2022年11月18日金曜日

無意味なバグ、無意味にバグっている私たち

 しばらく前に、
「本当はみんなが一日3時間くらいずつ働けば社会が成り立つくらいの文明力があるはずなんだよ」
という内容のツイートが流れていました。
もう流れて行ってしまって、正しい文面も、どなたが発信したものかもわからなくなってしまいましたが。

「そうよなぁ」、と。

コメント欄もざっと眺めてみたのですが、おもしろかったですね。
「政治家とか社会の中枢にいる人たちが『アミ小さな宇宙人』とか読んでくれたらなぁ」というような、「理想の社会を実現したい・するには」という人と、
いわゆる「冷笑系」のような、「そうは言っても財源が」とか「『みんなが』というのは高齢者や子供、障がい者や重病人のような、現在働いていない人も含めて平均をとると、今働いている人の労働時間と変わらないのでは」みたいな、「うん、元ツイートが言っているのはそういう話じゃないと思うよ」という気持ちになる人と。

まぁ、元ツイートの人が、『アミ』みたいなスピリチュアル系の言説を念頭に置いて書いたかどうかはわかりませんがね。

ただまぁ、一昔前というか、昭和の高度経済成長期といわれる時代、まだPCが普及していなかったような時代では、一般企業の経理処理なんか本当に人力でやっていました。
営業部とか生産部とか、一つの部署ごとに付属の経理部門があって、仕訳して伝票手書きして、中央の経理に上げて、みたいな、人海戦術。
商業高校で簿記を専門に学んだ人がそういう仕事についていました。
その時代の「ホワイトカラー」とか「サラリーマン」とかのかなりの比率が、そういう人海戦術の事務要員。
でも今、全部会計ソフトでできちゃう。
経費発生した本人が直接ソフトに入力して証憑書類を画像で添付、くらいじゃないですか。
売上とかも然り。
本部の経理でチェックできる人がいるくらいで、各部署ごとについていた付属の経理人員、まるっと不要になっている。

これ、「仕事を奪われた」じゃなくて、「機械ができる仕事は機械にやってもらえばいいじゃん、その分人間は楽しましょ」という話。
そういう方向に世の中進化しているんじゃないの?という話です。
洗濯だって昔は手で洗っていたけど、今は洗濯機が洗ってくれるよね、みたいな話です。
駅の改札だって自動改札でいいよ、みたいな話です。

「みんなが一日3時間くらいずつ働けば…」の元ツイートの人の言わんとしていることは、こういうことじゃないのかなと思います。


で、もう一つ。
こちらは エイ(@Zikatu1)さんの2022.10.2のツイート。

フィンランドの先生に「なぜフィンランドではみんなが4時で帰れるの?」と聞いたら、「仕事は就業時間内に終わらせて、それ以外の時間も大切にしたいと国民全員が考えてるからだよ」とすごくシンプルな答えが返ってきた。この考えに1億いいねを押したい。

本当に、こういうことなんじゃないかと思います。

「みんなが一日3時間くらいずつ働けば…」というツイートに、「そうできない理由」を一生懸命コメントしている人たちって、本当になんかバグっているよね。
「冷静に現実を見据えている俺かっこいい」みたいな。
あるいは「自分より下の存在がいてほしい、誰かを踏みつけていたい」みたいな。

いいんだよ、みんなで楽して幸せになればいいじゃん。
機械ができることは機械にやってもらって、人間は楽しい時間をすごそうよ。
というだけの話だと思うのだが。

日本、割とそういう意味ない無駄な仕事のメッカよね。
「判子は上司にお辞儀しているようにナナメに押す」とか、超いらねー。
定時にあがるの気まずいから、大半の人が帰るまでずるずる残業とか。
意味ないよね~。
でも、その中にいると「そういうもんだ」になっちゃうよね~。集団心理って怖いね~。
今の日本のダメダメさって、こういうののなれの果てって感じ。


前に、日本に住んでいたオーストラリア人の男性が、
「日本人はクレイジーだ」と言っていました。みんなが漫画やアニメやゲームに夢中になっていて、スマホばかり見ている、と。
それを聞いた日本人の私はどちらのこともわかりましたよ。
健全な精神を持ったオーストラリア人から見たら、アニメやゲームに没頭して現実と向き合わない日本人は病的だ、と感じるのは妥当だと思うし、
一方で、日本人がそういったものに没頭しているのは、それらがおもしろいからじゃなくて、搾取されて誰からも愛されていない自分を直視するのが辛すぎて、目をそらせるものを必要としているだけだ、ということも痛いほどわかります。

まぁ正直、「みんなが一日3時間くらいずつ働けば…」のツイートに、否定的なコメント入れている人たちって、
「搾取されて誰からも愛されていない自分を直視するのが辛すぎる人たち」なんだよなと思います。


いいじゃん、あなたは愛されていいし、搾取されずに豊かな生活をして、楽しく生きていいんだよ!

というメッセージが、実は何よりも怖い人って、いるんだよね。
人間のバグの中で、かなりやっかいなのが「幸せになるのが怖い」ってやつ。
「愛されるのが怖い」とか、「成功するのが怖い」とか。
いや、私もかつてそうだったんですけど(笑)。
今でも時々古い痛みが戻ってきてバグることあります。そういう時は無理に動かない。
私がブログ更新しない理由(笑)
自分と向き合うしかないんでね。

これちょっとめんどくさいんだけど、例えばやたらとキラキラな自分をSNSに上げるとか、ブランド物とか高価なもので身を固めるとかもそうなのね。
みじめな自分と向き合いたくないの。
みじめな自分と向き合いたくなくて、やる必要のないことやってるの。

こういうのって周りが説得しても変わんないし、本人が飽きるまでやるものらしいけど。

でも、「そういうのもう飽きたわ!」という人たちもたくさんいて、
そういう人たちが「一日3時間」とか「4時でみんなが帰れるフィンランド」みたいなことを言い出すわけ。

もういいじゃん、戦争のない世の中で。
平和に楽しく暮らせばいいじゃん、とか。

それで良くね?
と思うんですけど。

でも逆に、そう思っちゃう人が増えれば、「4時でみんなが帰れる日本」が実現するわけで。


いや、ほら、日本の夏暑いし、一日中同じ服着て事務所勤めとか、嫌じゃない?
ブラジルとか東南アジアとか、一日に何度もシャワー浴びるらしいよ。
だって汗かいたら気持ち悪いじゃん。
身体をさっぱり洗って、きれいな服に着替えたら気持ちいいに決まってるじゃん。
でもそうするには、「家に帰ってシャワーを浴びる」ことができる距離で仕事をするってことだよね。
だって職場に着替えだのタオルだのゴソゴソ持っていくの嫌じゃん。
え、そしたら住環境は?職場の形態は?ってなっていくじゃん。
東京の中心部に2時間(以上)かけて通勤して、朝6時半に家を出て帰ってくるの夜8時とか、ダメじゃん。
そういう感じ。

