2021年10月28日木曜日

衆議院選挙 期日前投票に行ってきました

先日、衆議院選挙の期日前投票に行ってきました。

ブログの過去記事で、ずっと「比例は共産党」と書き続けていたのですが、
「東京8区」の一件以降、ちょっと心が動きました。
幸い、私が投票できる選挙区は共産党の候補者がいるので、
候補者名は共産党候補者、比例はれいわ新選組にしました。

もともと山本太郎さんは、原発再稼働反対運動以降ずっと応援していたのですが、
ここのところの若干のガタガタ、どうしたものかなぁと思っていました。
が、「東京8区」の一件で、
「山本太郎さんはやっぱり山本太郎さんだった」と改めて思い、
この人の声がもっと大きく世の中に届いてほしいと思いました。

でも、共産党も躍進してほしい。

私がよく眺めている政治系のツイッター発信者の方々は、
「共産党とれいわメインで野党共闘してほしい」という方多いです。
(私個人的には社民もですが。)
あと「比例2枚ほしい」とか。同じくです(笑)

菅直人氏とか、森裕子氏とか、心から応援している議員さん、
立憲民主党にいることは間違いないんですが、
枝野さん、なんか大久保利通状態になってませんかね。

今回はしょうがないですよ、至上命題が「政権交代」ですから。
自民党を政権の座から追いやるのが、今一番やらにゃならんことなので。
で、識者の方々が言うように、
次の参院選でも現野党圧勝・自民党大敗に追い込まないと意味がないので、
そこまで立憲民主党を旗印にせにゃならんかもしれんのもわかっとりますよ。

でも、心がないですね、あまりにも。
ただまぁ私はせいぜいツイッターで流れてくるレベルの情報しか見えていないので、
実際のところはわかりません。
連合を煙に巻くために、煮え切らない態度をしている可能性もあるかもしれません。

全否定はしませんが、
それでも私は、ストレートに善を語る「れいわ」と「共産」を、ストレートに推します。
「社民」もですね。

私は「強いものが強さで押す社会」が嫌いです。
そういう社会では生きていけません。
心が壊れてしまいます。

とにかく今は、自民党を政権の座から引きずり下ろすこと。
そのための立憲を中心にした野党共闘だけど、
その中でも「共産」「れいわ」「社民」の票を増やしていく。
枝野氏の心中を実際に知ることは私にはできないけど、
連合に対する顔向けがどうだろうと、
「共産」「れいわ」「社民」を無視することはできない、
と世の中が認識するように。

皆様もそれぞれのお考えを持って、悔いのない投票をなさってください。

私ごときが名乗っていいのかわからないけど、
いや、たぶん、私ごときが名乗っていいんだな。
誰にでも、どんな状態の人にでも、人権があるのだから。
日本の政治の誤りによって、選挙権がない状態の人もいる。
でも今、選挙権がある私は、自分の良心に従った投票をし、他の人たちにも呼び掛ける。
それは、日本に住んでいて選挙権を持っている私がやるべきことだし、
自分を卑下して口を閉じてはいけない。

投票しましょう。

2021年10月14日木曜日

まかないサラダな生活を考える

 もうずいぶん前になりますが、ファミレスのデ〇ーズで
「シェフコブサラダ」というメニューがありました(今もあるかも)。
その後「コブ料理長のまかないサラダ」という名前に変わりました。
デ〇ーズ以外の一般では「コブサラダ」という名前で通っているかもしれません。
レストランの従業員用の食事(まかない)としてシェフのコブ氏が作った
ありあわせのサラダがすごく美味しくて評判になり、
はるばる海を越えて日本でも食べられるようになりました、みたいな感じですかね。

初めてこのサラダをデ〇ーズで食べた時は「こんなに美味しいものがあるのか」と
感動しました。
その後ずいぶん長いこと、デ〇ーズではこの「まかないサラダ」とパンという食べ方をしていました。

