいる。
まだまだ、変えていけるはず。
私たちの社会を良くして行けるはず、と勇気づけられます。

彼岸との距離

しばらく前にツイッターで、青森県の怪談についてのお話が流れていました。
もう流れて行っちゃってどなたが発信したものなのかわからなくなってしまいましたが。
青森県に伝わる怪談をまとめた本が数冊発行されているようで、
青森県は、「その手の話」がものすごく多い土地なのだとか。
ただおもしろいことに、「その手の話」が、「フツーのこと」として語られているので、
他所から来た人が「怪談を調査しよう」とするとかえって見つけるのが困難なのだとか。
まぁ、土地の年寄りが当たり前のように「いわゆる怪奇現象」を日々のこととして語る、というような感じなのですかね。
「怪談はありませんか」「怖い言い伝えはありませんか」と聞いても出てこない。あくまでも「フツーのこと」だから(笑)。

で、そういったことを指して、この話を紹介していたツイッター発信者の方が、
青森県は「彼岸が近すぎる」という言い方をしていました。
ちょっと洒落た言い回しで、気に入ってしまいました。

まぁ確かに恐山とかもありますしねぇ。
なんかそういう「あの世(彼岸)」と「この世」の境目が他の地域より薄い土地なのかなぁ、などと思いました。

で、ずいぶん後になって気が付いたら、私の母方、青森県の出身でした。
私はいわゆる霊感体質というか、憑依体質というか霊媒体質というか、まぁ今どきの言葉でいうところの「スピリチュアルな」体質です。
厳密に見えたり聞こえたりするわけじゃないんですが(別にオーラとかも見えません)、
なんかいろいろなことに敏感で、影響を受けやすく、「その手の話」に理解があります。
東京で生活するには非常にやっかいな体質ですが、舞台芸術など芸術活動には有利な体質。
で、母と祖母もそういう体質でした。

母は「そういう話」に理解がなく、むしろ「非科学的」と見下している節があるため、かえって厄介。
憑依体質なのにガードや感情のコントロールをしないので、ネガティブな感情を野放しにしてすんごいレベルの低いエネルギーを呼び集めてしまい(そうすると本人のネガティブな状態がさらに悪化します)、実家が低俗霊の巣窟みたいになってしまう。
それだと私がしんどいので、母がいない時にあらゆるドアや窓を開け放って光と風を通し、掃除をし(特に拭き掃除)、マットやカーテンを洗濯しまくる、みたいな感じ(笑)
祖母は、「そういう体質」を自覚していたのかどうかわからないのですが(私が幼かったので)、かなりその手の力を自分の都合のいいように使えていたようで、今思うと「ちょっと普通ではあり得ないよね」というような「偶然」を起こしている人でした。

私は自分の体質を「母方の遺伝だなぁ」とは認識していたのですが、
これって、もしかして「青森県民」の体質?(笑)

いや最初は、青森という土地が、なんかそういうエネルギー的に「あっちの世界」と「こっちの世界」の境目が薄い土地だからそういうことが起こりやすいのかなと思ったのですが、
体質的にもそういうのを感じ取りやすい体質が受け継がれている、という可能性もある。
あと、土地の文化としてそういうのを「普通のこと」として語っていると、「その手のこと」を見たときに「寝ぼけて見間違えたのかな」と否定せずに、「〇〇を見た」とストレートに認識するようになる、というのはあります。
まぁこういうのって、理由をどれか一つに特定する必要はなくて、全部が要素として絡まり合っているんだろうなとは思いますが。


あと、近年お世話になっているバレエの先生も、割と「その手のこと」がOKな方。
「この人はどういう経緯でこうなったのかなぁ」と思っていたのですが、
ご出身の地域に、そういう霊媒師的な人がいたのだとか。
私としてはとても興味深かったのですが、その霊媒師的な方(今の言葉で言うと「チャネラー」ですかね)はダウン症の女性で「△△ちゃん」と呼ばれて地域で親しまれているのだけど、いわゆる「チャネリング」をするときになると、急に話し方とかも変わって、相談内容について教えてくれるのだとか。
で、数年前にバレエの先生が実家に帰った時、その「△△ちゃん」がもう歳を取ってできなくなったけど、別のダウン症の女性ができるようになったとお母様から聞いて、お母様と一緒に会いに行った、という話をしていました。(この手の話は教室内ではしません(笑))
いや、ちょっとなんというか「現代でもそういうことあるんだな」というか、結構地方ではそういうことが「普通に」残っていたりするのかなと思って、とても興味深かったです。
私は専攻が文化人類学なので、非常に興味深いですね、これ。
で、バレエの先生はそういう環境で育っているので、ほかの「見える・聞こえる・わかる」みたいな人にも抵抗がなく、そういう人からも気軽に「あんた□□だね」と「見えたこと」を話しかけられたりするのだとか。