一個一個、そういう感じ。
一個一個、そういうことを、「なんか、やってることアホくさくね?」と、単純に思っていく感じ。
できるできないとか、世間体とか置いておいて、ぶっちゃけどうよ、な感じ。
ほら、思い描くのは自由だから(笑)

2022年9月26日月曜日

#安倍晋三氏の国葬に反対します

#安倍晋三氏の国葬に反対します
#国葬反対

ご無沙汰しております。

安倍晋三氏の国葬反対について、
きちんとした文章でブログを書きたいと思っていましたが、
もう明日に迫っていることに今頃気づきました。

反対の意思表明のみ、今したいと思います。

諸々のことについて、
また文章がまとまったら、改めて書きたいと思います。

災害の救援を。
生活に苦しむ多くの人のための経済措置を。
政治の腐敗にメスを。

北朝鮮の脅威を煽って目くらましをしようとするのをやめてください。
誰も騙されません。
政府の言いなりの報道をするマスコミはいりません。

2022年6月1日水曜日

五月病とジャスミンの花

ご無沙汰しております。
新年のご挨拶以降、世の中の事情に心が乱れ、文章が書けなくなっていました。
少し心が落ち着いてきて、いろいろな角度からの情報も集まってきたので、
また、書きやすいテーマから、少しずつブログを再開したいと思います。

まずは、アイスブレイクをかねて、先日ツイッターで見かけた話題から。

*******
張暁珺@漢方相談員(@xiaojuninjp)さんの5月11日のツイートで、
「5月病でお困り方
 ジャスミン茶を飲んでください!」
というものがありました。

この方は国際中医専門員でいらっしゃるので、
中医学(漢方)の専門用語で説明が続き、
最後に、ジャスミン茶は、
「イライラやため息が多い
 食欲不振など
 ストレスで気の巡りが滞っている
 肝鬱による症状に向いている!」
とまとめています。

これを読んで「ほぉ~ぉ!!」(感嘆)と思いました。

日本では「五月病」という言葉があります。
(どういうわけかこのブログ、海外の方がたくさん読んでくださっているようで、
 こんなマニアックな内容の長文の日本語ブログを
 どういう背景の方が読んでくださっているのか、
 書いている本人がいまいち釈然としておらず。。。
 海外在住の日本人の方が読んでくださっているのか、
 日本に興味を持ってくださっている方が読んでくださっているのか、
 よくわからないのですが、念のため日本のことについて少し説明をしてみます(笑))

私が子供の頃に聞いた話では、
日本では4月に学校が始まったり、就職をしたり、職場でも人事異動があったりと、
生活環境が変わることが多くあります。
4月中は新しい環境になじもうと緊張して頑張るのですが、
5月に入ると、少し慣れてきて気のゆるみと、がんばりすぎた疲れが一気に出て、
体調を崩したり、うつっぽくなったりする人がたくさんいます。
それを称して「五月病」と言うんだよ、と私は聞きました。
だから私はストレスからくる軽度の精神疾患、みたいな感じにとらえていたのです。
心の風邪、みたいな感じ。

一方、私は長年の虚弱体質を漢方や鍼灸治療で改善してきました。
治療を受ける中で東洋医学の考え方を少しばかり理解してきたのですが、
冒頭のツイートで、五月病というものの理解が変わりました。

東洋医学の考え方では、春は「肝」のエネルギーが強くなる季節です。
西洋医学でいう「肝臓」だけでなく、そこに関連するエネルギーの流れとか性質とかも
全部ひっくるめたものが東洋医学でいう「肝」なんですけど、
まぁとりあえずざっくり「肝臓かな?」くらいに思っておいてください。

肝のエネルギー(気)が強くなると、腹が立つんですわ(笑)
怒りのエネルギーなんです。
私が春先に鍼の治療に行って「なんかやたらとイライラします」と言うと、
鍼の先生に「春なんです~」と言われます(笑)
なんのこっちゃと思われるかもしれませんが、
「春になる」→「肝の気が強くなる」→「怒りの感情が強くなる」
という東洋医学的な見立てです。

逆に「肝の気」と対になっているのが「肺の気」で、
肺の気は、秋になると強くなります。
昔「肺は悲しみの臓器」という言い回しを見たことがありますが
(おそらく「くるねこ大和」さんの漫画で、くるねこさんがかかっている鍼灸の先生の言葉だったように記憶しています)、
秋になって肺の気が強くなると、やたらとめそめそ悲しくなります。
だから「秋はなんだか物悲しい」という日本人のメンタリティは、
気の巡り的に正解。落葉のせいだけではない(笑)

で、また話が脱線しました。
もとに戻すと、
私は「五月病」というものを、
社会的な異動によって生じるストレスが原因の一時的な精神病と理解していたのですが、
先のツイートのもとになっている東洋医学的理解からすると、
季節の変化によって生じる必然的な体調の変化が、大きく振れたもの、
と考えるべき?

上記のツイートの一文、再掲。
「イライラやため息が多い
 食欲不振など
 ストレスで気の巡りが滞っている
 肝鬱による症状に向いている!」

「怒り」ってものすごくエネルギーを消費する感情なので、
私のような「気虚」というエネルギー不足の状態になりやすい性質の人間が、
春になって肝の気が強くなってイライラしだすと、
それだけでエネルギー不足に陥って、ぐったりして鬱になるんです。
イライラ怒りながら、鬱になってぐったりする(笑)
笑い事じゃないんですけどね、辛いんで。
ま、そういう症状にジャスミンが効くよ、ということです。

この方のツイートでは、
中医学では、ジャスミンは
・気の巡りを良くして、鬱を緩和する
・滞った血液のかたまり(瘀血)を流す
・胃腸を健全にする
・精神安定
といった作用があると考えられていると説明しています
(箇条書きの効能は、一般の方にわかりやすい表現になおしています。)

ちょっとなつかしいところでは、昔、杏里が
「ジャスミンティーは~眠り誘う薬~」とか歌っていましたね~(笑)
精神安定作用ですかね。

この5月病の季節ってさ、
外歩いているとジャスミンがこれでもかって咲いているでしょ。
「オサレに庭先にジャスミンを植えてみました」風情を超えて、
なんか野生化して繁茂しているのとか、すごいジャスミンあっちこっちにあるじゃないですか。
あんなにすげー勢いで繁茂して咲きまくっているのに、
なんでジャスミンの精油ってバカ高いんですかね。ちょっと納得いかない(笑)
いや、あっちこっちですごく良い香りで、顔突っ込んで楽しませていただいているんで、
大変ありがたいんですけどね。


