2021年3月10日水曜日

シャーマニズム、クラブ、演劇、あるいは『マージナル』

 私の大好きなオーディション番組『Got Talent ゴットタレント』シリーズ、
いろいろ語りたいことあるのですが、
今日は、宗教と科学についての私の見解の説明に最適な動画、
ご紹介したいと思います。

最近「ジェフの翻訳チャンネル」さんが日本語訳をつけてくださっているので、
そちらをご紹介させていただきます。



↑私がもともと見ていたのはこちらの動画。14:36くらいから登場

オレナ・ウタイさんというロシア北東部サハ共和国出身の女性が、
伝統的な演奏を披露しています。
鳥の鳴き声に始まり、馬が駆ける様子やいななきなどを表現します。
最初は「この聞きなれない音は何?これは音楽なの?」と戸惑っていた会場の人たちが、
あれよあれよという間に熱狂的に踊りだします。
祭りです。パーリーです。クラブです。

後ろの観客を立たせて踊らせるデイビッド。
こういうところ大好き。

舞台袖の幸運の妖精アント&デックも踊りだす。

アリーシャとアマンダがシンクロで踊ってるの
マジ可愛い(笑)

これ、本当に興味深いなぁと思って見ていました。
オレナさんは、「シャーマンの伝統文化を受け継いでいる」(上記「ジェフの翻訳チャンネル」2つ目より引用)と語っていますが、
シャーマンの伝統文化が、クラブミュージックなんですよ。

オレナさんご本人はまるで森の女神のよう

私は大学の専攻が文化人類学だったので、こういうのすごく面白く感じます。
多くの現代人は、「シャーマン(祈祷師)」とか言うとすごくうさん臭く感じるわけです。
民族の伝統文化とか、伝統音楽とかも、かなぐり捨ててきた過去もあったわけです。
そして、シャーマニズムなんかきれいさっぱり忘れた都会のクラブで、
そのシャーマンのリズムが自然発生的に生まれて、
何も知らない現代の若者が、かつての民族の祭りで焚火の周りで踊っていた人々と同じように踊り狂っているわけです。

これを見てもう一つ思い出すのが、〇十年前に読んだ『スフィンクス』(著:アンヌ・ガレタ, 訳:吉田暁子, 1991, 新潮社)という小説です。
クラブのDJをやっている性別不明の主人公が、非常に盛り上がった夜のことを述懐する箇所があります。
もう手元にないので、うろ覚えで恐縮なのですが、音楽に熱狂する人々が一つの塊りになって蠢いていて、そこから誰も離れることができなかった、と。一つの生命体であるかのように、一体になって踊っていて、個人の意思ではそこから離れることができないような状態になっていたという描写がありました。

私自身は、実家にいるときは親が厳しくて、働いて一人暮らしをしていた時は体調が悪くて、この手の夜遊びをあんまり経験していないのですが(笑)、
小学生の頃から演劇をやっていたので、舞台でこういうことが起こることを経験していました。
舞台上の自分の感情が拡大して、客席すべての感情と化し、それが大きなうねりとなって圧倒的な強さで一つの方向に(演劇の場合は物語の進行へと)動いていく。
台本のセリフを言っているのではなく、台本の動きをしているのではなく、
自分の口から勝手に言葉が流れ出し、勝手に体が動いている。
舞台上の他の役者の感情、自分の感情、客席の感情、そういったものが一つの大きなエネルギーとなって、意志を持って動いているかのよう。
そしてまた、自分の感情がそれら全体を動かしてもいる……。
演劇好きな方だと、鴻上尚史氏の「第三舞台」という劇団をご存知かと思いますが、
この劇団名の由来は、「役者がいる舞台が『第一の舞台』、客席が『第二の舞台』、そして役者のいる舞台(第一舞台)と客席(第二舞台)が融合して生まれるのが『第三舞台』」だからだよ、と演劇の先輩から聞きました。
この話を聞いた時に、「なんてわかっている人なんだろう」とすごく感動したのを覚えています。


一方で、先日ツイッターでちょっと気になったものが流れていました。
以前、NHKで、修行をしている僧侶の方の脳波を調べるような番組を見たのだけど、
詳細忘れたので情報が探せないがもう一度見たい、というもの。
その番組では滝行やらなにやらしている時の脳波を測って、科学者の人がコメント入れるみたいなものだったようです。
で、ツイッターの短い文章なので厳密にはわかりませんが、滝行とかして何か宗教的なことを話されている状況なんですかね、その科学者の方が脳波見ながら「幻覚です」とか「幻聴です」みたいな冷静なコメントを入れているような番組だったようです。
滝行のような身体的な極限状況で出やすい幻覚とか幻聴だと、科学者が冷静に説明しているような感じだったようです。

まぁ、この情報だけだと、どういう意図のどういう番組なのか(その科学者の意図も)わからないのですが、私が政治やコロナ関連でチェックしている男性のツイッター発信者が複数リツイートしていました。その方々もどういう方向性の興味でリツイートしたのかは、私はわかりませんが。

で、私がこのツイートを見て思ったのは、
「幻覚・幻聴だったら、何なの?」
私からすると、滝行している僧侶の脳波見て「幻覚・幻聴です」と言われたところで、
「息を吸い込むと肺が膨らみ、息を吐くと肺がしぼみます」と言われているようなもので、
「そのこと自体は知っているけど、そのことをもって何を言いたいのだろう、この人は」と思うわけです。

ま、一番初めのオレナ・ウタイさん然り、『スフィンクス』のクラブDJ然り、私の演劇経験然り、私が思うのは、人間は「変性意識状態」になることを必要としている生き物なのではないか、ということです。

私は文化人類学・民族学が専攻なので、民族舞踊とか伝統音楽とか原始宗教とか、とても興味があります。
地を這うような太鼓のリズムが高潮していくさま、焚火、一体感を伴うダンス、どこまでが真実かは私は確認していませんが幻覚作用を伴う薬草などを使うという話も聞きます。
いろいろな地域のいろいろな文化の中にこういったものが存在し、
それらが忘れられた現代の都会では、自然発生的にそれらをまた作り出している。
ただ、現代の都会で生まれたものは、社会を維持するための規制装置が働いていないので
より「快楽」を追求する傾向があり、薬物依存に陥るような合成麻薬を作り出したり、破壊的・破滅的な文化に陥る危険性もはらんでいると思います。

ただ、本来は、滝行のように体を追いつめることで発生するものであれ、
リズムや音楽、光、踊りを用いたものであれ、
あるいはある種の変性意識状態をもたらす物質を用いたものであれ、
そのようなものによって生まれる状態を、人間は必要としていると私は考えます。

それは普段の考え方を超越した考えであったり、個人という枠を超えた一体感であったり、あるいは単にフラストレーションを発散して感覚を一新するということであったり、
そういったことが、人間が健全に社会を営んでいくために必要で、
人間は常にその仕組みを作り出し、維持してきたのではないか、と私は思います。
そのための仕組みが、宗教として維持されている部分があると私は思っています。

先の滝行の僧侶、仏を見たのか仏の声を聴いたのかわかりませんが、変性意識状態になって、普段の常識を超えたものを見聞きして、それで物事が良い方向に動いていくのなら、それに何の問題があるんでしょうね。
あ、こういう言い方しているのは、「幻覚・幻聴だから宗教なんて嘘っぱちだ」とか言い出す輩が少なからずいるからです。

①人間はそもそも変性意識状態になることを必要としている
         ↓
②その変性意識状態を社会が健全な方向に向かうように利用する
         ↓
③そのために危険性を排除すべく方向性を定める

そうして生まれたものが宗教と考えるなら、それで十分じゃないですかね。
というか、①だけあって、②や③が働かない文化は破滅して残らないと思うんですよ。
だから現在のクラブ文化が、どこまで②や③を意識できるかで、破壊的な終わりを迎えるか、社会に必要なものとして維持されるかというところが変わってくるのかなぁと言う気もします。

私は数年前にカウンセリングの勉強をしていたことがあって、
その時の男性の先生が、私のスピリチュアル的な性質が気に入らないらしく、
ちょこちょこ矯正しようと小細工をしていました(笑)
なんかね、「虹ってすごく美しくてロマンチックなんだけど、あれは単に水蒸気と光の反射でナンタラカンタラ」とか言ってくるのね。
「だから何?」ですけど(笑)
水蒸気と光の反射だろうが何だろうが、
「美しい虹や夕焼けを見て、これまでグチャグチャ悩んでいたことがどうでもよくなった」なら、それ以上何があるの?と思いますけど(笑)
まぁだから「スピリチュアル的な現象とか科学で解説できる意味のないことだよ」みたいなことを暗に言いたかったみたいなんですけどね(笑)
ま、「中2病なんだなぁ」と思いますけど、そういうこと言ってくるのって(笑)

それ言ったら、小説なんて読む意味ないし、オーケストラなんて必要ないし、演劇も映画も必要ないし、絵を描く必要も写真を撮る必要もないでしょ。
先の僧侶の脳波の解説している科学者とか、ちょっとそういう臭いがしちゃうのね、偏見かもしれないけど。
水蒸気と光の反射が、とか、幻聴が聞こえる脳波が、とかで全部終了すると思っているなら、真っ暗な部屋でパソコンに向かってコンピューター言語打っているだけでいいじゃん、と思うわけですよ。でも実際の人生そういう風になってないじゃん(笑)

ま、私はこういう人たちを「俺は男だバカ」と呼んでますけどね。
最近は「お理工さん(おりこうさん)」というネットスラングがあるようですが(理系の男性が文系の女性を見下したがる傾向を揶揄している)。


で、逆に、「人間は本来宗教的な要素(変性意識状態や信仰の対象)を必要としているがゆえに、宗教を必要とする」という認識を非常にうまく使っている例が、
萩尾望都のSF漫画『マージナル』(小学館)です。

砂漠のアラブ風の民族文化の中での迷信に満ちた混乱や個人的な愛憎劇と、地球を管理する高度な科学文明を持つ地球外人類による「カンパニー」の場面が交互に展開され、
それらがやがて、過去の疫病によって女性が生まれなくなり、男性しか生きることができなくなった不毛(マージナル)の地球を、すでに地球外に移住していた地球発祥の人類が、卵子を提供して体外受精で子供を作り出すことで地球人類を維持し管理している…という壮大な背景の物語に収束していきます。