それから私がずっとお世話になっている鍼の先生から聞いた話では、
先生が鍼灸治療の専門学校に入学した時、校長先生が入学式の挨拶で、
「これから鍼灸の勉強をして治療をしていくうちに、いろんなものが見えたり聞こえたりするようになるかもしれませんが、間違っても新興宗教の教祖になろうとか考えないように。
(いろんなものが見えたり聞こえたりするのは)普通のことなので。」と仰ったそうです。
ちょっとおもしろいですね。
でもまぁ、「普通のこと」だということです(笑)。

私が商品としてご案内している「虹色モヘアのプルオーバー」、
もともとは編み物学校の課題として編んだものをアレンジしたのですが、
この毛糸、ブログ記事でも書いたように、
編み物学校の先生から「夢々しい(ゆめゆめしい)」という聞きなれない評価を頂きました。
まぁ、パステルカラーのグラデーションで、可愛らしくファンタジックな色味であることは間違いありません。


↑この写真を見せたら「光っているのかと思った」と言った人もいます。
私は個人的には「これはユニコーンの翼の色~」と思っていました(私も常識のある大人なので、学校とか一般社会では言いません(笑))。
が、ふと気づいたら、「ユニコーンって翼ないじゃん!!!」
一応解説すると、一本角がある馬がユニコーン(一角獣)で、翼がある馬はペガサス(天馬)。どちらも想像上の動物です。
それを、鍼の先生に言うと結構大うけしていました。「ユニコーンのオーラの色なんじゃないですかね~」と鍼の先生は感じるようでした。
後日ネットで海外情報をぼんやり眺めていたら、ユニコーンの形のオモチャ(プールに浮かんだフロート)の写真があったのですが、それが体が白くて、たてがみや尻尾が虹色のユニコーン。
「あれ、私以外にも虹色がユニコーンの色だと思う人がいるんだ???」と思いました。
で、そのことを再び鍼の先生に話して、「なんで私はあんなに確信的に『これはユニコーンの色』と思ったんですかね~」と言ったら、「見えてるんじゃないですか」と言われました。
本来、人間の視覚器官っていうのはものすごい量の情報を見ているのですが、それを全部視覚情報として伝達してしまうと、処理しきれなくなる。このため、「私はこれを見た」として処理する情報をかなり制限しているのだそうです。まぁ別にスピった話じゃなくて、ごく一般的に言われていることですが。
ただ、明確な記憶として「私はこれを見た」と認識したもの以外も、ちゃんと見えていて、普通の記憶とは違うところにストックされている。それがふとした時に起動する、みたいな感じ。
だから私は「オーラが見える!」「今日ユニコーンがいた!」とか、私の記憶には一切ないんですけど、実はどこかしらか、何かしらかのタイミングで、見ている可能性はある(笑)

で、この「視覚情報を取捨選択して制限する」という人間の機能、別の場所で実験したことがあります。
おもしろいことにそれを解説していたのが、スピリチュアル全否定のカウンセラーの男性だったのですが(笑)
そのカウンセラーの先生が、一般向けの心理学講座みたいなのをやっていたのですが、
「どんだけ人間の記憶があやふやか」ということを確認するために、
「1000円札を見ないで描いてみましょう」というお題がありました。
いや、本当にものの見事に描けないですよ(笑)
なんか青っぽいインクで真ん中に丸い透かしがあって、1000円って右端に書いてあったっけ?みたいな、具体的に絵に描こうとすると、全然描けないんです。
毎日見ているようなものですら、実は全然ちゃんと見ていないんだよね、という話。
ま、これ、うつ病の人がよくする「あの時こういうことがあって、あの人がああいうことを言って、それはこういう意味で、私は世界中から否定されてるんだ~」みたいな病的な思考回路があるんですけど、「それって本当にそうですか?」っていう揺さぶりをかけるためのものなんです。「これしかない!(世界中から否定されているetc.)」と思い込んでいることが、どんだけいい加減な記憶で、それ以外の情報を見落としているか、ということに気づくためのもの。
で、そのお題の最後に、「皆さんこの会場に来るのに地図を見ながら来た人が多いと思うんですけど、この建物の近くに郵便ポストがあるのに気が付いた人はいますか?」
私を含め、気づいた人はほとんどいない様子。
「じゃぁ帰りに郵便ポストがどこにあるか確認してみてください」と言われて、会場を出ると、ポストは建物の入り口の真正面にある(笑)
地図を一生懸命見て「〇〇交差点を右に曲がって、△△ビルね、このビルの◇◇階ね」という歩き方をしていると、建物入り口の真ん前にあるポストが目に入らない(笑)
別にユニコーンとか妖精さんとかじゃなくても、現代社会で存在すると合意されているものでさえ、見えない(笑) というか、「『見た』と認識されない」。