ここでハタと気づくわけです。

春になって肝の気が強くなるときに、
その弊害に効くジャスミンがこれでもかと咲きまくって、
良い香りで人々を誘うわけですよ。

自然界って、ちゃんと人間が健全に生きられるように用意してくれている。

むか~し、子供の頃に母に聞きました。
「秋に柿を食べると冬に風邪をひかない」と。
うちの母、とんでもない毒親なんですけど、昔はまともなことも言っていたんです。
「柿 風邪予防」で検索するとこれでもかと出てくると思いますが、
ビタミンCとかβ-カロテンとか豊富みたいです。

きゅうりやトマトといった夏野菜や夏の果物は身体を冷やす作用があるし、
春の山菜など苦みのある野菜は、冬場にためた毒素を排泄する作用があると言われています。

その季節その季節に、
人間の体調の揺れを整える作用のあるものが、
自然界にあふれるのです。


なんかさ、人間って愛されてるなぁ~!!!と、圧倒されるんですよ。

季節の変化によって、体調が揺れるんです、人間は。
それをちゃんと健全な状態に整える作用のあるものを、
自然界が用意してくれているんです。

ジャスミンなんて、クソみたいに咲いているじゃないですか(失礼)。
本当にちょっと手入れが行き届かなくなったお宅とか、空き家とか、
もう収拾つかないくらい野生化して繁茂してますよ、ジャスミンさん。
そんで四方八方にすごく良い香りをまき散らしているんです。
アロマセラピーを例に挙げるまでもなく、
漢方薬も本来は香りも薬効があるものとして味わうべきとしていますし、
その効果あふれる香りを、この季節に、無償奉仕してくれてるんです、ジャスミンさん。
なんて太っ腹!!
なんて太っ腹な自然界!!

まぁもちろん、あっちこっちのジャスミンさんに顔突っ込んでかぐだけじゃなくて、
ジャスミン茶も買いましたけどね、あのツイート読んで。


これだけ用意周到に、健全に生きられるように、
真綿でくるむようにして、
時にあふれるような圧倒的な勢いで、
自然界から愛され、育まれている、私たち人間は。

それなのに、人間界は、一体何をやっているんでしょうか。
なぜ、奪い、挙句の果てには殺してしまう状況を作り出すのか。
(「殺し合う」という表現は不適切で、殺された人間は相手を殺せませんね、もう死んでいるので。家とか国家とか集団で考えるから、殺された本人が見えなくなるんだと思います。「一人を殺さない」と考えることが違う社会を作るための基本のような気がします。)

あふれかえって咲くジャスミンの花に顔を突っ込んで香りをかぐように、
自然界の愛を受け取って、健全に生きる、ということを、
どうしてここまで見失ってしまうんだろう。

私も人間界で生きるのがうまくできない性質なので、
何をどうして良いのかわからず途方に暮れることばかりです。
(でも昨年暮れから社会復帰しました(笑)どこまでやっていけるかはわかりませんが、
また思うこと少しずつ書いていきたいと思います。)
「人間界が苦手」と言っても私は人間として生きていて、
一人で自然界で生きていく術も持たないので、
本当にどうしたものかなと思うばかりです。

2022年1月14日金曜日

良い年、良い世の中を作っていきましょう

新年のご挨拶が遅くなりました。
何と言いますか、心ある多くの方がツイッター上で仰っていたように
「日本の政治の誤りによって寒空の下たくさんの人が苦しんでいるというのに、
何が『めでたい』のか」、という気持ちと、
とはいえ、社会通念上、「おめでとうございます」と言わねばならんのか、
というせめぎ合いがありまして、
文章をまとめることができませんでした。

親しい友人間では「おめでとう」と言えても、
職場とか、ほかの社会的な場所では「果たしてこの人にとって、今年はめでたいのだろうか」「親しくないから知らないけどコロナで親族が亡くなったりしてないだろうか」、
とか、いろんなことがよぎってしまいました。
まぁ、私は考えすぎの節のある人間なのですが。

なので、私個人としては、今年はあまり「おめでとうございます」よりも、
「壊れてしまったこの社会を、これから作り直していきましょう。
 もっと良い世の中を作っていきましょう。
 今年はもっと良い年にしていきましょう。」
という気持ちを、お伝えしたいと思います。


*******

日本の表面的な政治・社会事情を見ていると正直絶望しかないのですが、
昨年初冬に、とても希望の持てる情報を見ました。

「次世代の太陽電池」と言われる「ペロブスカイト太陽電池」、
兵庫県立大などの研究チームが、シリコン型太陽電池と同等の耐久性になる実験結果を得、
「実用化に向け大きく前進」というもの。
こちらが、2021年11月13日付の神戸新聞NEXTによる情報。

この「ペロブスカイト太陽電池」、
私はツイッターでこのニュースを見るまで知らなかったのですが、
何がすごいかって、「フィルムのように薄く、液状にして塗ることもでき、従来の太陽電池では設置が難しかった窓ガラスやビルの壁などへの利用も想定される。高騰しているシリコンなどを使用しないため、大幅なコスト削減も期待される。」(記事より引用)という点。

いやね、昨年の夏、地元の住宅街を歩いていて思ったのですよ。
あんまり暑いものだから、日差しがきつい窓に日よけの布を張ってらっしゃるお宅があるのね。あの日よけの布で太陽光発電できたらいいのになぁ、と。
実家ではグリーンカーテンを作ってますが、あれ、発想としては確かにエコロジーなんだけど、手間がかかるし、洗濯もの干すのに邪魔だし、結構場所と人を選ぶのよね。ベランダが広いとか、庭があるとか。
「ベランダない窓なんだけど、西日がきつい時間だけ日よけがほしい。でも室内のカーテン閉めて部屋が暗くなるのは嫌。」とか、あるじゃないですか、生活実感として。
そういう必要な時だけバサッと広げて、いらない時は小さくたたんでしまっておける、みたいなタイプの太陽電池があったらいいよね、と思ったのです。
まぁ私は科学全然わからないけど、でも、すべての発明は「ない状態」から生まれているのだから、誰かそういうもの開発したりしないかなぁ、なんて思いながら、住宅街を歩いていたのです。
そしたら、もうできていた(笑)
2005年に宮坂力・桐蔭横浜大特任教授が発見し、実用化に向けて世界的に研究競争が展開されていたのだとか。


それから、全固体Naイオン二次電池を、日本電気硝子が「オール酸化物」で実現したと発表。これが2021年11月18日。
リチウムやコバルト、ニッケルなど希少な資源を使わず、豊富なナトリウムや鉄を材料にしているため、資源確保の問題をクリアできるとのこと。


私、昨年この情報見て、「あれ、もしかしてこの世界まだ大丈夫?」と急に希望が湧いてきたんですよ。

まぁ、日本、原発利権の自民党周辺のおっさんたちが牛耳っている社会なので、
この情報、全然流れていません。

でもこの技術、実用化の目途が立ってしまえば、
もう世の中は変わらざるを得ないでしょう。

原発利権でいい思いをしたいおっさん・爺さんたちがどうしようと、
彼らをおいて世の中は動き出すでしょう。

これちょっと既視感あるなぁと思ったら、
その昔、デジカメが日本で開発されたものの見向きもされず、
開発者がアメリカのコンピュータ展示会に持って行ってデモンストレーションしたら大評判になり、結局日本には逆輸入の形で定着した、みたいなやつ。