その中で非常に興味深いのが、「マザ」というすべての地球人類を生み出す母なる女性。地球は女王蜂を頂点とするミツバチのような社会が構成されており、マザは神のような信仰の対象であるのだが、実はマザは本当の女性ではなく、「カンパニー」が選んだ少年に手術で女性のような胸を作り、祭事儀礼以外は眠らせて保管している偶像である、という点。
なぜ、このような仕組みが生まれたのかと言うと、男性だけの社会をやっていると、時折生まれる女性性の強い個体を「マザ」として祭り上げるような事態があちこちで自然発生してしまう。だから、それらが野放しになって破壊的な状態にならないように、カンパニーが管理する必要性が生まれた、というもの。
まぁ、このSFの設定の荒唐無稽さとか、カンパニーによってマザにされる個体に対する非人道性とかは、いったん置いといて、
「スピリチュアルに対するマウンティングとしての科学」を展開するなら、
このくらいのことは考えてほしいなと思うわけですよ。

この『マージナル』という作品の中にも、文化人類学者が登場して、この男性社会の中に入り込んで生活しながらいろいろ苦悩しているのですが、萩尾望都氏ご自身が文化人類学を学ばれたんだろうなぁと思います。

人間には変性意識状態であるとか、宗教的な信仰の対象が必要であり、放っておくとそういったものを勝手に作り出してしまう。
未熟な人間がそれらを作り出した場合、社会を健全に維持するように機能するかどうかわからない(『マージナル』の他の場面では感応力の高い遺伝子を持つ部族が、時折レミングのように集団自殺行動をとることがあり、危険なため、この遺伝子を持つものは子孫を残すことを禁じられている、という箇所がある)。
このため、社会を健全に保つには人工的に宗教を組織して管理する必要がある、という結論に至った、という筋書き。

スピリチュアルに対抗する科学なら、ここまで考えてから物を言ってほしいんですよ、
ほんとに(笑)
あんたは子供か!と思いますよね。人生を何にも知らんのか、と。


で、先の僧侶のように幻覚・幻聴を見聞きするような状態、変性意識状態で見聞きしたものは、何か意味があるのか、まやかしで価値がないものなのかについて、二つ例を挙げます。

一つ目。
インドの天才数学者ラマヌジャン(1887-1920)。
私がラマヌジャンの存在を知ったのは、藤原正彦・小川洋子共著による『世にも美しい数学入門』(筑摩書房, 2005)から。
2016年には、ラマヌジャンを主人公にした映画『奇跡がくれた数式』も日本で公開されています(映画の原題は"THE MAN WHO KNEW INFINITY"。邦題は、小川洋子氏の小説『博士が愛した数式』をパクっています。数学者藤原正彦氏は、小説の登場人物である数学博士のモデル)。

『世にも美しい数学入門』によれば、20世紀初頭、まだイギリス植民地時代のインドに生まれたラマヌジャンは、天才的な数学の才を発揮し、宗主国イギリスの大学教授数名に自分の研究内容を示す手紙を送ります。他の教授が無視する中、ケンブリッジ大学のG・H・ハーディ教授はラマヌジャンの才に驚き、イギリスに招きます。
それからラマヌジャンとハーディー教授がコンビを組んで、ラマヌジャンが次々と発見する天才的な数学定理を証明していく…ということなのですが、
ラマヌジャンは、これらの偉大な発見を、ラマヌジャンが信仰しているヒンズー教の女神(ナーマギリ女神)が夢の中で教えてくれるものを、朝言われた通りに書いているだけだと述べているそうです。(p.43)
で、私は数学の才ないので数式を見てもラマヌジャンの偉大さがわからないのですが、
以下に、映画『奇跡がくれた数式』のプログラムの説明を引用します(孫引ですみません)。

ラマヌジャン・ハーディ法
今日、数学者と物理学者は超弦理論を研究しており、ラマヌジャン・ハーディ法という言語を用いてブラックホールに関連する質量を計算しているが、当然ラマヌジャンの生きた時代には、ブラックホールの存在を知る者など誰もいなかった。彼の考え方はコンピュータのセキュリティで用いられる数学の分野にも刺激を与えており、ラマヌジャンの公式は、数学界への贈り物のような奇跡であると同時に、人類発展に欠かせない未来へのヒントにもなっている。
(『奇跡がくれた数式』劇場用プログラム,  ㈱KADOKAWA, 2016, p9,
引用箇所の出典  著:ロバート・カニ―ゲル, 訳:田中靖夫, 「無限の天才 夭折の数学者・ラマヌジャン〈新装版〉」, 工作舎, 1994/2016,  p.384)


二つ目。
アリス・ウォーカー著 小説『カラーパープル』("THE COLOR PURPLE" , by Alice Walker, 1982)。
黒人女性のセリーが、人種と性別による2重の抑圧を受けながら、自分自身の愛と信仰を見出していく物語で、1983年にピューリッツァ賞と全米図書賞を受賞しています。
(暴力描写が冒頭含む随所にあるので、繊細な体質の方は閲覧注意。)
私が持っているのは集英社文庫版ですが、その翻訳者柳沢由美子氏による解説から引用(『カラーパープル』, 著:アリス・ウォーカー, 訳:柳沢由美子, 集英社, 1986)。

『カラーパープル』は、踏み台になった側の人間、ウォーカーの言葉で言えば、”大事なことは知らなくてもいいとされてきた人間たち”が、アリス・ウォーカーという媒体を得て、自分の体験を語った記録とも言える。
ウォーカーがニューヨークに住んでいたときには現れてこなかったこれらの人々の霊魂は、彼女がサンフランシスコ郊外の、山や海に恵まれた自然の中に居を移すと、頻繁に現れ、語りかけてくれたという。
実際、ウォーカーはこの本を書くために机に向かったことはないと話している。朝食のテーブルでとか、人と話している時に思いついたことを新聞のはしやティッシュペーパーのきれはしなどに書きとめておいた。あるときは部屋の本棚のあたりからセリーの話が聞こえ、あるときは散歩しているときにミスターの声が体の中から湧いてくる。
ウォーカーは、こうして自分に語られた言葉を書き綴ってこの本を書き上げたという。魂たちの言葉はみなパーフェクトで、自分は何も書き加えるものがなかったと語っている。本書の巻頭と巻末にある言葉は、まさに霊媒の役割を果たしたアリス・ウォーカーが、目に見えないものに導かれてこの本を書き上げたことを意味している。
(p358-359)


巻頭の言葉:

精霊へ

その力を借りずには
この本も
私も
書かれなかったにちがいない
(p.3)

巻末の言葉: 

この本に現れたすべての人に感謝します。 
         作者および霊媒の役割を果たしたアリス・ウォーカー
(p356)


柳沢由美子氏、私の大好きな翻訳者の一人で、氏の翻訳による外国書籍はどれも良書。
(フィクションでは『おばちゃまは飛び入りスパイ』シリーズなど。)
この『カラーパープル』の解説文も全文載せたいくらい素晴らしいのですが、論点がぼけるので(というか無断転載になるし)、泣く泣くこの箇所のみ引用。
つまり、アリス・ウォーカーは『カラーパープル』を書くにあたって、自分で試行錯誤して物語を構築したのではなく、(変性意識状態の時に)聞き取ったものを書きとめただけである、という点。


以下、この二つの例を元にした私自身の考察。

例①のラマヌジャンは、自身で仮説を組み立てて計算したり証明したりして数式を発見したのではなく、夢の中でナーマギリ女神に教えてもらったことをそのまま書いたと言っている。
その数式の正しさや価値は、当時はもちろん、100年たった現在においてすらも、認められている。
この場合、「ナーマギリ女神」という存在が、真にナーマギリ女神である必要があるか?
つまり、先の滝行などをしている僧侶が、「仏様を見たor聞いた」と言った場合、「それが幻覚・幻聴であり、意味はない」と断じることが、果たして科学的な態度であるかどうか、ということ。
ラマヌジャンの言う「ナーマギリ女神」が真にナーマギリ女神でなかったとしても、その数式が正しく、圧倒的に価値のあるものであった場合、ラマヌジャンが認識している「ナーマギリ女神」という存在が真にナーマギリ女神であるという必要性はあるのか?ということ。

これは、今現在の偏った文化だとあまり認識されていないように思うのだけど、
スピリチュアルの観点からもいくつかの可能性が考えられる現象で、
ラマヌジャンの言う「ナーマギリ女神」は
①実際に存在する本物のナーマギリ女神であり、ラマヌジャンは女神の御言葉を正しく聞いている。
②ナーマギリ女神よりも下位の存在がナーマギリ女神を名乗っている。
③ナーマギリ女神よりも上位の存在がナーマギリ女神を名乗っている。
④ヒンズー教の中に存在しない霊的な存在がナーマギリ女神を名乗っている。
⑤ラマヌジャンの本質(潜在意識や魂といったもの)が、ナーマギリ女神に投影されている。

まぁ、現代人にとって一番心が落ち着くのは⑤なんじゃないかなとは思いますけどね。
ラマヌジャンはバラモンの階層で、非常に信心深いので、世の中すべてをヒンズー教のフィルターを通してみているわけです。
なので、善なることすべてを、ヒンズー教の神々のおかげだと投影して認識している可能性はあります。
ただ私は、霊的な存在が実在していて、コンタクトできる人がいることも否定しません(ラマヌジャンがそうであるかどうかは私にはわかりませんが)。

ただ、この場合、「ナーマギリ女神が真にナーマギリ女神である」必要性ってありますかね。
そして、それを証明することってできますかね。
私はどちらも「NO」だと思いますけど。
ラマヌジャンの数式の正しさと価値は、「ナーマギリ女神が真にナーマギリ女神であるか否か」によって左右されることじゃないんですよ。
こっちが本質じゃないですかね。

だから私は、滝行をする僧侶が見たもの・聞いたものがなんであれ、それが真に仏様なのかどうなのかは、まったく意味をなさないと思うんです。
ただ、その状態で得たもの(美しいビジョンを見たことによって心が清らかになった、とか、善を説く言葉を聞いた、とかいうこと)が、その人や社会にとって「善いこと」であれば、それ以上何を追求する必要があるのだろう、と思うのです。


例②の『カラーパープル』はさらに面白くて、著者アリス・ウォーカーは、聞こえてきたことを書きとめただけで自分では物語を構築していないと言っている。
ただ、聞こえてきた「声」、『カラーパープル』の登場人物たちの声というものは、いったい何なのか?
『カラーパープル』本編は、登場人物たちの独白が様々に重なって、大きな物語を紡いでいます。
この登場人物たちは、実在した人間なのか?実在した人間が亡くなって、霊魂として存在していて、「聞く」能力を持っているウォーカーに、自分たちの思いを語りかけているのか?
主人公セリーはともかくとして、歌手としてアメリカ中で公演をしたシャグは実在したのか(違う名前を名乗っているとしても)? セリーの妹ネッティーがアフリカに渡った記録は残っているのか?
それとも登場人物にあたる人物はまったく「実在」しなかったのか?
実在しなかった場合、ウォーカーに自分の思いを語りかけてきたものは、「何」なのか?