ま、こんなことがあるから、先の青森県の怪談のように、「地元の年寄りがフツーのこととして話している」共同体だと、その下の世代も、現代社会では怪奇現象と言われていることを「〇〇を見た」とストレートに認識するんだろうなぁと思います。
私は東京の外れの新興住宅地で育ったので、そういうものが「見える」ものだと認識する機会がなく、よって、見ても「見た」と思わないのだろうと思います。視覚器官がキャッチしても記憶として処理しないというか。

つまり、仮に「赤いポストの上に赤鬼がいた」場合、
①「鬼なんか存在しない」という認識の社会
 + 他に気を取られながら歩いている(地図を見るなど)
  → ポストも鬼も見えない(見たと認識しない)。
②「鬼なんか存在しない」という認識の社会 + ある程度周りを見て歩いている
  → 「ポストを見た」と認識するが、赤鬼の視覚情報は否定する(認識しない)。
③「鬼は存在する」という認識の社会 + ある程度周りを見て歩いている
  → 「ポストの上に赤鬼がいた」と認識する。
 (たぶん青森のお年寄りは「ポストの上に赤鬼が座ってて同じ色しておもしろかった~」
  みたいな話し方をするんだろうなぁと推測。津軽弁もう忘れてしまいましたが)


で、もうちょっと言っちゃうと、一般的に「スピリチュアルな能力」と言われているもの、
見える・聞こえる・感じる・未来のことがわかる、みたいなやつ、
私はそんなに特殊な能力じゃないと思っています。
音楽家の絶対音感とか、バレエダンサーのトゥシューズで踊るとか、
そういうのとおんなじレベルの能力。

なんか現代社会って「見えないものが見えるなんておかしい!」みたいな言い方するんだけど(「非科学的」という言葉を使います)、
それ言ったらバレエダンサーがトゥシューズで立って踊るのとかもおかしいのよ(笑)
だって足って、足の裏全面を地面につけて立つようにできているって考えられているでしょ。
それを足の裏どこもつけないで、つま先すらまっすぐにして立って踊るとか(踊るって言っても、片足で何回転もするとか、足180度以上に開脚してジャンプするとか)、そんなの人間の身体の仕組みからしてできるわけない、と考えるのが「科学的」でしょ。
でも、世界中に掃いて捨てるほど(失礼)トゥシューズで立って踊れるバレエダンサーがいて、それで金稼いで生活している人だって山ほどいる。そのバレエダンサーが「インチキ」でも「頭がお花畑」なわけでもないわけよ。
ただ、向き不向きがあるというか、そういうのに適した身体を持って生まれて、正しい訓練を正しい時にすると、できる可能性が高い、という類のもの。現代の人類が全員できるわけではない。でも、できるという人が嘘をついているわけでもない。(ちなみに私はできません(笑))

音楽家の人の絶対音感とかもそんな感じ。
世の中の音が全部「ドレミファソラシド」(音階)で聞こえるとか、「は?何それ?」なわけじゃん、一般人には。
でも、トゥシューズと同じで、素質と適切な時期の適切な訓練で、できる人はできる。
稀に、才能があって大した訓練しなくてもできちゃう人もいる。