私はこの技術、ものすごい「ゲームチェンジャー」になり得るんじゃないかと思うし、
日本のおっさん社会がどうしようと、石炭から石油に切り替わった時と同じようなことが起こるんじゃないかと思います。
原発に固執する人たちは、石炭に固執した人たちと同じ憂き目を見るよ、という。

日本のおっさん社会本当にクソなんで、勝手に泣いてろ、と思いますが、
そういう人たち以外の人たちが、できるだけスムーズに新しい状況に移行できるといいなと思います。

ずいぶん長いこと私の中で希望が見いだせず、うつっぽかったのですが、
何というか、変化の萌芽が見えたような気持になりました。

良い世の中を作っていきましょう。

2021年11月17日水曜日

歯車の怪物と異端者

今の日本の社会、本当に間違ったまま、まだ立ち止まることができずにいます。
しばらく前に、そんな状態を象徴するような夢を見ました。
大きな歯車の怪物が大きな音を立てて、地面や周囲の自然を破壊しながら動き回っています。
私はだいぶ前にその歯車の怪物から振り落とされ、傷だらけのまま、地面に呆然と立って、歯車の怪物が動いているのを見ています。
その歯車の怪物、遠くから見ると、チャップリンの映画に出てきそうな鋼鉄の歯車が組み合わさってできているかのようなのですが、
よくよく見ると、全部生身の人間が組み合わさってできています。
歯車の真ん中の方にいる人は、割と楽ちんでいい思いができるのですが、
歯車の外側にいる人は、生身の身体で地面や他の歯車とぶつかり、傷だらけでボロボロ。
私もそんな状態になって、この怪物からこぼれ落ちました。しかも何回も。
「あの歯車に戻らなければならない」と思いながら、まだ体中傷だらけで、どう考えても歯車の一番外側にしか戻れないことがわかっていて、動けないでいる。
そして、歯車の怪物から離れたからこそ、「この怪物、もうだめじゃん」とわかる。
ギシギシギィギィ、今にも壊れそうな音を立てながら、方向性もなく、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、そのたびに周りの地面や自然界を痛めつけている。
ふと見ると、周りにも私と同じようなボロボロな人たちが、何人も呆然と立ち尽くして怪物を眺めている。
そして、「今、立っているこの地面で生きていけたらいいんだな」と思う。

そんな夢。

また、夏のオリンピックの頃だったか、「蟻のデススパイラル」という動画が流れていました(これも時折流れる動画ですが)。
蟻は、食べ物のある場所にたどり着いたり、巣に帰るために、仲間の通った後をついていくという習性があり(何かにおいの物質を出していたような)、
たまにそれがバグを起こして、集団で延々とグルグル回り続ける、ということが発生するそうです。
ひとたびそれが始まってしまうと、集団もろとも体力が尽きて死に絶えるまで、ひたすらグルグルと回り続ける。それを称して「蟻のデススパイラル」と言うそうな。

ただ、どういうわけか、周りの集団と同じことができない個体というのが蟻のような昆虫の世界にもいて、そういうのが周りのグルグルについていけなくなって脱落すると、習性でその後について行く個体が現れたりして、自然にデススパイラルが解体することがあることも観察されているのだとか。

その他の蟻と同じようにできない個体というのが、単に能力的に劣っているのか、人間の言葉でいうところの「怠け者」なのか、どういう存在なのかは私にはわかりませんが、
ともあれ、そういう異端者が、「死の行進」から集団を救うこともある、というお話。

ちょうど日本が東京オリンピックに向かっていて、開催反対を訴える声もたくさん上がっているにも関わらず強行されてしまう、このままでは日本はまた敗戦を迎え焦土と化すことになる、と危惧されていたようなタイミングでした。
「死の行進」「死の行軍」と言われるインパール作戦になぞらえる人もたくさんいました。

そういう集団の力、集団の過ちを止めることができなかった日本人だからこそ、
この「蟻のデススパイラル」を止める「異端者」の存在価値を、もっと認識する必要がある
よね、という趣旨のツイートでした。

歯車の怪物がヨタヨタしながらグルグル回り続ける様子と、
無数の蟻たちがどこにもたどり着けないまま、延々とグルグル回り続ける黒い渦巻とが、
同じものに見えました。

*******

私は大学では文化人類学を専攻しました。
そのゼミのOBで、東南アジアのジャングルで、新種だか亜種だかの蝶を発見した人がいました。
私が「すごいですね」と言うと、
教授は「すごくなんかない。あいつはそれしかできなかったんだ」と言いました。
まだ学生だった私には、その教授の言葉の意味がわかりませんでした。
でも、その後、いろいろな形で何度も社会からドロップアウトした今なら、教授の言った意味がわかります。
毎日会社に行って同じように働く。
上司や先輩の言っていることややっていることがおかしくても、毎日同じように働く。
自分のやっている仕事が、世の中や物事を良くすると思えなくても、毎日同じよう働く。
それが、できない。
「普通に働き、他の人たちと同じように生きる」ということが、できない。
そういうこと。

そのOBは、発見した蝶に、ゼミの教授の娘さんの名前を付けたそうです。
そのことを聞いた学生の時は、「あの人はよっぽど教授のことが好きなんだなぁ」と思いました。
でも今は、もう少し違うことを感じます。
「他の人と同じにできない自分をそのまま受け入れてくれたのは、あの教授だけだったんだ」、と。

私にとっても、そのOBにとっても、専攻したのが「文化人類学」だったことが幸いでした。
人間の生き方というのは、土地や時代や人種や社会によって変わる、というのを見つけてくるのが「文化人類学」なので。
「婚姻」だの「葬制」だのという概念も社会によって実に千差万別、そういう様々な例を見つけてきて、その文化はどういう背景や考え方によって発生したのか?という検証をする。
そうしてみると、一見奇異に思える文化や風習にも、それぞれになるほどと思わせる道理がある。
そういう例をたくさんたくさん見ていくと、
「今目の前にある社会が、唯一絶対の社会ではない」ということがわかる。
「今この社会の常識が、唯一絶対の真理ではない」とわかる。
今この社会に適応しない人にとっては、それは本当に救い。