青野菜に、ゆで卵や炒めたベーコン、アボカド、エビ、豆類、トルティーヤチップスなんかが載っていて、濃いめのソースでいただくサラダ。
見た目にも彩り豊かで、いろんな食材がたっぷり入って、美味しくて健康的。
言われてみれば確かに、レストランの厨房で冷蔵庫に入っているありあわせのものをザクザク盛って、ソースでおいしくまとめました、という感じ。
私が通っていた江上料理学院でもレシピを学びました。その時の先生も、冷蔵庫のありあわせでサラダ作って、「〇〇(自分の名前)のまかないサラダ」にしていいんですよ、と冗談半分に仰っていました。
まぁでも考え方としては、そういうことです。

で、この「まかない(従業員用の食事)」に関しては、江上料理学院で学んでいる間におもしろいことが二つありました。

江上料理学院の副院長が仰るには、「和洋中」の料理の中で一番食材を無駄にしない食べ方をするのは、中華料理だそうです。
で、以前、その中華の一流ホテルの料理長をしていた方が、江上の先生はじめ料理関係者の方を招いて、おもしろいテーマのお食事会を開催したんだそうです。
「私たちは普段こういうものを食べているんですよ」と言って、「一流中華レストランでのまかない」を、披露してくださったそうです。
例えば、「北京ダックの舌を集めて作った料理」とか。
まぁ高級な中華レストランでは、北京ダックたくさん作るんでしょうし、でもお客様は舌なんか存在すら意識しないでしょうしねぇ……。アヒルの舌がどんな味かなんて考えたこともありませんでしたが、牛タンとかめちゃくちゃ美味しいですし、中華料理の技をもってすれば、きっととんでもなく美味しいものに仕上がるのでしょう。
他にもいろいろ聞いたんですけど、情報量とショックが大きくてほとんど忘れてしまいました。

また、江上料理学院でも、従業員用のまかない料理を作っているのですが、
料理の授業で出る野菜くずなども、物によってはスタッフさんが「回収します」と言って集めていました。
例えば、人参や玉ねぎの皮や根っこのところなどは、西洋出汁を煮出すために使います(これは、まかない用というより授業で生徒が使う出汁でもあります)。
芹を使った料理の時は、根っこのところを「芹鍋に」と言って回収していました。芹の生産地では、むしろこの根っこのところが一番美味しいというそうですが。

で、私が一番ショックを受けたのは、鶏ガラです。
私は長年虚弱体質だったため、東洋医学の養生食として、鶏ガラと生姜とクコの実のスープをよく作っていました。
なので鶏ガラは以前から扱っていたのですが、私は鶏ガラは「食用肉を取り除いた後の食べられない部分」と認識していました。その「食べられない部分」を煮出してスープを採ったから、「食べられない部分もきちんと再利用した」と思って、煮出した後の鶏ガラそのまま捨てていたのです。
それが、江上では煮出した後の鶏ガラを、「まかない用に」と言って回収(年に1回くらい授業でスープの取り方をやります)。どういう風に使うんですかと聞いたら、「骨の周りの肉をこそげ取ってサラダに載せるとバンバンジーサラダみたいになる」とのこと。
私ちょっと天地がひっくり返るくらいのショックを受けました。
いや、本当に食べられるんです、確かに。「私これまで食べられるもの無駄にしていたんだ」、と。

まぁ「スープ」はじめ煮出すものって、スープに栄養素が出ているので、もとの野菜だの肉だのにはもう栄養素が残っていないカスだという考え方があります。漢方薬とかもその類で、煎じ液だけ飲んで、もとの薬草だのは食べずに捨てます。お茶も同様です。
なので、スープ煮出した後の骨回りの肉に、栄養学的にどれくらい栄養素が残っているのかと言えば、よくわからないけどまぁずいぶん減っていそうだなとは思います。
でもこれ、飢餓状態にある人、食べ物に困っている人、あれば食べて生命をつなぐことができますよね。

私は日本に生まれ、たまたま今までは食べ物に困ることがない状態だった(貧乏でしたが)。だけど地球規模でみたら、まだ食べられる肉を捨てるのって、ものすごい傲慢。
本当にショックを受けました。
知らなかったんです。「そういう風に食べることができる」ということを。