あと結構重要なのが、「トゥシューズで立てるからと言って素晴らしいダンサーであるとも限らない」「絶対音感があるからと言って素晴らしい音楽家であるとも限らない」ように、
「スピリチュアルな能力があるからと言って素晴らしい人であるとは限らない」ということがあります。
見える人は見えちゃいますけど、だからと言って霊性が高いかというと、それもまた別の話。
霊格あんまり高くないけど霊的能力高い人っていうのもいますよ。今回のオリンピックで明らかになったように、運動能力高いけど人間的には未熟な人も少なくないように。
なので、その手の能力が高いことをもって「すごい人だ」と思わないように、ということは口を酸っぱくしてお伝えしたいと思います。

2021年9月2日木曜日

競争ではなく

ちょっと私うっかりしておりました。
先日の記事、以前からつらつら書いていたものを、
私の体調が良くなったのと、壊れたPC買い換えたタイミングでアップしたのですが、
ちょうど日本の終戦記念日というか敗戦の日にアップしてしまいました。
あくまでも「負けを引き受けること」という意味について書いていたもので、
先の大戦の総括として書いたものではありません。
日本の加害責任について、今まだ私は語ることができず、何をどういう風に言葉にしたらいいのかわからないでいます(そういう事柄がたくさんあります)。
たくさんの苦しみを与え、大切なものを奪ったことについて、ただただ申し訳なく、
二度と繰り返してはいけないと思いながら、
今またたくさんの過ちを重ねている日本を、どうしたらいいのか、どうしたら少しでも他の国に迷惑をかけていることを減らし、日本に住んでいる私たち自身ももっと幸せに生きることができるのかと、考えている次第です。

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私はHSP(Highly Sensitive Person)という共感性や感受性が強いタイプで、
今の日本のようなひどい社会状況にあると、心身共に参ってしまいます。
ちょっとまた感情がダウンして身動きが取れなくなっていました。

今の自民・公明党政権下の日本というのは、トランプ政権下のアメリカみたいなもので、
「何をどう言いつくろってもダメなものはダメ。とにかく政権が変わらないとどうしようもない」という状況です。
アメリカの中に多くの問題があり、それでもトップが変わることで良い方向に舵を切ることができ、やがては少しずつ問題を改善して全体的に良くなっていくだろうと思うことができるように、
日本にも長年抱えてきた宿痾ともいうべき問題があり、今の政権はそこを強調して社会を分断し破壊することで自らをながらえてきていますが、
この政権を終わらせることで、問題を解決するためのものと認識し、まだ日本に残っている「良い部分」を伸ばしていく方向に舵を切ることができると思っています。

個々の事例を取り上げると私の心がつぶれてしまうので、現在表面化している個々の事例についての言及は今はできませんが、
諸々の事柄の根幹にあることについて、少し書いてみたいと思います。

「勝ち負けの概念について」といったところですかね。
前回の記事、「負けを引き受けること」というのがテーマだったのですが、
まぁ本来は、勝ち負けとか競争とかの概念を、もう手放して終わりにしようよ、ということが、私の言いたいことです。

「誰かを踏みつけにしないと生きていられない」みたいな心理が、現実として牙をむいているのが、今の日本の社会のあり様だなと思います。
入管での残酷な殺人、女性を狙った犯罪、コロナ禍での対応、オリンピック・パラリンピックの強行開催、沖縄の基地問題、アフガンからの関係者救出、メンタリストDaiGoやそれに類する人々の発言、日々見聞きする「些細なこと」と思われることに至るまで、物差しが全部「勝ち負け・強弱」でしかない人が起こしていることだなと思います。

私の母親はいわゆる「毒になる親」で、非常に問題のある人ですが、
彼女は「戦って生き残る」という世界観で生きている人でした。
「誰かから奪い取る、自分が少しでも多く取る、自分が相手よりも強くなる。」そうすることで生き残ることができる、という世界観で生きているんだなと思います。
私から見て、とても論理破綻しているなと思うのは、
「自分が相手よりも強くなることで生き残る」=「幸せ」と認識していることです。
まぁ、生物的にというか物理的にというか、相手を打ち負かせば生き残るという状況はあるだろうと思いますが、そのことと、「人間社会における幸せ」とは、おそらく相いれないだろう、と私は思います。