当時のOBにとってゼミの教授は、「今この社会に適応しない」ことをもって「あいつは人間失格だ」と断じない唯一の人だったんじゃないかな、と思います。

*******

私が大学卒業後初めて就職したのは、ぬいぐるみメーカーでした。
デザインから自社でやっている会社だったので、デザイナーも本社に勤務していました。
デザイン部部長の娘さんもデザイナーとして働いていたのですが、
ある時「インドで哲学を学ぶために留学する」と言って退職することになりました。
事務所に挨拶にいらした時に、
私が「インドに哲学を勉強しに行くなんてすごいですね」と言ったら、
その方は「全然すごくないんです。私からしたら、毎日きちんと会社に来て、きちんと働いている皆さんの方がよっぽどすごいんです。私はそれができないんです」と言いました。
私は(それを言っちゃぁおしまいだよ……)と思いました。

私だってできませんよ。
毎日きちんと会社に来て、毎日同じにきちんと働く。
私だって辛くて辛くて、叫びだしそうなほどです。
でも、その時の私は「私会社勤め向いてない」から「インドに行って哲学勉強してくるわ」ができませんでした。
まぁ今思うと、あの時それができていたら、その後私はあんなにも長く苦しむこともなかったな、とも思います。

*******

本で読んだのかネットで見たのか忘れましたが、戦争に行って戻ってきた元兵士で、
重いPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいる人の言葉を読んだことがあります。
上司の絶対命令に逆らうことができず、罪のない人々をたくさん殺戮した。
そのことによって、心を病んでしまった、と。
自分は本来、情けのない人間ではない。でも、戦場では上司の命令でたくさんの虐殺行為をしなければならなかった。そのことが思い出され、罪や恥の意識に苛まれる。
そして、自分は本当は善良な人間なのだと改めて思った、と。

本来善良で、人々や自然界に対して愛情や優しさを持つ人が、
特殊な状況で命令に逆らえずに、自分の意に反する残酷なことをしなければならない時。
そのことによって、心を病み、自我が崩壊してしまう、というのは、
それは、その人の弱さではない。
その人の過ちや未熟さではない。

ある社会の強制力によって、自分の良心と合わない行動をさせられ、
そのことによって心を病んでしまうこと、その行動を続けることができなくなること、
これを「弱さ」と言うのは間違いだと私は思う。

病んでしまえば、回復するのに時間がかかる。
場合によっては、生きている間に回復することができないこともあるかもしれない。
その病んでいる間、今動いている社会の中で役割を果たすことができない自分を、
「役立たずだ」「社会のお荷物だ」と責めてしまうことが往々にしてある。
(うつ病の人は大概そう。)

けれども、本当にそうだろうか?

戦場で虐殺行為をさせられることのように明白なことでなくても、
「この社会はおかしい、この方向性はおかしい」と感じながらも盲目的に従事することを強要されれば、人は、どこかに変調をきたしてしまうのではないだろうか?

過去の日本の戦争、先日のオリンピック、原発政策、嘘偽り・人権侵害がまかり通る政治や社会……。
そういったものの中で、「おかしい、自分はこんなことをしたくない」という思いが昂じ、
耐えられなくなることは、「弱さ」ではないと思いたい。

*******

NHKで放送されている「美の壺」という番組で、染色家の志村ふくみ氏が登場していました。
私は石牟礼道子全集を持っていますが、その全集の表紙は、志村ふくみデザインによるもの。
番組内では、石牟礼道子による新作能「沖宮」の衣装を志村ふくみが担当していることなども紹介されていました。

草木染作家である志村ふくみ氏は、以下のように語っていました。

「こんな時代になって、植物が一生懸命、
 人間・人類に語り掛けているような気がする。

 それなのに、人間はちっとも耳を貸さないで、
 もうまったく逆方向に向かって進んでいるのが、
 たまらないほど悲しいけど、

 でもきっと、草木のそういう本当の声を、
 聞く人には聞こえてくると思う。
 受け止める人は受け止めると思う。

 私はそれを信じています。」

私は、「植物たちの声を聞く人」。
今の日本社会の、人間社会の進路が誤っていることを知り、
植物はじめ自然界が発している警鐘を、聞く人。

でも、その声を聞き、そして自分がボロボロになるまで今の日本社会の過ちを体験し、
その上で、今、どうすることができるのか、まだわからないでいる。

2021年10月28日木曜日

衆議院選挙 期日前投票に行ってきました

先日、衆議院選挙の期日前投票に行ってきました。

ブログの過去記事で、ずっと「比例は共産党」と書き続けていたのですが、
「東京8区」の一件以降、ちょっと心が動きました。
幸い、私が投票できる選挙区は共産党の候補者がいるので、
候補者名は共産党候補者、比例はれいわ新選組にしました。

もともと山本太郎さんは、原発再稼働反対運動以降ずっと応援していたのですが、
ここのところの若干のガタガタ、どうしたものかなぁと思っていました。
が、「東京8区」の一件で、
「山本太郎さんはやっぱり山本太郎さんだった」と改めて思い、
この人の声がもっと大きく世の中に届いてほしいと思いました。

でも、共産党も躍進してほしい。

私がよく眺めている政治系のツイッター発信者の方々は、
「共産党とれいわメインで野党共闘してほしい」という方多いです。
(私個人的には社民もですが。)
あと「比例2枚ほしい」とか。同じくです(笑)

菅直人氏とか、森裕子氏とか、心から応援している議員さん、
立憲民主党にいることは間違いないんですが、
枝野さん、なんか大久保利通状態になってませんかね。

今回はしょうがないですよ、至上命題が「政権交代」ですから。
自民党を政権の座から追いやるのが、今一番やらにゃならんことなので。
で、識者の方々が言うように、
次の参院選でも現野党圧勝・自民党大敗に追い込まないと意味がないので、
そこまで立憲民主党を旗印にせにゃならんかもしれんのもわかっとりますよ。

でも、心がないですね、あまりにも。
ただまぁ私はせいぜいツイッターで流れてくるレベルの情報しか見えていないので、
実際のところはわかりません。
連合を煙に巻くために、煮え切らない態度をしている可能性もあるかもしれません。

全否定はしませんが、
それでも私は、ストレートに善を語る「れいわ」と「共産」を、ストレートに推します。
「社民」もですね。

私は「強いものが強さで押す社会」が嫌いです。
そういう社会では生きていけません。
心が壊れてしまいます。

とにかく今は、自民党を政権の座から引きずり下ろすこと。
そのための立憲を中心にした野党共闘だけど、
その中でも「共産」「れいわ」「社民」の票を増やしていく。
枝野氏の心中を実際に知ることは私にはできないけど、
連合に対する顔向けがどうだろうと、
「共産」「れいわ」「社民」を無視することはできない、
と世の中が認識するように。

皆様もそれぞれのお考えを持って、悔いのない投票をなさってください。

私ごときが名乗っていいのかわからないけど、
いや、たぶん、私ごときが名乗っていいんだな。
誰にでも、どんな状態の人にでも、人権があるのだから。
日本の政治の誤りによって、選挙権がない状態の人もいる。
でも今、選挙権がある私は、自分の良心に従った投票をし、他の人たちにも呼び掛ける。
それは、日本に住んでいて選挙権を持っている私がやるべきことだし、
自分を卑下して口を閉じてはいけない。