ちょっと話はそれますが、その昔英語の勉強のためにロアルド・ダールの童話を何冊か読みました。ロアルド・ダールは映画化もされた『チョコレート工場の秘密』が有名です。
確か『THE BFG』だったと思うのですが、なんか空気中にフワフワと漂っているものを、虫取り網みたいなもので捕まえて、瓶につめて棚にしまっておいて、物語を書くときは、その瓶をいくつか選んで中身を混ぜ合わせて一つの本を書くんだよ、みたいなお話しがあったのです。
この童話を紹介した日本の本で(何だったか忘れてしまいました)、これが小説家の小説の書き方です、みたいなこと書いていて、ちょっと印象に残っていたのです。
まぁ、『カラーパープル』のことを思うと、なるほどと思いますけど。

で、戻って『カラーパープル』の登場人物たち、実在した人の霊魂なのか、人間として実際に生きていないけど、『THE BFG』みたいに何か空気中に漂っている「思い」や「イメージ」みたいなものなのか。
それとも、神様がウォーカーに「こういう小説を書かせたい」と思ってこういう形で伝達しているのか。
あるいはラマヌジャンの⑤みたいに、ウォーカーの深層心理が、投影されているのか。
ま、いろんなこと考えられると思いますけど。
ただ、ラマヌジャンと同じで、今現在の科学では、何も証明できません。
で、登場人物が実在した・しない、この物語がどこから出てきたものなのか、は、
この小説の素晴らしさ、存在価値を、左右するのか。
この小説を読んだ時の圧倒的感動は、そういったことで左右されるのか(ま、実在していたら、それはそれでまた別の感動がありますが)。


一つ付け加えると、小説『カラーパープル』は、スピルバーグ監督によって映画化もされています。(主演はウーピー・ゴールドバーグ。)
が、この映画版、概して評価が低く、スピルバーグ監督はこれを失敗したがために『シンドラーのリスト』を撮影するまでアカデミー賞を受賞することができなかった、という言い方をする人もいます。
私はこのスピルバーグ監督による映画版、卒論の資料として読み込んでいたアメリカのフェミニズム史に関する著書の中で言及されているのを読んだだけで、映画自体は見ていません(というか「ぜってぇ見たくない」と思った)。
この本の中で、映画版では最後の方で、シャグが牧師である父親に「許してください」と謝るシーンが出てくる点が批判されている、と書かれていました。
これ、原作版にはこんな箇所ありません。
シャグはいわゆる「恋多き女」で、婚外子を3人出産、その後もたくさんの男性・女性を愛し、歌手として成功し、男性の規範に一切従いません。
原作の中でシャグに関して牧師が出てくるのは1か所、シャグがセリーに、自分の出産の様子を語る場面のみ。シャグが初めて出産する時に信心深い女性や牧師が来て、悔い改めさせようとした、というエピソードだけ。
けれども、スピルバーグ監督は、ここからストーリーを創作して、男性の規範に従わない女シャグの父親を牧師にし、シャグに牧師である父親に謝らせるという愚を犯した。
原作を読んでみるとわかるのですが、シャグは、「キリスト教という『白人』『男性』の宗教」を否定する存在。セリーを、キリスト教ひいては男性や白人の抑圧から解放する存在。
男性の拘束に従わない「ふしだらな女」、というだけでも許せないのに、「キリスト教」という男の宗教まで否定しやがる女は、もう虫唾が走るほど存在を許せないのでしょうね(笑)
なんだったら映画版のシャグの父親、牧師であるだけじゃなく、白人にしたかったぐらいだろうと思いますよ。さすがにシャグは黒人なので理性が止めたのだろうとは思いますが。
ふしだらで、男の拘束に従わず、女を愛し、キリスト教ではない自然な信仰を自分で見つけた黒人女を、「悔い改め」させて「白人の宗教であるキリスト教の牧師」である「父親」に、「泣いて謝らせ」て、スッキリしたんだなぁ、とね。
で、これ、スピルバーグ監督にシャグの父親についてインタビューしても、「芸術的インスピレーション」だとしか言わないだろうと思いますよ。本人も「本当に」そう思っているだろうし。
常に女性を踏みつけていたいという思い、常に黒人を踏みつけていたいという差別意識が、無自覚に表出するんですよ、こういう形で。


こういった例を考えると、「変性意識状態によってもたらされた」ことを理由に、その知識なり見識なりを否定することは、科学的な態度であるとは思えません。
ただし、その得られた知識なり状態が、社会にとって健全な効果をもたらすものであるかどうかを、正しく判断することが必要だと、私は考えます。
『カラーパープル』の、原作の「何も書き加えるものがないパーフェクト」な物語なのか、
自分の無自覚の差別意識(加害意識)が表出したものであるのか。
また、「これまでの常識」が覆されるようのものがもたらされた場合、どうやってそれを評価するのか。

これ実は、立場が逆転しているだけで、宗教(スピリチュアル)と科学の間で何度も起こっている葛藤です。
ガリレオが地動説を唱えてカトリック教会から異端とされたのは有名ですが、
他にもローマ時代よりも格段に技術レベルが落ちた中世ヨーロッパでは、ローマ時代の水道橋などの遺跡は、「人間にこんなものが作れるわけがない。これは悪魔が作ったものだ」と言われていたとか(これちょっと出典確認していないのでアレですが)。
いや、あんたたちのレベルが落ちただけやろ、と現代人は思うのですが。

この遺跡の話なんかは、今聞くと本当に誰でも笑っちゃうと思うんですよ。
でも今、科学と宗教(スピリチュアル)が逆転して同じことが起こっていることに、気づいてほしいと思います。
つまり、ある種の無知で愚かな人というのは常にいて、その人が権威側に立って、自分の知らないことを否定する、ということが繰り返されている。
中世ヨーロッパにおいては、宗教(スピリチュアル)が権威側であり、地動説やローマの技術を否定した。
現代においては、科学が権威側であり、変性意識状態によってもたらされる知識や状態を否定している。
私が批判しているのは、「科学そのもの」ではなく、無知で愚かな人が権威側に立って自分の知らないことを否定する姿勢です。

「幻覚・幻聴の出る脳波です」と言って何かをわかった気になることの愚かしさに、気付いてほしい。
人間はそもそも変性意識状態になることが必要な生き物だと、私は思います。
その状態を、社会を健全な方向に発展させていくために、どうやって利用していくか。
スピルバーグのような加害意識を膨張させる発露ではなく、ラマヌジャンのような素晴らしい発見や、人の心を豊かにし元気にするような芸術や、思いやりや一体感を育むもの、ストレスを発散して気分を一新させるもの、そういった社会をよりよい方向に前進させるための力を持ったものとして、どうやって活用するか。危険性をどうやって排除するか。
既存の常識が破壊されるような大発見があった時、既存の社会の在り方さえも覆されるような事実がもたらされた時(ガリレオの地動説のように)、それを否定することなく、誠実に検証し、社会に反映していくためには、どうしたらいいのか。

顕微鏡の中だけを覗いて、モニターの動向だけを見て、何かが完了すると思うのではなく、
顕微鏡の中から知りえたこと、モニターの動向から知りえたことと、社会をどう整合させ、社会全体がより良くなるように活用していくか。

これは、理系の世界単体で答えがでるものではなく、文系の世界と照らし合わせて、一見まったく違ったものと思われていた二つから、何か一つの共通する像が浮かび上がるかのように、解が見いだされるものなのではないかと思っています。

そこまで考えて初めて科学的な態度と言えるのではないかと私は思います。



蛇足ながらまとめておくと(お理工さんは文章が読めない人が多いので)、

ラマヌジャンを例にとると、
『ラマヌジャンは、「ナーマギリ女神が教えてくれた」という数式を発表した。』
この場合、

①数式が正しいことは、ナーマギリ女神が存在することを意味しない。
 且つ、
 数式が誤っていることは、ナーマギリ女神が存在しないことを意味しない。

②ナーマギリ女神が存在することは、数式が正しいことを意味しない。
 且つ、
 ナーマギリ女神が存在しないことは、数式が誤っていることを意味しない。

③一つの数式が正しいことは、ほかのすべての数式も正しいことを意味しない。
 且つ、
 一つの数式が誤っていることは、ほかのすべての数式も誤っていることを意味しない。

という点を認識していただくと良いのかなと思います。

お理工さんがよく引っかかって失敗するのが、②。
「ナーマギリ女神なんて幻覚・幻聴だ」と言ったところで、数式が正しいことが数学的に証明されれば、数式は正しく、有用なものであることに何の問題もない。
にも拘わらず、ナーマギリ女神の存在を否定することで、数式も丸ごと否定してしまう。
ナーマギリ女神の存在の真偽を問うことがそもそも誤り。

「なんちゃってスピリチュアル」とか、カルト宗教にはまる人が大抵失敗するのが、③。
一つ正しいことがあったからと言って、その宗教や教祖の何もかもすべてが正しいわけではない。
一つ一つの事例を、これは正しいか誤りかを検証する必要がある。

私自身は、霊的な存在を否定しませんが、今はまだそれを議論できるほど世の中が成熟していないと感じています。
まずお理工さんが②に引っかかってスピリチュアル全否定するのをやめて、
「変性意識状態でもたらされたものであっても、社会に有益な情報がある」ということを、
世の中が認識すること。
そのうえで、その状態でもたらされた情報の真偽を一つ一つ調査する冷静さを持つこと
(「なんちゃってスピリチュアル」が見ていないものでも見たと言い張るので
 こんなことになっているのだと思いますが。マリア様を見たとか龍神を見たとか。
 マリア様も龍神もいいので、もたらされた情報の真偽を確かめよう、ということです)。

その状態を経過して初めて、「霊的な存在はあるのか」「あるならどういう状態で存在しているのか」を検討することができるようになるのではないかなと思います。
古代ローマの科学技術より何段階もレベルダウンした暗黒の中世ヨーロッパでは、ローマの技術を理解するための基礎知識すらなかった、というのと同じで、ある程度の土台がないと、それ以上の知識を理解しようとすること自体がそもそも無理、みたいなことになるので。
ま、これはあくまでも私の見解です。

2021年2月11日木曜日

なんちゃってスピリチュアルのこと

 アメリカ大統領選挙にまつわるQアノンとか、Jアノンとか、
なんかいろいろ来るところまで来ちゃったなぁと思って、
いろいろ心が重かったのですが、
ちょっと一度書いておかないといけないなぁと思っていたことを、
書いてみたいと思います。