母は絵を習っているのですが、その教室で「忙しくて全然描けてないわぁ~」と言いながら、陰ではしっかり描いて準備しておく、みたいなことを「賢い人のやり方」であるように言ったりします。
そういうのを聞くと「この人は一体何をやりたいのかなぁ」と思います。
嘘しか言わないなら人から信用されず友達もできないだろうし、
自分の芸術性の追求のために絵を描いていて周りの人なんかどうでもいいというなら、
「私は全然描けてないのよ~」なんて言う必要はない。
私だったら「好きな絵を描くことを楽しみつつ、同じ趣味を持つ友達ができたらいいな」と考えるので、絵を描くことはできる範囲で一生懸命して、教室でご一緒する方とも誠心誠意お話したいなと思いますけどね。
周りの人を出し抜いてすごい絵を描けば、みんなから称賛されて愛されて幸せになれる、みたいなことを思い描いているみたいなんですけど、そんな世界ありますかね。
絵が下手でも、一緒にいて心地いい人とお話ししたいなと思ったり、友達になりたいなと思ったりするのが一般的じゃないかなと思います。
ま、孤高の天才みたいな人は常にいて、凡人には近寄りがたい雰囲気で、ものすごい芸術性を発揮する人もいるので、そういうタイプはまた別の話ですけども。

母のこういうところを見ると、「この人はまだ戦中・戦後の世界を生きているんじゃないか」と思ったりします。自分が生き残るために他人の食べ物を奪ったりするような世界に生きているんじゃないかと思います。

この「勝ち負けの世界観」と「幸せ」をごっちゃにしている人が、母に限った話じゃなく、
今の日本のいたるところに跋扈していて、時々「私がおかしいのかな」というか「私これから先この世界で生きていけるのかな」みたいな感覚に陥ることもしばしばです。

先日ツイッターで流れてきて話では、「夫に『収入を上げるために勉強をしたいから協力してほしい』と言われたので、数年間家事と育児を一人でがんばった女性が、晴れて転職して年収アップした夫から『俺の年収を超えてみろ』とマウントを取られた。『同じ年月家事と育児を代わってもらったらあなたの年収を超えてみせます』と返したら『ごめんなさい』と謝られた。謝らなくていいから私はフェアな戦いをしたい」という女性のツイートがありました。
この「夫」、家族を何だと思っているのかなっていうね。
まぁ、こういう男性多いですけどね。

大体女性の愚痴を見聞きしていて思うのは、男性側が「家族」というものを理解していないことが多いということです。
家族ってさ、生活していくための一つの共同体でしょ。
「生活を成り立たせるために必要なこと」っていうのが必ずあって、
現金収入を得ることや、家事の一つ一つや、育児や、親族との関係性や、地域社会との関係性とか、いろいろ「その家族の単位」で成し遂げなきゃならないことがあるわけよ。
で、その「家族の単位」の中で、「誰が何の役割をどのくらい分担するか」というのは、
その家族の中で状況に応じて分担していくものじゃないかと、私は思います。
どちらかが病気になったりしたら働ける人が働き、
子供に手がかかるときはもう一人が仕事も家事もカバーするとか、
「家族の単位」で成し遂げなきゃいけないことを、臨機応変に役割分担を変えて対応していくチームじゃないの、と思います。
なんだけど、先のツイートの「夫」とか、よく見聞きする愚痴に出てくる「パートナー(男)」とか、そういう「チーム」とか「共同体」とかの概念がすっぽ抜けていて、「自分がトップにある」ことが何よりも優先する。
チームワークじゃなくて、勝ち負け。
で、母と同じで、「勝てば幸せになる」と思っている。
目の前のものをすべて自分の下に組み敷こうとして、無意味な戦いを挑んでくる。

オリンピックの時も、若い選手が「『思い知ったか』と思わせたい」と発言していて、
なんでこういう風に取り違えちゃうんだろうなぁと思いました。
今回のコロナ禍で、私も、東京大会に限らずオリンピック全体をもう廃止しちゃえばいいよ、と思うに至りましたが、オリンピックの仕組みそのものが、競技スポーツの仕組みそのものが、勝ち負け・強弱の価値観を強化するものなので、正直、ここまでくると害悪でしかないです。

メンタリストDaiGoも「成功することが復讐」みたいなこと言っていたような気がしますが、その昔、ユーミンの歌にも「幸せはあなたへの復讐」みたいな歌詞ありましたね。
まぁ自分を振った男に思い知らせるために、きれいになって、あなたよりももっといい男と恋愛して、見返してやる、悔しがらせてやる、みたいな内容でしたけど。
あの男憎しで、美貌を磨き、「あの男よりもいい男(金持ちとかイケメンとか)」と恋愛して、「どうだ思い知ったか」とやることと、「幸せ」って、イコールですかね、って話なんですけどね。
その男が悔しがる顔を確認しないといられないのは、まったくもって不幸じゃないですかね。
その男のことなんか忘れるほど夢中になれる何かに出会って楽しむことができたら、それは本当に幸せだと思いますよ。それが恋愛であれ、才能を生かすことであれ。