投票しましょう。

2021年10月14日木曜日

まかないサラダな生活を考える

 もうずいぶん前になりますが、ファミレスのデ〇ーズで
「シェフコブサラダ」というメニューがありました(今もあるかも)。
その後「コブ料理長のまかないサラダ」という名前に変わりました。
デ〇ーズ以外の一般では「コブサラダ」という名前で通っているかもしれません。
レストランの従業員用の食事(まかない)としてシェフのコブ氏が作った
ありあわせのサラダがすごく美味しくて評判になり、
はるばる海を越えて日本でも食べられるようになりました、みたいな感じですかね。

初めてこのサラダをデ〇ーズで食べた時は「こんなに美味しいものがあるのか」と
感動しました。
その後ずいぶん長いこと、デ〇ーズではこの「まかないサラダ」とパンという食べ方をしていました。

青野菜に、ゆで卵や炒めたベーコン、アボカド、エビ、豆類、トルティーヤチップスなんかが載っていて、濃いめのソースでいただくサラダ。
見た目にも彩り豊かで、いろんな食材がたっぷり入って、美味しくて健康的。
言われてみれば確かに、レストランの厨房で冷蔵庫に入っているありあわせのものをザクザク盛って、ソースでおいしくまとめました、という感じ。
私が通っていた江上料理学院でもレシピを学びました。その時の先生も、冷蔵庫のありあわせでサラダ作って、「〇〇(自分の名前)のまかないサラダ」にしていいんですよ、と冗談半分に仰っていました。
まぁでも考え方としては、そういうことです。

で、この「まかない(従業員用の食事)」に関しては、江上料理学院で学んでいる間におもしろいことが二つありました。

江上料理学院の副院長が仰るには、「和洋中」の料理の中で一番食材を無駄にしない食べ方をするのは、中華料理だそうです。
で、以前、その中華の一流ホテルの料理長をしていた方が、江上の先生はじめ料理関係者の方を招いて、おもしろいテーマのお食事会を開催したんだそうです。
「私たちは普段こういうものを食べているんですよ」と言って、「一流中華レストランでのまかない」を、披露してくださったそうです。
例えば、「北京ダックの舌を集めて作った料理」とか。
まぁ高級な中華レストランでは、北京ダックたくさん作るんでしょうし、でもお客様は舌なんか存在すら意識しないでしょうしねぇ……。アヒルの舌がどんな味かなんて考えたこともありませんでしたが、牛タンとかめちゃくちゃ美味しいですし、中華料理の技をもってすれば、きっととんでもなく美味しいものに仕上がるのでしょう。
他にもいろいろ聞いたんですけど、情報量とショックが大きくてほとんど忘れてしまいました。

また、江上料理学院でも、従業員用のまかない料理を作っているのですが、
料理の授業で出る野菜くずなども、物によってはスタッフさんが「回収します」と言って集めていました。
例えば、人参や玉ねぎの皮や根っこのところなどは、西洋出汁を煮出すために使います(これは、まかない用というより授業で生徒が使う出汁でもあります)。
芹を使った料理の時は、根っこのところを「芹鍋に」と言って回収していました。芹の生産地では、むしろこの根っこのところが一番美味しいというそうですが。

で、私が一番ショックを受けたのは、鶏ガラです。
私は長年虚弱体質だったため、東洋医学の養生食として、鶏ガラと生姜とクコの実のスープをよく作っていました。
なので鶏ガラは以前から扱っていたのですが、私は鶏ガラは「食用肉を取り除いた後の食べられない部分」と認識していました。その「食べられない部分」を煮出してスープを採ったから、「食べられない部分もきちんと再利用した」と思って、煮出した後の鶏ガラそのまま捨てていたのです。
それが、江上では煮出した後の鶏ガラを、「まかない用に」と言って回収(年に1回くらい授業でスープの取り方をやります)。どういう風に使うんですかと聞いたら、「骨の周りの肉をこそげ取ってサラダに載せるとバンバンジーサラダみたいになる」とのこと。
私ちょっと天地がひっくり返るくらいのショックを受けました。
いや、本当に食べられるんです、確かに。「私これまで食べられるもの無駄にしていたんだ」、と。

まぁ「スープ」はじめ煮出すものって、スープに栄養素が出ているので、もとの野菜だの肉だのにはもう栄養素が残っていないカスだという考え方があります。漢方薬とかもその類で、煎じ液だけ飲んで、もとの薬草だのは食べずに捨てます。お茶も同様です。
なので、スープ煮出した後の骨回りの肉に、栄養学的にどれくらい栄養素が残っているのかと言えば、よくわからないけどまぁずいぶん減っていそうだなとは思います。
でもこれ、飢餓状態にある人、食べ物に困っている人、あれば食べて生命をつなぐことができますよね。

私は日本に生まれ、たまたま今までは食べ物に困ることがない状態だった(貧乏でしたが)。だけど地球規模でみたら、まだ食べられる肉を捨てるのって、ものすごい傲慢。
本当にショックを受けました。
知らなかったんです。「そういう風に食べることができる」ということを。

で、その後、自分でも鶏ガラ出汁取った後の肉をこそげ取って食べるようになりました。
その肉をフォーにのっけてパクチー散らすと、インスタントのフォースープ使ったものでもちょっと本格的な感じになります(笑)(本来は蒸し鶏ですかね)

ただ、手間はかかります。
今の日本のように人件費が安くて長時間働かないと生活できない社会だと、難しい作業だなと思います。
まぁ本当に政治が間違っています。
「長時間働かないと生活できないから食べ物を無駄にする社会」って、それは「社会がおかしいだろ」と思います。(なので、今出汁取った後の鶏ガラの肉のことなんか考えられない、という人を悪いとは思いません。)
一方で、地球規模で考えて「肉を食べられる」ということがどういうことか、「生命をいただく」ということがどういうことか、をきちんと認識しないまま豊かになっても、かつてのバブルの時代のように、たくさんのものを無駄にするだけの傲慢な社会になってしまうのだろうな、とも思います。

しばらく前に、ドイツでは、大学の学食で肉や魚などの動物性たんぱく質の量を、食事全体の5%だったか、ものすごく少ない量にすることを決定したというニュースをツイッターで読みました。ちょっとパーセンテージ正確に覚えていないのですが、環境負荷を考えて、国内で安全に生産し続けられる割合にするというような方針のようです。
こういう長期的な視座に立って、持続可能な方針を選ぶというドイツの倫理的な姿勢は本当に立派です。