私は「なんちゃってスピリチュアル」って表現してますけどね、
そういう、天使が~とか、光が~とか、救世主が~とか、オーラが~とか、
そういう表現を使って「遊んでいる」人たちについて、
私なりの考えを書いてみたいと思います。

私は以前のブログにも書いたように、
子供の頃から演劇をやっていて、憑依型の役者だったので、
なんというか、言語で表現できる世界を超えたもの、というのをたくさん体験した結果、
スピリチュアル系の人間になりました。
だからと言って役者が全員スピリチュアル系になるわけでもありません。
あと、私は別に何も見えないし聞こえません。

「スピリチュアル」という言葉の定義すら、
今となっては、「なんか地に足がついてない非現実的なことを言う人たち」、
みたいな雰囲気になっていて、
私としては、ちょっとこんな風になってほしくなかったなぁ、と思うところです。

「霊的な生き方」という言葉すら、もう怪しい言葉になってしまっています。
要するに、「人間の本質的なところを見つめて、より良い生き方を探る」姿勢であると、
私は思っています。

ただ、ここまで「愛」とか「光」とか「オーラ」とか「闇との闘い」とか、
なんかそういうスピリチュアルワードみたいなもので
キャッキャウフフしている人たちがいて、
そういう人たちがQアノンとかJアノンとかに流れ込んでいるらしい、というのを
ネット上で見ると、正直途方にくれます。
(あとなんか知らないワードがどんどん発生していて怖い(笑)
「ディープステート」とか「ケムトレイル(?)」とか何?
うっかりググって変なもの見ると精神やられて寝込みそうだし調べるのも怖い(笑))

前に、「なんちゃってスピリチュアル」のうさん臭さ、
既視感あるなぁと思って思い出したものがあります。
もうかれこれ20年以上前ですかね、『週刊SPA!』という雑誌で、
「クラバカたちの〇〇(←忘れました)」という特集記事があって、
そこに描写されていたクラバカ(クラブにたむろするバカ)と同質なものでした。

この記事によれば、クラブでは若い人たちが派手な格好をして派手に騒いで一流のアーティストであると名乗っているとのこと。
でも実際は、「映画監督」を名乗っているけど、映画を一本も撮ったことがない、とか、
「美容師でロンドンのサスーンで修行(当時ヴィダル・サスーンがおしゃれだった)」と
言っているけど、多分何もしていない(店の前を通ったことがあるくらいじゃね?)とか、
「建築家」を名乗っているけど工事現場でブロック塀を積んでるだけ、とか、
そんな奴らばっかりだよ、という内容の記事でした。

この記事読んだ当時、私もまだ若かったので、
まぁこの自分を少しでも大きく見せたいという若さ特有(?)の虚栄心みたいなもの、
私の中にもかなり生息していて、
「あ~私もこの世界にいたらこういう嘘ついていただろうなぁ」という
すごく痛い気持ちになったことを覚えています。
いやまぁ若くても虚栄心のかけらもない立派な方もいるんだろうと思いますので、
あくまでも私の場合と、この雑誌で語られている人たちの話ではありますが。

ま、このクラバカの人たちがそう見せ掛けようとしていた
「社会の裏も表も知り尽くした遊び上手な一流アーティスト」とか、
そういう人たちが集まる知る人ぞ知るスポットとか、
どっかには実際に存在したんだろうとは思いますよ、日本かどうかは知りませんが。
ダイアンのラップワンピとか、そういうところで生まれたと聞いてますし。

この『SPA!』の記事みたいに、
見る人が見たら「お前は違うだろ!」みたいにすぐバレる嘘、
でもそのグループ内では必須の嘘、みたいなのが、
この「クラバカ」も「なんちゃってスピリチュアル」もすんごく同質に感じられる。

あと、バブルの頃には「猫みたいな女の子ブーム」とかいうのがあったそうですね。
バーのカウンターで「あたしってぇ、『猫みたい』って言われるのぉ」と自ら言う女性が
たくさんいたのだとか。
何かで読んだだけなので、実際は知りませんが。
まぁ目の前の女性にそんなこと言われたら「走って逃げろ!!!」ですけどね。

あと近年感じたのが、「余命3年のナントカ」さんの真似してるようなネトウヨとか。
「余命3年のナントカ」さんも読むと精神病みそうと思ったので読んでないのですが、
多分そのあたりの「世の中の人が知らないことを知っている重要人物だった隠居爺」みたいな芸風と言うか文体を真似してるんだろうなぁという雰囲気の、おそらくは若い男性。
(菅野完さんのツイッターをずっと見ていたので、菅野完さんがそういうのを好んでおちょくっていたのを興味深く見ていました。)

なんて言うんですかねぇ、このあたりのことって、実際の人生を失敗している人が、
「このジャンルでなら成功者になれる!!!カリスマになれる!!!」みたいな感じで
大挙して押し寄せているように感じるんですよ。
「ブルーオーシャン見っけた~!!!」みたいな感じで。
(「人生失敗していてスピリチュアルな人」とか、まんま自己紹介みたいで自分で書いていて痛いですけどね私。私は「なんちゃって」じゃないスピリチュアルやってるつもりなんですが。)

あとまぁ私が本当に勘弁してほしいのは、日本会議系(?)の人たち、
やたらと日本の伝統とか神道とかを持ち出すような人たち、
何をどうしたら神道が「善」とするものとトランプさんが合致するの???
むしろ対極じゃないですかね。
私も無責任に「神道が『善』とするもの」なんて書き方をしてしまいましたけどね、
神道は「言葉」すら使わないじゃないですか、
聖書とかコーランのように「このようにしなさい」みたいな文書化したものないんですよ。
それが何をどうしたら「俺はすごいんだ~!!!」しか言わないような人を、
立派な人だと思えちゃったり、闇と戦う救世主だみたいな扱いできるんですか???
神道とか日本の文化がもっとも忌み嫌うタイプじゃないですかね。

世の中に何にもわかっていない人が山ほどいることは知っているし、
存在していること自体は問題じゃないです。
でも、神道がどうとか日本の伝統文化がどうとか言いながら、
トランプさんにOK出せる人は、本当にアウトです。
勘弁してほしいです。その一線は越えてほしくないです。
幼児が存在することは当たり前だし、刃物が存在することも当たり前ですが、
幼児に刃物持たせるのは、社会としてやめさせる必要があると私は思います。
わからない人にわからないこと語らせちゃいけません。
小学生が危険物扱う大学の研究室に入っちゃいけないのと同じことです。

*******

以下は私自身の苦い経験、後悔を伴った経験をお話しします。

私は芸術活動を通した体験と、南の島でイルカと泳いだりした経験などを通して、
スピリチュアルに傾倒して、ずいぶんたくさんのスピリチュアル系の本を読みました。
いわゆるトンデモ本というか「これちょっとおかしい」というのもたくさんありますが、
心から素晴らしいと思える本もありました。
もう10年以上も前ですが、そのうちの「これは鉄板」と思えるいくつかを、友人にも薦めていたのです。

そういうスピリチュアル系の良書を通して、
より良い生き方を模索していくことができると、純粋に思っていました。

大切な友人で、たくさん挫折を経験した人がいて、
彼女は私が薦めた本を一生懸命読んでくれました。
それが彼女の人生を良くするだろう、と思ったから私は薦めたのですが、
思ったようにはなりませんでした。
彼女はいろいろスピリチュアル情報を集めてその中で遊び始めてしまい、
結局、現実逃避のための依存の道具にしてしまいました。

本質的な、心を整えて正しく生きる、弱点を克服する、とかそういう部分ではなく、
〇〇天使が、とか、ドラゴンが、とか、〇〇次元が、とか、
付随的な知らなくてもいい情報、まがい物があふれている情報の中に耽溺してしまいました。
もともと恋愛依存体質だった彼女が、スピリチュアル依存に移行しただけでした。

私や心ある旦那さんの忠告はもう耳に入らなくなってしまい、
ある一線を越えてしまったので、
私は今生でのご縁を終わりにする、と告げて関係性を断ちました。

なんというかね、本質的なところでは、「失敗する自由」を認めるというのですかね。
これ説明するのが難しくて誤解を生みやすいのであんまり文章化したくない部分ではあるのですが、「親が、子供が失敗しないように先回りしすぎると子供が健全に育つことができない」みたいなことが、魂の経験にもあって、本人が痛い思いして懲りるしかない、という部分は確かにあるんです。
だから、「あなたが心底『もう地獄にいるのは嫌だ』と思ってそこから這い上がってくるまで、待つしかない」、と伝えました。

ただ、私はこの体験、本当にこたえました。
だから、私はもう未熟な人にスピリチュアル系の話をするのをやめました。

数年前にも、私が海とかイルカが好きと聞きつけて話しかけてきてくれた女性がいて、友達になったのですが、彼女も危ないと思って深い話はしていません(笑)
女性は結構、敏感な体質と言うか、都会の雑踏にいると具合が悪くなるとか、海に入ると不思議と楽になる、とかそういうのを自覚している人がいて、彼女もそのタイプ。
だから、海とかイルカとかの話はするし、旅先でちょっと既視感を感じた、程度の会話はOKですが、それ以上の話は一切しません。
そっちの方向に向かって背中を押すと危ない人だなぁと感じたので。


あと、私が実際に会った「失敗しちゃったね」という人の例をいくつか。

私がうつ病からの回復途上で、いろいろ習い事とかお話会とかに参加していた時期に、
あるダンスのクラスに参加しました。
そのダンスの先生は『アミ 小さな宇宙人』を読んでいたく感動したようで、
『アミ』に書かれているような、この世界を良くする活動をしたいと思っているようでした。ま、言ってしまえば「スピリチュアルリーダーになりたい」ってやつですね。
(ちなみに『アミ』は名著で(3巻目だけちょっとおかしいけど)、私がかつて人に薦めていた鉄板本のうちの一つです(笑))

で、アミの本に書かれているマーク(ハートに羽が生えている図)を入れ墨したそうです。
入れ墨好きな人は一定数いるんで彫りたきゃ彫ればいいと思うし、
お気に入りの図柄がそれならそれでいいけど、
アミのマーク彫ったからと言って、アミが言わんとしていることを本当に理解したとか、そのメッセージをいつも心に抱いて生きるとかは、まったく別なことなのね。
ただアミに感動してマークを入れ墨したということをSNSにあげれば、「すご~い」という反応はあるだろうし、ダンスの生徒さんも「すごいですね」と言うとは思うよ(笑)