なんかこの勝ち負けとか競争の価値観を持っている人と一緒に何かやるのって、
無理じゃないですか。それが家族であれ、仕事であれ。
今の社会って、仕事も競争の価値観で動いていますけど、それも間違ってませんかね。

自分のやりたいことを追及していたら結果的に「あなたが一番すごい」と言われた、はあるかもしれないけど、「一番になること」を目指してやっていると、自分を見失って何をしているのかわからなくなりませんかね。

オリンピックでも今のスポーツって、「勝ち負け」を競うんですけど、「勝ち負け」を競わないとスポーツってできないもんですかね。
例えばさ、テニスとか、延々と打ち合い続けてその打ち返し合う中で何かが生まれる、みたいな楽しみ方ってないですかね。
相手が打ち返せないような球を打つことじゃなくて、お互いに返し合い続けることを楽しむ、みたいなこと。
夢枕獏の小説『宿神』で、のちに西行法師となる佐藤義清と蹴鞠の名手(名前忘れた)との蹴鞠のシーンの描写が、そういったものでした。
蹴鞠は鞠を落とさずに続ける中で、華麗な技を披露するという類のもののようで、
佐藤義清と蹴鞠の名手のやり取りの中で、素晴らしい技が次々と繰り出され、その時間と空間が現実世界とは違うものになったように感じられた、という描写でした。
こういう感覚、舞台芸術でもよくありますし、現代のスポーツでも感覚として持っている方は少なからずいるようです。「ゾーンに入る」という言い方をするようですが、球が止まって見える、とか、スローモーションに見える、とか、そういう感覚です。
この蹴鞠のシーンとかは、相手が落とすような鞠を蹴って相手を負けさせよう、という心理は働いていないのですが、それでも、この二人の蹴鞠を見た人たちは、「あれこそ当代一の蹴鞠の名手よ」と思うわけじゃないですか。

あと今回のオリンピックのものじゃないんですけど、競技サーフィンの選手の言葉で、
「なんだかなぁ」と思ったものがありました。
試合の時に、「先に出て大技を決めたほうが、相手に心理的ダメージを与えられて有利だから、試合では早くに出る方を選ぶ」みたいなこと言っている人がいました。
まぁ、「競技サーフィン」というものは、そういうものなのかもしれないけど、
なんか、「何にもわかってねぇな、こいつ」と思いました。
私はサーフィンやらないんですけど、でも「海で遊ぶ」「自然の中で遊ぶ」って、そういうことじゃねぇだろ、と思います。
以前見たジェリー・ロペスのポスターで、すごい大波に乗りながら興奮して叫んでいるようなものを見たことがありますが、たぶん、ジェリー・ロペスが「競技相手」を意識することはないんじゃないかと思います。