で、その後、自分でも鶏ガラ出汁取った後の肉をこそげ取って食べるようになりました。
その肉をフォーにのっけてパクチー散らすと、インスタントのフォースープ使ったものでもちょっと本格的な感じになります(笑)(本来は蒸し鶏ですかね)

ただ、手間はかかります。
今の日本のように人件費が安くて長時間働かないと生活できない社会だと、難しい作業だなと思います。
まぁ本当に政治が間違っています。
「長時間働かないと生活できないから食べ物を無駄にする社会」って、それは「社会がおかしいだろ」と思います。(なので、今出汁取った後の鶏ガラの肉のことなんか考えられない、という人を悪いとは思いません。)
一方で、地球規模で考えて「肉を食べられる」ということがどういうことか、「生命をいただく」ということがどういうことか、をきちんと認識しないまま豊かになっても、かつてのバブルの時代のように、たくさんのものを無駄にするだけの傲慢な社会になってしまうのだろうな、とも思います。

しばらく前に、ドイツでは、大学の学食で肉や魚などの動物性たんぱく質の量を、食事全体の5%だったか、ものすごく少ない量にすることを決定したというニュースをツイッターで読みました。ちょっとパーセンテージ正確に覚えていないのですが、環境負荷を考えて、国内で安全に生産し続けられる割合にするというような方針のようです。
こういう長期的な視座に立って、持続可能な方針を選ぶというドイツの倫理的な姿勢は本当に立派です。

日本の社会もそういう方針を取り入れてほしいと思いますが、今現在の状況について言えば、日本人女性は、もっと肉や魚などの動物性たんぱく質を取っていただきたいです。
日本人女性の健康状態、本当に危ないです。
日本の社会のしわ寄せが女性に集中しやすく、女性は我慢をしすぎてしまいます。
経済的な事情だけでなく、倫理的観点から肉食をやめようと考える女性もいますが(私も一時期そう考えたことがあります)、一部の肉食が体に合わない人以外は、日本人女性が肉食をやめようと考えるのは、すべての日本人女性から生理痛がなくなった後でいいです。
その代わり、自民党や竹中平蔵の関係者にお金が流れないようにして、日本で「威張っているおっさん」たちが食べる肉が減れば十分です。

話はだいぶそれてしまいましたが、まぁそんなこんなで、江上では料理学校としてのカリキュラムが充実して素晴らしいのとはまた別に、スタッフさんからいろいろお話を聞いて、普通だったら捨ててしまうものを美味しく食べる工夫に満ちた「まかない」にとても興味を持ちました。
私がいろいろコネクションとか持っていたら『江上のまかない』という本を出版したいと思ったほどです。


前回の記事でご紹介した、京都の量り売りのスーパー「斗々屋」さんでは、レストランや総菜売り場も併設していて、調理スタッフが店舗の商品をチェックし、売れ残りそうな食材を使って料理を作って販売しているのだとか。
これ、いわゆる「まかない(従業員用の食事)」と仕組みは同じです。

レストランや販売店では、おおよその予測はつくとはいえ、実際に「いつ何がどれくらい売れるか」は、お客様の自由意志に任されています。
そのため、どうしても「売れ残って鮮度が落ちるもの」というのは発生します。
冒頭の「コブ料理長のまかないサラダ」なども、こういった「鮮度が落ちてきたもの」「売れ残る可能性が高いもの」をまとめて料理して、従業員用の食事として使うことで、販売用に仕入れた食材の無駄をなくし、店舗内の素材の鮮度を保つ機能があります。

「カルボナーラ」とか「青椒肉絲」みたいに、特定の材料を特定の調理法で作る必要のある「名前が通っている料理」とは別に、こういった「その時ある素材」あるいは「その時手に入る旬の食材・地域の食材」などを組み合わせて、「名前のない新しい美味しい食べ方」を作り出すのも、プロの技です。