で、その先生のレッスンに通っていた当時、小林麻央さんが闘病中でした。
ダンスのクラスの生徒さんで、お子さんが麻央さんのお子さんと同じクラスの方がいたようで、ある時、ダンスの先生から、「今度の満月の夜に麻央さんが元気になるようにお祈りしましょう」みたいなメールが来ました。

あぁ~ちょっと勘弁してほしいなぁ~と思いました。
曰く、その生徒さんを通して千羽鶴送りたいとか打診したけど、先方はもうたくさんいただいているので結構です、ということで、代わりに、満月には力があるのでみんなで一斉にお祈りしましょう、ということでした。
いやね、病気で苦しんでいる方の回復を祈るのは全然いいんですよ。
ただ、「なんで有名人なの?」と思っちゃうのね。

小林麻央さんのご家族とか、ご親戚とか、ご友人とかが、「元気になるようにたくさんの人に祈ってもらいたい」という気持ちになるのは全然いいんですよ。当然のことです。
ただ、そのダンスの先生が「麻央さん」の回復を祈りたいのはなんでなんですかね。
いや、ダンスの先生は「私も同じ子供を持つ母親として」と書いていましたけどね。

私はそのメール来た時に、麻央さんが回復して、「皆様のおかげで元気になりました」と、千羽鶴やら贈り物に囲まれて微笑んでいる様子がテレビで放送されて、
誰にも知られることなく母親が亡くなったほかのお子さんが「どうしてこの人はみんなに応援してもらえたのに、僕のママは誰にも応援してもらえなかったんだろう」って気持ちになる図が思い浮かんじゃって、胃がぎぃ~って痛くなりました。
愛してくれるご家族がいればまだしも、孤独で、場合によっては十分な医療費を払える経済力もなく、病で亡くなる方は、本当にたくさんいるだろう、と思うのです。

麻央さんは、本当に見事な御最期だったと、伺っています。
私だったら弱さや卑怯さに負けて、とても到達できないであろうところへ達した方だと、いろいろな方のネットの記述で読みました。
そういうご立派さとは、まったく別の話として、
おそらくは、誰からも知られていない人の中に、そういう見事な御最期を遂げた方が、
たくさんいらっしゃるのだろう、と思います。
あるいは、充分な医療、充分な愛情を得ることができれば、その域に達することができたはずの方が、たくさんいらっしゃるのだろう、と私は思います。

だから「ご立派な麻央さんに何ていうことを言うんだ!」みたいな話とは別の話として、
頼むから、『アミ』を読んで感動した、というような人には、
せめて、「麻央さんのことで病気で苦しんでいる人がいることに気付いた。満月の力を借りて、麻央さんや、ほかの病気の方が元気になるようにお祈りしましょう」と言ってほしかったんですよ。
「麻央さんにはたくさんの人が千羽鶴を贈っているので、私達は、ほかの人たちに鶴を一羽ずつ贈りませんか」という話だったら、私は喜んで徹夜して100羽200羽折りますよ。
それに、遠くの他人を思うまでもなく、数十人いるダンスの生徒さんの中に、「家族が・親戚が・友人が、同じ病気で」という方、きっといたと思うんですよ、私は新入りだったんで知りませんが。

大変申し訳ないけど、その先生が元気になった麻央さんと海老蔵さんに囲まれている写真をネットにアップしたいんだなぁと、感じずにはいられませんでした。
元気になった姿として、ダンスのクラスで麻央さんが一緒に踊っている姿をイメージしても構いません、とか書いていたので(それが本音だよねってやつですが)。

私は、こういうことを見るのが、心底辛い。

スピリチュアルであるということは、「満月は祈りの力を大きくしてくれます~」とかそういうことを言うことではなく、「同じ子供を愛する一人の母親として」みたいなことを言うことでもなく、
ただ、「自分の成功のために、有名人の不幸を利用しようとしている自分に気付いて、立ち止まること」です。
誰にでもあるんですよ、なんとかこの壁を乗り越えて成功ルートに乗りたい、みたいに焦る時が。その時に、人の不幸でさえ、自分のチャンスと感じてしまうような、利己心が暴走するということが、誰にでもあるのです。
それが完全にない、ということは、普通の人間には難しいことなのだろうと私は思っています。マザーテレサとか、中村哲医師のようなレベルにならないと無理なんだと思います。
だから、そういう利己心があること、動いてしまうことをもって、非難はしません。
ただ、そういう利己心が自分の中にあることを知っていて、それが動き出した時に気付いて、立ち止まること。自制すること。
私はその努力をこそ、スピリチュアルであると認識しています。

まぁ、ほかにもいろいろ気になった点があったので、
そのダンスクラスは半年後の発表会の参加をもって退会しました。
うつ病でいろいろ自信をなくしていた時期だったので、ほかの皆さんと一緒に発表会に参加させてもらえたことで、ずいぶん心の回復につながりました。
すごく芸術的なセンスが高く、教え方も上手な先生だったので、
初心者の私でも、とても良い発表をすることができて、とても感謝しました。

で、その一年後くらいですかね、その先生とはフェイスブックでつながったままだったのですけど、辞めてから音沙汰なかったのに、突然「いいね!リクエスト」が送られてきて(笑)
ま、その年も発表会やるのでそれについて「いいね!」をするように、ということだったのですが。

本当にここまでくると笑うしかないっつーね。
一体『アミ』の何を読んだんでしょうね(笑)

フェイスブックであろうが何であろうが、
「何を良いと思うか」は、完全に私の心の自由なのね。
ましてや、「何を良いと思い、それを世間に向けて意思表示するかどうか」も、
完全に私の意思決定によるものなんですよ。

あなたは何が偉くて、私に「良いと思いなさい」、「良いと思ってそれを世間に示しなさい」と指図するんですかね(笑)

これがものすごい無礼で、相手を見下していることだと、わからない人はちょっとやばいのね(笑)
感情の自由という最低限の尊厳さえ、ナチュラルに踏みにじれるとか、どうなの(笑)

仮に大手のプロダクションがその先生に「うちでアーティストとしてデビューしませんか」と声をかけてきた、とか、
出版社が「本を出しませんか」と声をかけてきた、とか、
海老蔵さんが「麻央のことを応援してくださったそうで…」と声をかけてきたとして、
フェイスブックでもつながったとしてもさ、
定例の発表会があるという連絡を、いきなり「いいね!リクエスト」ではしないでしょ(笑)
「私はこういう考えでこういう活動をしていて、今度それについての発表会がありますので、もしよろしければご覧いただければ幸いです」的な文章で送るでしょう(笑)

なんで私には突然「いいね!リクエスト」をボーンと送ってくるのさ(笑)
「最近いかがですか」的なお伺いすらなく、リクエストだけ突然(笑)
まぁ個人で商売立ち上げて、ネットを使って営業している人はたくさんいるんで、
そういう人同士が、「お互いにいいね!しあって、営業協力しましょう」みたいなことしてるなら別にいいんだけど、私はその先生に「いいね!リクエスト送っていいか」の確認をされたことがないのね。

そもそも論で、私はレッスン代という形で彼女の生活費の一部を払った「客」なのね。
彼女が求めているのが、大手のナントカから華々しくデビューすること、とか、
セレブの仲間入りをすること、であったとしても、
現金収入をもたらすのは「一般人の客」なのね。

「セレブはチヤホヤするけど、あなたは一般人なので見下します」みたいな意思表示をしちゃダメでしょ。
スピリチュアル以前に、商売としても、人としても(笑)

日本の商業伝統で、七面倒くさい定型文がやたらめったらはびこっているのは、
こういう失敗をやらかさないためなんですよ。
本音は「私の商売に金を払いなさい」「私の商売の宣伝をしなさい(タダで)」であったとしても、そういうわれて金払う客はいないのね。
「あなたを大切に思っているので、私の提供する商品(サービス)が、あなたを幸せにすることを願って、ご案内します」という体をとるのさ。
島国で、評判落ちたら商売終わり、な環境で発達した文化だと勝手に思ってますけど。

フェイスブックとかさ、「アメリカという歴史の浅い国」の「若造」が作った、
幾重にも礼儀知らずのシステムなのさ(笑)
うかうか乗っかるなよ、そういうのに。
「いいね!リクエスト」というツールがあっても、「日本でこれ使うと多分ヤバいね」という判断が効くのが大人なんじゃね?と思います。
アム〇ェイみたいなネットワークビジネスとかさ、アメリカではどうか知らないけど、
日本社会には向いてないな、とか、あるでしょそういうの(笑)

態度に出さなかったので、私が「こいつクソだな」と思ってやめたのを知らないとしても、退会した人に発表会の宣伝するなら、「その後いかがですか?」から始まって、
「〇〇さんが退会して早一年ですね。今年も発表会があります。昨年〇〇さんと一緒のチームだった△△さんは、今年は上級クラスでの発表です。……」みたいな文章になりませんかね。
そういうメールもらったら「あの時腹立ててやめちゃったけど、お世話になった△△さんお元気かなぁ」とか思って、「ちょっと見に行こうかな(金払う)」とか、「見に行けないからせめて『いいね!』しとくか(宣伝する)」になりませんかね。
ま、私の場合ですけど(笑)
一度離れた顧客を再取得するために、一般企業がどういう営業かけてるかっつー話なのね、身も蓋もない言い方すると。

私も東日本大震災の時の海外の反応を見るまで、日本の「礼節」と言う文化がどういうものなのか理解できなかったのですが、
やたらと定型文とかはびこって、決まりごとがいっぱいあって、めんどくさいことこの上ないぐらいに思っていたのですが、
「相手を思いやる気持ち」「相手を大切に思う気持ち」を表すやり方が積み重なって、型になったものなんだなぁと思うようになりました(合っているかどうかはわかりませんが)。

その人が心の中で私のことをどう思っているかはその人の自由だけど、
「私はあなたを見下しています」というのを、わざわざ私に対して直接表明してほしくはなかったな(笑)

だからまぁ、「人類愛が」とか、「光が」とか言う前に、
そういう足元に転がっている先人の知恵というか、「あなたを蔑ろにはしません、大切に思っています」という意思表示のツールを、少し勉強して身につけたほうがいいんじゃね?と思います。
セレブじゃない人でも心から大切に思えるようになれれば、礼儀作法をわざわざ学ぶ必要すらないけど(笑)そもそも論で。

スピリチュアルに限らず、なんか「入門者」とか「初心者」がよくやる失敗だなとは思いますけどね。
「私はほかの人が知らないすごいことを知ったから、ほかの人より偉いんだ!!」みたいな思い違いは。
ただ、こういう土台のところで間違ったまま、「私は光の戦士です~」みたいな高揚感で突っ走っちゃったのが、安倍昭恵さんとかQアノンとかJアノンなのかなぁと思ったので、
敢えて強く書いてみました。
失敗しちゃった人の例何人が書くつもりだったんだけど、1人の人で長くなっちゃったのでやめました。