昨年、日本のコロナ禍がいったん収まったように感じられた秋口に、どうしても耐えられなくて近場の海に行って、一日浜辺でのんびりしたことがあったのですが、
その時に地元のサーファーの男性にナンパされて少し話をしました。
私はもともと一人で旅行したりして、地元の人や宿で一緒になった人とよくおしゃべりを楽しんで友達になったりするので、
まぁ、海が好きな人と話をすること自体は基本歓迎なんですけど、
なんかどうにも「ドヤりたがる」のは勘弁してほしいですね。
その海はサーフィン向きの海なので、たくさんサーファーさんがいるんですが、
私がよく座って海を眺める浜は、良い波が立つのが割と沖の方なので、上手な方しかいません。が、少し離れたところでは、波打ち際近くに良い波が立つので、たくさんの人がイモ洗い状態でサーフィンをしています。
そのことについて、私が「ここは人が少なくて上手な人だけだからいいけど、あっちの方とか行くと、イモ洗い状態で、なんか『見栄の張り合い』みたいなことになってるでしょ」というと、その男性が「あれは『見栄の張り合い』なんじゃなくて『戦い』なんだよ」とドヤるのです。
ほんとクソだなと思いながら「私はそんなもの見たくないよ。そんなもの東京にいれば電車の中ででもどこででも見られるんだよ。私はそんなもの見るためにここまで来てるわけじゃないよ」と言いました。
まぁ私も素潜りやドルフィンスイムやるんで(今は経済的に無理だけど)、「私も人間だから競争心はあるけどね、イルカと泳ごうとして海入ると『あのイルカと私が泳ぎたい』みたいな気持ちは出ちゃうけどね、でも、海で遊ぶとか、イルカと遊ぶって、そういうことじゃないでしょ。海とか、自然と、自分がどれだけ一緒にできるか、でしょ」と言いました。
そしたら、その男性も私が言わんとしていることがわかったのか、「そういえば〇〇浜とか行くと、自分でも『うまくライドできたな~』と思ったときは他の人がシャカサイン(ハワイのハンドサイン。やったね、みたいな意味がある)してくれるなぁ」と言いました。
「そう、そういう文化があるところが好き」と私も応えました。
まぁ、女性に「すご~い」と言われてチヤホヤされたい気持ちと、本当に海が好きで海で遊ぶことを楽しみたい気持ちと、両方あるんだなと思いましたが。
ただ、私の感覚では「女性に『すご~い』と言われてチヤホヤされたい」男性にはまったく魅力は感じませんが、「本当に海が好きで海で遊ぶことを楽しんでいる」男性は、とてもすてきだと思いますし、恋愛関係になるかどうかは別として、同じ海好きとして(遊び方の種類は違っても)尊重し、友達になることはできます。

で、ジェリー・ロペスに話を戻すと、競技相手を打ち負かすことを意識しなくても、
海で夢中で遊んでいるジェリー・ロペスを見た人は「当代一のサーファー」だと思うわけですよ、蹴鞠の二人のように。
それで良くないですかね。そういうことじゃダメですかね。

あと、昔フィギュアスケートをよく見ていた時に、
技の難易度で言ったらこの人の方がすごいんだけど、
美しさ(芸術点)で言ったらあっちの人の方がすごい、みたいなことがあって、
難易度高い技決めた人が優勝したけど、私は美しく滑った人の方が好きなんだよな~みたいなことがよくありました。
こういうのって、もう「一つの競技として同じ土俵で競わせて順位を決める」こと自体が無理なんじゃないの、と思います。
というか、物事がそもそもそういう風にできているんじゃないかと思います。
一つの基準で評価できないということの方が当たり前で、理にかなっているんじゃないかと。ましてや勝ち負けでもない、と。

この「勝ち負け」とか「競争」とか「強弱」の価値観、取っ払うことはできませんかね。
というか、この価値観がどういったもので、どういったことを引き起こしているのかを、
社会として、一度直視してみる必要はありませんかね。特に日本は。

「勝ち負け」で「勝つ」ことが、期待した「幸せ」をもたらさないという「現実」を、
直視する必要がありませんかね。特に日本は。


私は、この日本の社会に適応しなくて、本当に長い間辛い思いをしました(今もですが)。
心も体も、いろんな形で壊してきました。
今でも、絶望して身動きが取れなくなることがよくあります。

それでも、私が「生きるっていうのはこういうことじゃないかな」とか、
「人を愛して人と一緒に生きるというのはこういうことじゃないかな」と思えることを、
いくつか見聞きすることができるので、
この人生で私がそういうものに出会えるかどうかは今はわからないけど、
人間の営みの中で、確かにこういうものはある、と思えることを、
少し拾って私自身の希望としたいと思います。