日本の社会もそういう方針を取り入れてほしいと思いますが、今現在の状況について言えば、日本人女性は、もっと肉や魚などの動物性たんぱく質を取っていただきたいです。
日本人女性の健康状態、本当に危ないです。
日本の社会のしわ寄せが女性に集中しやすく、女性は我慢をしすぎてしまいます。
経済的な事情だけでなく、倫理的観点から肉食をやめようと考える女性もいますが(私も一時期そう考えたことがあります)、一部の肉食が体に合わない人以外は、日本人女性が肉食をやめようと考えるのは、すべての日本人女性から生理痛がなくなった後でいいです。
その代わり、自民党や竹中平蔵の関係者にお金が流れないようにして、日本で「威張っているおっさん」たちが食べる肉が減れば十分です。

話はだいぶそれてしまいましたが、まぁそんなこんなで、江上では料理学校としてのカリキュラムが充実して素晴らしいのとはまた別に、スタッフさんからいろいろお話を聞いて、普通だったら捨ててしまうものを美味しく食べる工夫に満ちた「まかない」にとても興味を持ちました。
私がいろいろコネクションとか持っていたら『江上のまかない』という本を出版したいと思ったほどです。


前回の記事でご紹介した、京都の量り売りのスーパー「斗々屋」さんでは、レストランや総菜売り場も併設していて、調理スタッフが店舗の商品をチェックし、売れ残りそうな食材を使って料理を作って販売しているのだとか。
これ、いわゆる「まかない(従業員用の食事)」と仕組みは同じです。

レストランや販売店では、おおよその予測はつくとはいえ、実際に「いつ何がどれくらい売れるか」は、お客様の自由意志に任されています。
そのため、どうしても「売れ残って鮮度が落ちるもの」というのは発生します。
冒頭の「コブ料理長のまかないサラダ」なども、こういった「鮮度が落ちてきたもの」「売れ残る可能性が高いもの」をまとめて料理して、従業員用の食事として使うことで、販売用に仕入れた食材の無駄をなくし、店舗内の素材の鮮度を保つ機能があります。

「カルボナーラ」とか「青椒肉絲」みたいに、特定の材料を特定の調理法で作る必要のある「名前が通っている料理」とは別に、こういった「その時ある素材」あるいは「その時手に入る旬の食材・地域の食材」などを組み合わせて、「名前のない新しい美味しい食べ方」を作り出すのも、プロの技です。

テレビ番組では、プロの料理人が地方に行って、地方の特産の食材を使って素晴らしい料理を作る、みたいなものも人気です(NHKで以前やっていた「キッチンカーが行く」など)。地方にはその土地で長年伝わってきた美味しい食べ方があるのですが、和洋中、様々なジャンルの一流の料理人もまた、違った視点で素材を見て、違った生かし方をする。
そこにまた、新しい文化が生まれ、豊かになる。


家庭から出る食品ロス問題に取り組む団体「フードサルベージ」の啓蒙イベント「サルベージパーティ」に、以前何度か参加したことがあります。
参加者が家庭にある賞味期限間近の食品をそれぞれ持ち寄って、集まった食材をもとに、料理人が料理を考え、みんなで作って食べる、というとても楽しくて画期的なイベントです。
多くの一般人は、一つの調理法しか知らず、「カレー」だったら「いわゆるカレー」、「焼きそば」だったら「いわゆる焼きそば」しか作らないので、「キャベツがないから焼きそばが作れない」と思って、焼きそば麺や豚肉をダメにしてしまう、みたいなことが往々にして発生します。
それを、「そんなことないよ、こういう風にしたら違う食べ方ができて、無駄にしないですむよ」という「発想の転換」を促すためのイベントです。
大変感銘を受けたのですが、ある回では、うどんと焼きそばと、麺類がかぶって集まってしまったことがありました(ちなみにうどんは私が持って行った(笑))。
その時の料理人さんは、うどんをパスタ風に調理して主食にし、焼きそば(生タイプ)は、麺をビニール袋にいれてめん棒などでついてやわらかくし、団子状に丸めてフライパンで焼き、一部はコーンなどを練りこんでソース味のおかず風に、一部はジャムなどを使って甘いデザート風に仕上げていました。
その料理人さんは、「材料が何かを考えると、どういう風に使えるか思い浮かぶ」と仰っていました。焼きそばだと小麦粉なので、パンとかお菓子とかと同じだなぁ、と。
これ、本当にすごいなぁと思いました。


料理であれ何らかの技術があると、目の前にある「余りもの」を、いろいろな形で生かすことができる。
私は、今の社会にこういう「知恵」がもっとたくさん必要だと思います。


「桜の花と、つつじの花と」の記事でも書いたのですが、
私が時折通りかかる個人経営の手芸屋さんで、ガーゼ布がセールになっていました。
昨年コロナ禍の初めに不織布マスクが不足し、たくさんの人が布マスクを手作りしようとしたため、その材料となるガーゼ布がたくさん流通したのです。
やがて不織布マスクが十分供給されるようになり、コロナが空気感染することが明らかになったことで、現在では布マスクではなく不織布マスクを使うことを推奨されるようになりました。
こういった背景で、ガーゼ布が過剰在庫になっているのだろうと思います。

オカダヤさんとか体力のある企業は、在庫抱えても大丈夫なようで、今でも定価で販売しているようですが、個人経営の店舗などでは「売れる見通しのない在庫を抱えられない」「現金化する必要がある」などの事情で、セールに踏み切っているところもあるのではないかと思います。

私も「家用のワンピースでも作ってみるか」と買ってみたのですが、もともとがマスク用のガーゼ布なので、すごく品質が良いし、マスクを手作りするような大人の女性が顔につけてもいいと思うような、素敵なプリントのものが多いです。

今はまだいろいろな点で不安定な世の中なので、こういったことは必ず発生します。
何かが発生して(それが疫病や災害などだけでなく、単純に流行という意味でも)、あるものに需要が集中すること、ということがあります。
需要が間に合わず「粗悪品が高値で売られる」時期と、供給が満たされて需要が落ち「上等品・良品がたたき売られる」時期というのが、発生します。

中国では、昨年パルスオキシメーターが大量生産され過剰在庫になったようで、少し前には中国の通販で1個100円くらいで売られているという情報も流れていました。
コロナ対策が遅れ、政府があてにならない日本で、たくさんの人が個人輸入したようです(私は買いそびれました)。

日本でマスク用に流通したガーゼ布については、今「上等品・良品がたたき売られる」タイミングです。
私は単純に「こんなに良いものが、こんな状態でワゴンセールされていてもったいなぁ」という気持ちと、「みんなが困っているときに必要なものを供給してくれたお店が、過剰在庫で困っているなんて申し訳ないなぁ」という気持ちが動いて、なんとかできないだろうかと思いました。

日本人の悪いところとして、何かの流行とか必要が発生すると、みんながわぁ~っと同じものに群がるのに、その流行が終わると後はみんな知らんぷり、というのがあります。
四半世紀前のナタデココブームとかもそうだし、需要に合わせて生産・供給体制を拡張したのに、ブームが去ると見向きもしなくなって、誰かが負債を抱えても我関せず、新しいブームを探す、というようなことを繰り返しています。
私はこういう軽薄で無責任な態度、社会としてすごく情けないし、申し訳ない。