っていうか、ここまで長々書いてきて、今更だけど、
私が自分の信念としているものを「スピリチュアル」と表現することをあきらめればいいだけなのか?もしかして。
ネトウヨが「愛国」とか「愛国者」とかいう言葉を彼らのものにしてしまったがために、
本当に自分の国を愛して諸々を憂えてきた人々ではなく、
ただ差別をし弱いものを叩いて快感を得ることを目的としている卑怯者の屁理屈を表す言葉になってしまったように、
「スピリチュアル」という言葉も、私が「なんちゃってスピリチュアル」と呼ぶ人たちが、
現実逃避をして妄想の中で自分はすごいと思っていることを指す言葉であると、
「もうそうなっちゃっているんだから仕方ない」とあきらめて、
私はほかの言葉に乗り換えればいいんだろうか。
「霊性の向上」とかももうすでにヤバい言葉になっていそうだし、
「精神の修練」とかだと朝から鉢巻して井戸水かぶってそうだし、
なんか、適切な表現ありますかね。
ちょっと検討してみます。

2021年1月31日日曜日

すげぇなオタマトーン

日本は日々難しい状況が続いていて、気がふさぐ毎日ですが、
先日ネット上ではちょっとおもしろいことがありましたね。

ご存知の方も多いかと思いますが、
ゴット・タレント(Got Talent)のスペイン版、
明和電機さんのオタマトーンで
プッチーニの『誰も寝てはならぬ(Nessun dorma)』を
演奏した動画がアップされていました。

オタマトーンっておもちゃじゃなかったっけ?と思っていたのですが、
すげー本当にオペラ歌手が歌っているような演奏でびっくり。

スペイン版ゴット・タレント

日本語訳つき 【ジェフの翻訳チャンネル】

元気が出ない時に何回となく見ています(笑)

内容については、すでにいろんな方がいろんな場所でおもしろいコメントされてると思うので割愛しますが、私が個人的にツボった場面だけ、ご紹介させていただこうかな。

審査員で、サイモン・コーウェルに当たるリスト・メジデ(スペイン語の発音だとメヒデ)さんに詰め寄るほかの審査員二人。



なんですかねぇ、この絵に描いたような美男美女が
腕組みして「どうよ」「どうなの」っつー煽り顔してる絵面(笑)

なんか映画の1シーンか盛りすぎのコマーシャルみたい。
トムとジェリーとかでもこんな絵面見たことあるような気がする。

っていうか、欧米人ってリアルでこういう顔(と仕草)するんですね(笑)
日本だと「マンガの中にしかないリアクション」ってあるじゃないですか。
「てへぺろ」とか「ズッコケる」とか(『日本人の知らない日本語』, 著:蛇蔵&海野凪子, KADOKAWA, 2009 が初出だと認識しています。違ったらごめんなさい)。

あと、この気難し屋リスト・メジデ氏が舞台でオタマトーンを試す場面。
司会者が大仰に「マエストロ、どうぞ(Adelante, maestro.)」と言っています。
オペラとかクラシック音楽好きな人はこの言い回し聞くことあるかと思いますが、
普通、指揮者とか大家が登場する場面です。
それに続く絵面がこれ。


いや、まぁ、オタマトーンでNessun dormaっつーのがそもそもシュールすぎるので、
その後にどんなシュールな場面が続こうと、
もはやどーでもいいっつう域ではありますけどね。

っていうか、オタマトーンの演奏で感動のあまり涙が止まらないとか、
ティッシュ俺にもちょーだいとか、それはラテンの魂が成せるものなの?
私だったら椅子から転げ落ちて笑う以外のリアクションはありえないんだけど。
それかドン引き。「え、オタマトーン???…すげー」みたいな。
なんでスタンディングオベーションになってるの???

ただ、私は外国の人が「日本人おかしい」とか言うの、
だいたいはこういうパターンで、
日本ではおもちゃであるオタマトーンでオペラの名曲とか演奏してくれちゃって、
騒ぎを大きくして「ほら、日本人おかしい」みたいなことしてるの、
あんたたち外国人じゃね?と思っていたんだけど、
オタマトーンつながりの動画がぞろぞろ出てきて、
日本にもなんかすごいガチオタマ勢がいることを知りました。
以下私が気に入ったもの↓




プロのバイオリニストの方何人かいらっしゃいました。
音大生でオタマトーン用の曲作曲した方とかもいました。
オタマの音色に合った良い曲でした。
あと、オペラに合うだけあって演歌にも合いますね、オタマの音は。

日本のガチオタマ勢の皆様は、オタマトーンを三味線の角度で持つ方が多いですね。
オタマの「歌ってる感」が出るのは、スペイン版みたいに縦持ちですが。

ちょっとね、オタマトーン買っちゃおうかなみたいな気持ちになっていたのですが、
このガチオタマ勢の皆様の演奏を見て、
「私に入れる世界じゃない」と思ってやめました(笑)

2021年1月11日月曜日

解脱とか、終わりなき競争とか

 朝日新聞の1月8日(金)朝刊、鷲田清一氏による『折々のことば』、
台湾の若きIT大臣、オードリー・タン氏の言葉が紹介されていました。

以下、紙面より引用。


ルートが固定されているから、勝者と敗者が存在するんです。
オードリー・タン

学校ではみな同じコースで競争させられるが、実際の社会ではそんな勝ち負けで各人の能力が判定されるわけではない ~(中略)~
「命の赴く方向」は人それぞれ。人は私を「天才」と呼ぶが、それは同じ一つの判定基準という幻想から人より先に醒めたということにすぎないと。

 

出典は、アイリス・チュウ/鄭仲嵐の『AU オードリー・タン 天才IT相7つの顔』とのこと。

 いや、仏陀の御言葉ですかね。
『人は私を「天才」と呼ぶが、それは同じ一つの判定基準という幻想から人より先に醒めたということにすぎない』とか。
目覚めし者ですわ。

宮本武蔵も自身の剣の奥義について、これは誰にでもできることである、と書いていると読んだことがあるのですが、これは出典確認してないのでちょっと置いておくにしても、
先のオードリー・タン氏の言葉には、あ~やっぱりそうなんだなぁ~という感慨を抱きました。

オードリー・タン氏の本買いたいけど、まだデカくて高いだろうなぁ(笑)
私は文庫になってから買いたい派なんで(本棚常にいっぱい)。


一方、昨年私が衝動買いした本で、すげぇなこの本、と思ったのが、
『あやうく一生懸命生きるところだった』
 文・イラスト:ハ・ワン 訳:岡崎暢子,ダイヤモンド社,2020年

以下引用(P.9)


頑張って!(ハイハイ、いつも頑張っていますよ)
ベストを尽くせ!(すでにベストなんですが……)
我慢しろ!(ずっと我慢してきましたけど……)

  (中略)

幸せになるどころか、どんどん不幸になっている気がするのは気のせいだろうか?


なんか身に覚えがありすぎますね(笑)

すごいなと思うのは、この著者がそう感じて自分からドロップアウトしたこと。
私もず~っとがんばれがんばれでがんばってきたけど、うつ病になって倒れるとかで、
主体的にドロップアウトできたためしがなかったなぁ。

この本によれば、韓国では2000年頃から、「お金持ちになってください」という言葉があいさつ代わりに使われるほど、みんなが「頑張ればお金持ちになれる」と思ってそれを目指しているのだとか。

景気が低迷というか下降線の一途をたどって30年の日本とは違い、韓国はどんどん景気がよくなって、活気にあふれているんだなぁといううらやましい気持ちと、
一方で、お金持ちを目指して熾烈な競争にまい進することのゆがみを感じていた、かつての私自身の記憶とがないまぜになって、複雑な気持ちになりました。

昨年メルカリで、すごくきれいなカッティングのシンプルな水着が出ていましてね、
ずいぶんお安かったので購入したんです。
イタリアのブランドで、最高級品ってわけじゃないけど、カッティングの美しさとか、バストを美しく見せるパッドの仕込み方とか、さすがだなぁと思ったのです。
未使用品で韓国語のタグがついていましてね、気に入ったので検索してみたら、
日本ではバッグの販売しかしていない。
でも韓国では水着含めアパレルも販売しているということなのでしょう。
それだけの購買力が韓国にはありるけど、日本では売れない、ということです。
ネトウヨの人たちとか、ずいぶん変な思い違いをしている日本人はいるけど、
このくらい経済規模が離れちゃっているんだなぁと思いました。

ただ、なんというか、かつて日本にもこんな時期があり、その時の雰囲気ってちょっと覚えているんですよ。

どこのCMだか忘れちゃいましたが、メールに動画を添付して送れる携帯かPCかなんかのCMだったと思うのです。
ママ友から、赤ちゃんが立った瞬間の動画が送られてきたのを見て、
「うちの子だって~!」と言って赤ちゃんが立ちあがった動画を撮って送り返す、
というのがありました。
機能が進化したことはいいし、赤ちゃんも可愛いけどさ、
最新の機器だけじゃなく、子供の成長まで、競争の道具にされること、
それをさも当たり前、みんながそうしている、みんながそれを望んでいることとして、
テレビで放送される気持ち悪さ。
このCMによってこの機器の売り上げが上がると考える売り手と、
このCMを見て買う購買側。
どっちも気持ち悪くないですかね。
ま、その後延々、お受験だの就職だの縁談だの出世だのマイホームだのと続くわけですよ、終わりなき競争が。

近年見て気持ちわりぃと思ったCMは、どこのだか忘れましたが、
なんかハイソな夫婦が娘さん連れて歩いていて、母親が「今夜何食べたい?」と聞くと、
娘さんが「マルゲリーター!!」と答えるというもの。
さすがに笑っちゃいましたよ。
マルゲリータとか、チーズとバジルとトマトソースしか載ってないピザ、
大人が食べたって物足りないのに、育ち盛りの子供が夕飯に食べたがるかっつーの!
イタリア人みたいにピザの他にメインになる肉料理も食べるならマルゲリータでいいだろうけど、日本人そういう食べかたしないじゃん(笑)
マルゲリータしか食わんじゃん。
ピザだのパスタだのって、炊き込みご飯相当で、子供が食べたがるメインって別だよね。
でも、「ハンバーグ!」とか「から揚げ!」とかありきたりなこと言わない(間違っても「サンマ!」とか言わない)、こじゃれたイタリアンを食べたいという子供がいる、
普段からオサレな生活をしているハイソな私達、を目指している人たちを狙ったCMなんだろうなぁと思いました。