まずは、私の好きなオーディション番組、ゴットタレントシリーズから(動画があった方がわかりやすいと思うし)。

8分26秒くらいから始まる、車椅子の男性ともう一人の男性にによるダンス。
Florent and Justin on France's Got Talent

ちょっと信じられないほど美しくて、言葉になりません。
あまりに美しく、繊細で、心揺さぶられます。痛み、後悔、そして分かち合い。
見終わって、この二人はゲイのカップルなのかな、と思ってしまいましたが、
まぁ恋愛感情があるかどうかはどうでもいいのですが、
二人とも大変美しい男性であるとはいえ、もともとの顔だちもタイプも違うのに、
同じ繊細さ、同じ痛み、同じ悲しみ、ささやかな勇気、そして同じ穢れのない透明感を宿した表情とたたずまいをしていて、なんというか、「一つになるために生まれてきた二人だ」と感じてしまいます。
不思議なことに、この二人のダンスを見ているうちに、審査員や司会者の瞳にまで、
同じ種類の透明な輝きが宿り、人間の本質的な美しさが現れてくるかのようです。
だいぶ以前に、YouTubeで2CELLOSの動画を見ていた時に、あるクラシックの曲の演奏動画のコメントに、「これはゲイの音楽ではない。彼らは友達と素晴らしい演奏ができてうれしいんだ」みたいなものがありました。英語のコメントだったので、厳密にこの通りだったか忘れてしまいましたが。
2CELLOSのお二人はゲイのカップルではないのですが、でも、確かにそのクラシック曲の演奏は、あまりに完璧すぎて、二人が補い合って一つのものを作り上げていて、
「ああ、そうか、恋愛感情がある二人に見えてしまうのも無理はないかもしれない」と思ったのを覚えています。
(まぁ厳密なことを言ってしまえば、基本的に芸術、特に舞台芸術は、恋愛や性愛と同じ性質のものです。)
このダンスの動画で私が感じたものも、そういったものなのかもしれません。

あと、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真でも、寄り添う二人がそっくり同じに写っているものがあります。
ジョン・レノンの曲は大好きな曲もあるけど、まぁ前妻に対する態度とか、それはどうなのと思うこともあるし、
オノ・ヨーコも、まぁ特権階級のお嬢様よね、と思うし、
人間的には正直あんまり好きな人たちではないのだけど、ただ、二人で写っている写真に関しては、人種も性別も顔だちも違う二人が、おんなじ顔に見えるように写っていて、
「この二人は結ばれるべくして生まれてきた二人なんだな」と思います。
こういう風に結ばれることができたのは、とても幸せなことだと思うし、
まぁ人間的に未熟な状態で傷つけた人や物事についてはもちろん害悪であるのだけど、
この二人が結ばれるということに関しては、こうなることになっていたんだなというか、
なんかいろいろ仕方なかったんだなと、妙な感慨を抱きました。

それから、私の好きなNHKの語学番組「旅するヨーロッパ」のシリーズ、
第一シーズン、雅楽師東儀秀樹さんの「旅するイタリア語」の最終回、
とても素敵なご夫婦が出てきました。
イタリア語の先生エヴァさんの友人夫婦のお宅でランチパーティがあったのですが、
とても仲の良いご夫婦で、いつも二人でキッチンにいて一緒に料理をしているとのこと。
で、東儀さんがお礼に笙と篳篥の演奏をしました。
東儀さんが「笙の音は、天から差し込む光を象徴しています」と言って即興で演奏を始めると、旦那さんのイヴォさんは、ポカンと口を半開きにして前のめりになって聞き入ります。
そして演奏が終わると「その音は本当に天上の音色を思わせるね」と感想を言います。
東儀さんがさっさと篳篥に移ろうとするところを、楽器を「見せてもらえる?」と言って説明を求め、試しに演奏させてもらってよい音が出て褒められると、なんとも言えない、子供が褒められて恥ずかしがるような、あふれる気持ちを何と言ったらいいのかわからないというような、少し涙ぐんでいるような表情をします。
イヴォさん、スキンヘッドでひげさえも白髪の男性なのですが、こんなに繊細で、こんなに美しいものを求め、感動する心を持っている。
そして、奥様と仲良くいつも二人でキッチンに立って料理している。
私は、生きるということは、こういうことだと、思いたい。
本来は、誰もがイヴォさんのような、繊細さ、優しさ、美しいものを求める気持ち、愛情を持っていると、思いたい。

日本では、恋愛や結婚でさえも、「成功の証」や「強さの証」としてとらえられ、
恋愛関係や夫婦関係においてすら、「どちらが上か」という主に男性からの権力争いの場にされることが少なくありませんでした。
本当に愛することが必要で、愛を持って生きること、愛し合って生きることを、
そもそも思い描くことすらしないような、そんな風潮がありました。
何のために生きているのだろう、幸せって何なんだろう。
そういう苦しさの中で、「もうこの世界にいたくない」と絶望してしまうことも、
少なからずありました。

それでも、生きることの本質に気づいて、きちんとそれと向かい合って生きている人はこの世界にちゃんといる。
そう思って、消え入りそうになる心の火をまた灯して生きていく。