で、このガーゼ布をどうやったら有効に使えるかなぁと考えて、先の「家用ワンピース」のほかに、2枚重ねにしてフェイスタオルサイズに縫ってみました(ダブルガーゼの2枚重ねなので、ガーゼは4枚重ね)。
私は自律神経系が弱くて、大量に汗をかくことがあるので、冷え防止もかねて、家では首にタオルを巻いていることがよくあります。
更年期障害の場合でも、「ホットフラッシュ」と言って、急に上半身が暑くなってバケツで水をかぶったように汗をかく、という症状があるのですが、私は長年そういう状態。年齢的には更年期障害といったほうが通りが良い年ごろではあるのですが、私はこれ、もともとの自律神経系の弱さからくる長年の症状。
今の日本人女性、こういう症状抱えている方、少なくないんじゃないですかね。社会が不安定で、女性がたくさんのストレスを抱えているので、自律神経系が乱れてしまう方、多いと思います。
ま、そんなわけで、私はもともとフェイスタオルを大量に使っていました。
それで、セールになっているガーゼ布をタオル替わりに使うのもありだなぁ、と思いました。もちろん「使える部分で」の話ですが。
私は髪が長くて多いので、洗髪には地厚でしっかりしたタオルが必要です。
が、枕に敷いたり、首に巻いたり、食器を拭いたり、洗面台やトイレにぶら下げるタオルとしてなら、私にとってはガーゼで作ったものでも十分。

なんかこういう、「十分に必要を満たす」というレベルで、社会に発生するロスを防ぐ使い方をすることができないかな、ということを考えています。
もちろん個人的な感性も関係するので、全員に強制したりするようなものではありません。「タオルの感触が生活に必要」という感性の方もいるわけで。

考え方としては、「まかない」に近いです。
「カルボナーラ」や「青椒肉絲」ではないけど、これはこれで美味しくて必要を満たす。
場合によっては「コブサラダ」みたいに、それ自体が素晴らしいと称えられるものができる可能性もある。

今私の目に留まって気になったのはマスク用のガーゼ布だったけど、
社会の中で、ほかにもいろいろなものがそんな状態にあるはず。
例えば、タピオカとかもそんな状態なんじゃないかと思います。
私はたまたまガーゼ布をタオル替わりに使ってみるか、と思ったけど、
人によって、「何が余っているか」、「どういう風に使えるか」、気が付くもの、思いつくことが違うのではないかと思います。

私が毛糸を仕入れている中古サイトでも、超高品質な工業用糸がアパレル工場から半端品として出品されることもある一方で、あんまり高く売ろうとしないで「とにかく売ってしまいたい」という感じで段ボール箱に4キロとか同じ毛糸を詰めて販売しているところもあります。まぁ、産業廃棄物として経費をかけて処分するくらいなら、事務手数料分くらいの金額で売った方がいい、というような感じなのかもしれません。
よっぽど気に入った糸でなければ、私のように個人でちまちま作って売っているような者には手を出しにくい形態だなぁとは思っていました。
が、先日「ウール90% ナイロン10%」という糸がそういう形で売られているのを見て、
「この材料の割合は靴下にちょうどいいんだよなぁ」と思いました。靴下は強度が必要なので、ウール100%より少し化繊が入っていた方が長持ちしてよい、と言われています。
色味も濃いめだったので、さらに靴下にはちょうどいいし、と言って、こんなにたくさん一人では作れないし、うーん、と悩んでしまいました。

まぁ、すでに私が靴下を商品化するために、ウールとアンゴラ、アルパカ、シルクなどの高品質な糸をたくさん仕入れている、というのもあります。

ただ、なんというか、私が「Mermaid Knit」でやろうとしている「最高の材料を使った最高のニット」という路線とは別に、
「過剰在庫でこのままではロスになってしまう可能性のある良質なもの」を使った「十分に必要を満たす」、「まかない」路線の商品というのも、今の世の中の一助になるんじゃないかなぁ、と思いました。

とはいえ、私の人件費を考えると、「まかないだから安い」ということにはできずいろいろ悩ましいのですが。
例えば手編みの靴下が3000円で売っていたとして、普通は「靴下に3000円?高っ!」と思うと思います。量販店では3足1000円が相場ですからね、化繊とはいえ。
でも、靴下手編みする方はおわかりかと思いますが、仮に時給1000円で換算しても、靴下1足3時間では編めないんです。まぁぶっちゃけ材料費なんてどうでもいいくらい、人件費としてペイしません(笑)すでに固定のお客様がついているニット作家の知人も「コンビニでバイトした方が儲かる」と言います。まぁそんなもんです。

ガーゼを使ったタオルも、「質の良いガーゼだから、これ商品にしたら売れるかな?」と思って市販のフェイスタオルの値段を調べたら、今、日本の物価が本当にとんでもなく下がっていて、「安さ」ではとても競争することはできません。
「そこそこ品質の良いものの世間一般の値段」を調べる時に、私はよく無〇良品のサイトをチェックするのですが、フェイスタオル290円でした。
まぁこの値段じゃちょっとどうしようもないですね。
ただ、社会としてそれでいいかというと、「こんな社会を維持しちゃいけない」と思っています。
ある程度まっとうな品質のフェイスタオルが290円とか、どれだけ原料を買いたたき、どれだけ安い人件費で作らせているの、ということなので。そんなことが長続きしちゃいけないし、また、そういう不均衡は必ず何らかの形で崩壊すると私は思います。
また、「少し良いものであってもその値段じゃないと買えない」ほど、庶民が貧困に苦しんでいる、という社会が、これ以上続いていいはずはありません。
(まずは、来る衆院選で自民党・公明党政権を終わらせて、政権交代しましょう。
「比例は共産党」で。)

なのでまぁ、「まかないだから良いものをお安く」は成立しないけど、
でも、「このままだと廃棄されてしまう可能性のある良いものを使って、必要を満たす」という社会の調整弁としての意義を考えて、その方向性での商品も作ってみようかなぁと、今考えています。
ハイクラス・ニットとしての『Mermaid Knit』とは別に、『まかない屋』みたいな名前を付けてみようかなと思ったりしています。
私は編み物が得意分野なのでニット製品が多くなるとは思いますが、先の段ボールに4キロ5キロとか入っているような毛糸を、小巻にして、社会的意義を感じてくださる方向けに販売するのもいいかもしれません。
編み物グループとか編み物教室とかがあれば、そういう格安で仕入れたものをみんなで分け合って使う、ということもできるのですが、コロナ禍のために編み物教室を始めることができませんでした。日本のコロナ対策本当におかしいので、まだ当分難しそう。。
でも、「思いついたこと」で「できそうなこと」はやってみよう、と思います。