まぁ切りがないですわ、こういうの。

で、子供は親の期待に応えようとして一生懸命頑張って、燃え尽きて、どこかの段階で倒れる、という一連のコースをたどった日本の社会と、
景気が良くて前向きで、希望があるのは素敵だけど、なんかかつての日本と同じ兆候が見えなくもない今の韓国と、なんともモヤモヤした気持ちになりました。
まぁできたらかつての日本の轍は踏んでほしくないし、うまいやり方を見つけて、うまく行ってほしいなぁと思います。

で、この本の著者ハ・ワンさんは、「もう無理!」とこの終わりなき競争から降りた人。
全編ゆる~くて(イラストも)、ダメダメ感にあふれているのだけど、
「みんな一体、何に向かって頑張っているのさ?」と見抜いて、
「じゃあほかにどんな生き方があるんだろう?」と自分で見出そうとしているすごい人
(でもがんばらない)。

中でもすごいなと思ったのが、
『「仕組まれた欲求」に惑わされるな』の項。
男性向けの雑誌を読んでいるとなんかモヤモヤすることについての考察。
以下引用。


ガチガチに決めたくない日の、無造作に羽織れるブラックカーディガン
120万ウォン(約12万円)

ああ、僕は翻弄されている。100万ウォン以上するカーディガンを、本当に無造作に羽織れるというのか?
その前に、カーディガンに100万ウォンも出すやつがいるって本当か?
(P.248)


そうだ、雑誌の目的は読者に挫折感を与えることだ。
そしてその挫折感の正体は、高度に計算されたマーケティング戦略である。
多くの人がブランド品への欲望を抱く理由は、簡単に購入できないからだ。そんな挫折感がブランド品の価値を高める。
挫折感は、みなの欲望をいっそう煽り、ようやくそれを買えた人たちは、挫折感から抜け出せた喜びを享受する。と同時に、まだ入手できていない人たちにまた別の挫折感を抱かせ、持てるものはほんの一瞬の優越感を味わう。
しかし、そんな喜びもすぐに消えてしまう。挫折感は休みなく降りそそぐからだ。
金持ちにだって”挫折マーケティング”は有効だ。彼らにとって大切なのは、自分の挫折ではない。他人の挫折だ。高価すぎて誰も買えないという事実だけでも、彼らは財布を開く。
ある学者もこう言っていた。富の真の目的は「誇示」だと。
(p.250)

 
この作られた競争に気付き、降りること。

今私が気になっているのは、
この『挫折マーケティング』、要するに優越感中毒なんだけどさ、
多くの人にとって経済的に豊かになるのが難しいと感じられる今の日本では、
ネット上のマウンティング競争になっているように感じるんだよね。
特にネトウヨというか、自民公明維新支持者、PCR抑制論者、アンチフェミ、レイシストのツイートって、支離滅裂なんだけど、とにかくその場で相手を黙らせて「自分が勝った」と感じられさえすればいい、という印象を受けます。
すべての人の健康とか、尊厳をもった生活とか、科学も文化も経済も含めた全体的な発展とか、公正さとか正義とか倫理とかもぜ~んぶぜ~んぶ投げ捨てて、
今この一瞬、相手を黙らせて自分が勝ったと感じられればいい、その1点だけ。

それはただの中毒なので、一瞬の快感以外に、誰も幸せになりません。
正直言って国を滅ぼします。

ちょっと話が重くなりました。
大事なことなので、また違うタイトルで書きたいと思いますが。

で、この本、著者ハ・ワンさんのダメダメ感あふれる文章もイラストも秀逸なのですが、
翻訳がすごい!
日本語翻訳 岡崎暢子さんですが、この方はきっと本当に韓国が好きで、韓国語も大好きなんでしょうねぇ。
そして、日本語の語学力が本当に素晴らしい。
こんなに素晴らしい翻訳、久しぶりに読みました。
原著がどんなに良くても、翻訳だめだと全部だめになります。
ここ数年、そういう本が無駄に量産されていて、新刊本を読むことに疲れ切っていました。
翻訳についてもいろいろ書きたかったのですが、もうだいぶ長くなっちゃったので、
翻訳や日本語の取り扱いについては、また改めて書きたいと思います。

2021年1月9日土曜日

虹色モヘアのプルオーバー【商品のご案内】

先日、オンラインショップを開設致しました。
何分私が一人で細々と作ったものをアップしているだけなので、
今後も、「豊富な商品展開!」になることは
決してないだろうと思われますが、
お気に召したものがありましたら、
ご縁をいただければ幸いです。

というわけで、商品のご案内といいますか、
作った側の勝手な思い入れを
語らせていただきます。


【虹色モヘアのプルオーバー】


優しいパステルカラーのグラデーションと
ふわふわのモヘアの質感を生かすよう、
シンプルで愛らしい模様で編みました。


これ実は、編み物学校の課題で、
フレンチスリーブのプルオーバーとして作ったものの
アレンジです。

グラデーションカラーのモヘア糸と、地になる糸を
引きそろえて編んでいます。

当時、学校で課題作りのための試し編みをしていたところ、
担任の先生が「夢々しいもの編んでるね!」と感嘆符つきで仰いました。
その後にももう1回言われたので、
その先生にとっては本当に「夢々しい」ものなんだろうな、と
妙な感慨を受けました。

まぁ「夢々しい(ゆめゆめしい)」などという形容詞自体
初めて聞きましたが。

出来上がったフレンチスリーブ・プルを見ていただいたときも、
「邪気がない。。私は邪気にまみれているけど、
(このニットには)邪気がない。」と言われました(笑)
いや、私も邪気にまみれてますけどね。
この歳まで生きていればいろいろありますんでね(笑)

*******

で、私はこの虹色のグラデーション糸大そう気に入りまして、
こうやって作品に仕上げて販売する以外にも、
引きそろえ用の地糸やオリジナルの編み図と合わせて、
オリジナルキットの販売もしようかなぁなんて考えていたのです。

色糸と地糸、私はこの組み合わせがベストだと思っているのですが、
それぞれ違うメーカーの製品です。

まぁこういう複数のメーカーを跨いだ作品だのキットだのっていうのは、
メーカーの依頼で作品を作る一流のプロの先生方は逆にやりにくくて、
私のような一介の編み物好きの方が、自分の裁量で商品化できるわけです。

とかなんとか思っていて、昨年ようやく時間ができたので、
取引をいただいている問屋さんに糸注文したら、
グラデーション糸のこの色番は、廃番になっていました。

うひょ~と思って慌てて知っている範囲で探したところ、
某手芸屋さんだけ少~し残っていたので、全部買い占めました
ま、あくまで「私の知っている範囲」なので、
どっかからどっさり出てくるかもしれませんが。
(メーカーさんにはないみたいですね、問屋さんの感じだと。)

某手芸屋さんで対応してくださった店員さんも、
「(このシリーズの中で)これが一番かわいい色なのに、
 なんでこの色が廃番になるんでしょうね」って仰っていました。
「ほかのどす黒い色(!)残ってるのに」とも(笑)
私もそう思いますよ。

しばらく前から、いろんな場所でこの色だけ品薄だな~とは思っていて、
「かわいくて人気だから、在庫足りなくなってるのかな」くらいに思ってました。

私がレストランとかで編んでいると(いつも独り飯なので)、
フレンドリーな店員さんは「すっごくかわいい色ですね」って話しかけてくださいます
(タイ料理、創作フレンチ、創作お番菜とかオールジャンルですわ(笑))。
こんなにいろんな人が「かわいい」って言ってくれるものが、なんで廃番になるん???
オトナの事情は私にはわかりません。

ま、ともかく、昨年買い占めた分と、もともと少~し持っていた分と合わせて、
あと数着分あるので、帽子とかマフラーとか小物がいいのか、
プルオーバーがいいのか、様子を見ながら大切に作っていきたいと思います。

*******

学校の課題作品からアレンジするにあたって、
肩やダーツなどの調整を入れて、
着心地やフィット感を向上させています。

いつものように(笑)、
トルソーにズボン履かせるのが難しいんでスカートと合わせていますが、
これもプルのテイストが甘いので、白いズボンの方が合います。

現在、フレンチスリーブのバージョンも仕上げ中で、
こちらも近日中にアップしたいと思います。
(フレンチスリーブ版も調整入っています。)

2021年1月1日金曜日

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。

みんなが生きて行く、
みんなで生きて行く社会のために、
ひとつひとつのことをやっていこう、と、
今、改めて思います。

ひとりひとりの人が、
大切にされる社会にするために。

間違っているものには間違っていると言う。
そして、大きく報道されることがなくても、
正しいことをコツコツとやっている人を見出して、
自分も少しでもそのようにあれるように
努めていきたいと思います。

みなさまの健康と安全をお祈りし、
新年のご挨拶とさせていただきます。

*******

オンラインショップを開設いたしました。
ブログ同様、細々と続けていきたいと思っております。
ご縁をいただけましたら幸いです。


2020年12月13日日曜日

水やりさん

 NHKの5分くらいのミニ番組で、
「もういちど、日本」というのがあります。
「新日本風土記」という番組の関連番組なんですが、
日本各地の、いろいろな風土や生活様式なんかを、
紹介しているものです。

私はこの番組が大好きで、
一人暮らしをしていた時に、自動で録画しておいて、
洗濯物たたむ時なんかにちょこちょこ観ていました。

で、観たらすぐ消しちゃっていたので録画残っておらず、
NHKのサイトで少し調べても見つけ損ねたのですが、
すごく心に残っているエピソードがあります。

どこか山間の集落で、外に対しても開かれておらず、
人口も日照も水源も、いろいろ制限があるような土地で、
今も、「水やりさん」という役割の人がいる、というお話でした。

この集落では、川から水を引いてきて
水田や畑を作ることを生業としているわけですが、
その水が、すべての家に平等にいきわたるように、
用水路の弁なんかを使って水の流れを調整するのが、
水やりさんの仕事です。

水やりさんは、「水が平等にいきわたっているかどうか」を確認するために、
日々、田んぼや畑を見て回って、水不足で育ちが悪いところがあれば、
そこに水が多く流れるように調整をします。

この水やりさんは、集落の信頼で任命されているとのことで、
この信頼を裏切ることがないよう、責任をもって仕事をしています。

これね、これこそが「政治」の原点だと、私は思います。

山間の集落で、外部との交流も少なく、
この集落という共同体だけが生命の場である、
という状況だったのだろうと思います。

その閉鎖的な空間で、過去に何かがあったのか、
あるいは、もともと賢く心優しい人々の多い地域だったのかは
わかりませんが、
どこかの段階で、力が強く、川の近くに住んでいる人だけが
豊かさを享受できる仕組みでは、
共同体が崩壊する、ということを理解したのでしょう。

洋の東西を問わず、過去の物語を読んでみると、
お金持ちと貧乏人がいる未熟な共同体で、
多くの悲劇が生じています。
お金持ちの家に生まれた若者が、貧しい家の娘に恋をした
(逆もまたしかり)、とか。

川の近くに住んでいる有力者だけが豊かでも、
他の弱者がどんどん倒れて行けば、
その共同体は衰退していきます。
金持ちの家1軒だけが残ったって、
配偶者が生まれる家がなくなれば一代で終わりだよねって話です。

長く続いている愚劣を極めた自民党政権の、
現総理である菅さんは、
「自助」とか言ってくれちゃってますけどね、
「自助」ってのは、この水やりさんが平等に各家に水を流してくれた後、
自分で畑や水田で作物を作ることを言うんです。
いくら水やりさんが水流してくれても、
理由もなく(体調とか家の事情とか)農作業サボったなら、
自分でもっとがんばらないとって話にもなるだろうけど、
そもそも金持ちの家が水源独占して、
農業に必要な水が足りなかったら、がんばっても作物出来ないでしょう。
それは「貧乏な人は自助が足りない」って話じゃないですよ。
ネットでよく言われる「自己責任」ですらないですよ。

付け足すなら、水が十分流れてきていても、
農作業ができない状態だった場合、
隣近所の人たちが、どうしたのか、病気なのかなんか事情があるのか、と
助け船を出すのが「共助」だと思いますよ。

言うまでもないことですが、
現在の社会での水は、お金です。
自助しようにも、生活して働くための最低限のお金がいきわたっていなければ、
どんだけ働いたって生活できませんよ。
人間は生き物なのだから、
なんかのはずみで病気になったり、
事故に合ってケガしたりすることはあるでしょう。
でも自転車操業で毎日ぎりぎりの生活しかできない状況だったら、
そういう時、崩壊するでしょ当たり前に。

私はこの人生でお金持ちだったためしがないので、
10年周期くらいで(笑)、
経済とかお金持ちマインド的なもの勉強したくなる時が来るんですけど(笑)
前回その周期が来た時に、何かで紹介されて
和田裕美さんの『幸せなお金持ちになる すごいお金。』という本を
読みましてね。
図書館で借りて読んだので、手元にないのですが、
ちょっとおもしろい表現があったのが印象に残っています。

この著者がお金持ちになる前に
ある世界的な大金持ちの方と仕事で接する機会があり、
その人から「お金持ちというもの」のエッセンスを学んだようです。
その大金持ちの方は代々お金持ちで、
本人はお金に執着がなく、着ているものとかもどうでもいいようです。
で、和田さんの観察眼なのですかね、
代々お金持ちで、いつもお金の流れの近くにて、
そのお金の流れを自分のところに引き込む術を知っている家系、
というような表現をされていましてね。

先の水やりさんの番組観たのと、
この本読んだのとどっちが先だったか忘れましたが、
あ~、同じ話の、同じ表現だなぁと思ったのです。
まぁ世界的な大金持ち、というのは、
共同体としての世界が大きすぎて、
全体のことが目に入らないんだろうなぁと思います。
で、水やりさんという仕組みを作った集落は、
共同体としては小さすぎるので、
1軒の家が水を独占したらどういう悲劇が起こるかを、
体験から学んでしまったのだろうなぁと思います。

和田さんの本だけ読むとね、
確かにお金の流れを動かす術を知っていて、
代々大金持ちで、
自分もお金に執着を持ったことがない(だから安物の服着ていても平気)、
みたいな生き方、ちょっと素敵かも、みたいな気持ちになりますけどね(笑)

お金持ちの家系に生まれた本人に悪意はなくても、
少なくとも、水やりさんの仕組みを作って現代まで維持した集落の方たちより、
はるかに未熟な精神性なんだなぁと感じます。
それは、このお金持ちの方だけでなく、
今の新自由主義全盛の世の中すべてに言えることですが。


以下の話は、直接お金に関することではありませんが、
共同体というものについて、
知人の行動から私が感じたことを一つ、お話ししたいと思います。

知人で一人、
小学生の娘さんを溺愛している男性がいましてね。
娘さんの弟にあたる息子さんもいるのですが、
息子さんとはあんまりご縁が深くないのか、
娘さんほどの愛情は抱いていない感じの人がいました。

すごく忙しくしている人なので、
家族に対しても十分に気を配ることができない部分もあるのかな、
とは思っていたのですが、
娘さんだけを連れて旅行に行ったりしていたのです。

で、複数の理由はあったのでしょうが
(奥さんに対してもかなりやらかしているのを、
数年前から感じていました)、
結局彼の家庭は壊れました。

彼が奥さんに追い出される形で、
単身で別居になったところまでは見ていました。
(その人は私に対しても相当やらかしたので、
私も関係性が途切れました。)
もう数年前のことなので、その後はわかりませんが。

私は彼の奥さんとは会ったこともないけど、
彼の言動から、いくつかのことは感じるところがありました。

彼は「無条件の愛」という表現をするほど娘さんを愛していて、
娘さんと自分の楽しく幸せな時間のことしか考えられなかった。

でも、奥さんからしてみれば、
娘さんも息子さんも、同じ大切な子供。
その息子さんから「どうしてお姉ちゃんだけお父さんと旅行に行けて、
僕は連れて行ってもらえないの?」と問われたら、
母親である奥さんは、どうしたらいいのでしょうね。

これが、「えこひいき」をしていはいけない理由ですよ。
愛しているのが娘だけであっても、
息子は娘の弟であり、妻は娘の母親です。
弟も、母親も、娘にとっては大切で必要な、愛する家族です。
たとえ、息子が娘ほどかわいくない、
妻への気持ちも冷めてしまった状態であったとしても、
娘にとって、父親だけでなく、母親も弟も幸せでなければ、
幸せではない。
それだけのことがわからなかった。

自分と娘との幸せな時間を維持するためにも、
娘の大切で必要な人である母親と弟も幸せでなければならない。
母親と弟が不幸であれば、娘との関係が引き裂かれるということが、
理解できなかった。

で、私は子供の頃から演劇をやっていて、
憑依型の役者だったので、
体験的にスピリチュアルにならざるを得なかったのですが、
スピリチュアル系の人が「世界平和」みたいなことを言うのって
(まぁ、なんちゃってスピリチュアルが山ほどいるのでアレですけどもね)、
別に頭の中がお花畑だからじゃなくて、
こういうのを体験せずとも理解しているからなんです。

自分と愛する人(もの)との「一番利己的で一番小さな幸せ」でさえ、
自分とその人(もの)以外とつながっていて、
そのつながっている先も幸せでないと、
維持できないんですよ。

彼の話で言えば、彼の望みは自分と娘の幸せだけなんだけど、
そのためには、最低限、娘の母親と弟も幸せでないといけない、みたいな。

で、母親と弟もまたそれぞれのつながりがあって、
じゃぁ食べるものは、住む場所は、お金(社会の経済状態)は、政治は…
という風に、「自分の小さな利己的な幸せ」が、周囲の幸せに依存していることを、
体験しなくても直感的にわかっている、ということ。

娘に対する愛情ほどではなくても、
「娘の大事な人だから」という理由からでも、
妻や息子に対して、愛情をもって大事にする必要があるということ。

「世界平和」って頭がお花畑の人が考える空想的な夢物語じゃなくて、
本当に利己的なものなんですよ。
みんなが幸せじゃないと、自分も幸せでなんかいられないということを、
肌感覚としてわかっている、ということなんです。

この知人であった男性に
私のスピリチュアル的な部分を全否定されたっていうのもあって、
こういう書き方になっちゃったかな、とは思いますけどね(笑)

もう一人、スピリチュアル全否定の人で、
私が考える「めんどくさいマン」、
「西のサイモン・コーウェル」に対して
「東の菅野完」をあげておきますが(笑)、
森友事件の時から菅野さんのツイッターずっと見ていました。

菅野さんのツイッター何度も何度も凍結になっていて、
当該のツイートを魚拓していなかったのですが、
菅野さんも、共同体の幸せを願うのはごくごく利己的な理由からしか発生しない、
という意味のことを書いていました。
(著述家で言葉にうるさい方なので、なんか表現の間違い指摘されたらどうしよう…。
私のこんなマイナーな編み物ブログなんか読むことはないとは思うけど。。)

いや、まぁ菅野完さんがスピリチュアル全否定するのは、
安倍昭恵さんみたいな「なんちゃってスピリチュアル」とか、
カルト化する新興宗教の危険性を危惧してのことで、
それは至極真っ当であるのだけどさ、
「スピリチュアル」って本来は「人として真っ当に生きる」以外のことではないので、
安倍昭恵さんとかカルト宗教をもって「スピリチュアル」全体を否定するのは、
私にとってはちょっといただけない(笑)
稲田朋美さんだの橋本徹さんだの吉村洋文さんだのをもって
「弁護士」全体を否定するようなものでしょ(笑)
宇都宮健児さんのような「弁護士」もいて、
宇都宮さんみたいな方のほうが「弁護士」として正しいんだからさ(笑)

むしろ、私は菅野完さんのこのツイートこそが、
スピリチュアルどまんなかだと思いますよ。

2017.5.3のツイートのようです。
感動のあまりその場で魚拓したので、
日付が表示されていませんが。

菅野完さんによって森友事件が世の中の注目を集め、
安倍政権を退陣に追い込める可能性が見えてきた、というタイミングのツイートです。
わが身の危険を顧みず、世の中の幸せのために巨悪に立ち向かう正義の徒が、
スピリチュアルでなくて何なのさ。

ちょっと長くなってしまいましたね。
菅野完さんのこととか、
なんちゃってスピリチュアルのこととか、
まだまだ書きたいことはあるのですが、
菅野完さんの「めんどくさいマン」っぷりだけ書いて、
いったん終わりにしましょう。

いやね、サイモン・コーウェルに劣らず
口が悪くて大そう露悪趣味な方なんですけども、
石垣のりこ参議院議員の初質問の前日には、
直前まで地元で立ち働いていたから準備が十分ではないのではないかと
心配してオタオタし(ご当人はものともせず、のりこ節がさく裂していたようですが)、
山本太郎さんが道を誤ったと言っては泣き、
もう、なんつーか、あっちこっち痒くなってかきむしりたくなるような
ツンデレっぷり。

「めんどくさいお人やな」ってこういう時に使う言葉なんでしょうね。