テレビ番組では、プロの料理人が地方に行って、地方の特産の食材を使って素晴らしい料理を作る、みたいなものも人気です(NHKで以前やっていた「キッチンカーが行く」など)。地方にはその土地で長年伝わってきた美味しい食べ方があるのですが、和洋中、様々なジャンルの一流の料理人もまた、違った視点で素材を見て、違った生かし方をする。
そこにまた、新しい文化が生まれ、豊かになる。


家庭から出る食品ロス問題に取り組む団体「フードサルベージ」の啓蒙イベント「サルベージパーティ」に、以前何度か参加したことがあります。
参加者が家庭にある賞味期限間近の食品をそれぞれ持ち寄って、集まった食材をもとに、料理人が料理を考え、みんなで作って食べる、というとても楽しくて画期的なイベントです。
多くの一般人は、一つの調理法しか知らず、「カレー」だったら「いわゆるカレー」、「焼きそば」だったら「いわゆる焼きそば」しか作らないので、「キャベツがないから焼きそばが作れない」と思って、焼きそば麺や豚肉をダメにしてしまう、みたいなことが往々にして発生します。
それを、「そんなことないよ、こういう風にしたら違う食べ方ができて、無駄にしないですむよ」という「発想の転換」を促すためのイベントです。
大変感銘を受けたのですが、ある回では、うどんと焼きそばと、麺類がかぶって集まってしまったことがありました(ちなみにうどんは私が持って行った(笑))。
その時の料理人さんは、うどんをパスタ風に調理して主食にし、焼きそば(生タイプ)は、麺をビニール袋にいれてめん棒などでついてやわらかくし、団子状に丸めてフライパンで焼き、一部はコーンなどを練りこんでソース味のおかず風に、一部はジャムなどを使って甘いデザート風に仕上げていました。
その料理人さんは、「材料が何かを考えると、どういう風に使えるか思い浮かぶ」と仰っていました。焼きそばだと小麦粉なので、パンとかお菓子とかと同じだなぁ、と。
これ、本当にすごいなぁと思いました。


料理であれ何らかの技術があると、目の前にある「余りもの」を、いろいろな形で生かすことができる。
私は、今の社会にこういう「知恵」がもっとたくさん必要だと思います。


「桜の花と、つつじの花と」の記事でも書いたのですが、
私が時折通りかかる個人経営の手芸屋さんで、ガーゼ布がセールになっていました。
昨年コロナ禍の初めに不織布マスクが不足し、たくさんの人が布マスクを手作りしようとしたため、その材料となるガーゼ布がたくさん流通したのです。
やがて不織布マスクが十分供給されるようになり、コロナが空気感染することが明らかになったことで、現在では布マスクではなく不織布マスクを使うことを推奨されるようになりました。
こういった背景で、ガーゼ布が過剰在庫になっているのだろうと思います。

オカダヤさんとか体力のある企業は、在庫抱えても大丈夫なようで、今でも定価で販売しているようですが、個人経営の店舗などでは「売れる見通しのない在庫を抱えられない」「現金化する必要がある」などの事情で、セールに踏み切っているところもあるのではないかと思います。

私も「家用のワンピースでも作ってみるか」と買ってみたのですが、もともとがマスク用のガーゼ布なので、すごく品質が良いし、マスクを手作りするような大人の女性が顔につけてもいいと思うような、素敵なプリントのものが多いです。

今はまだいろいろな点で不安定な世の中なので、こういったことは必ず発生します。
何かが発生して(それが疫病や災害などだけでなく、単純に流行という意味でも)、あるものに需要が集中すること、ということがあります。
需要が間に合わず「粗悪品が高値で売られる」時期と、供給が満たされて需要が落ち「上等品・良品がたたき売られる」時期というのが、発生します。

中国では、昨年パルスオキシメーターが大量生産され過剰在庫になったようで、少し前には中国の通販で1個100円くらいで売られているという情報も流れていました。
コロナ対策が遅れ、政府があてにならない日本で、たくさんの人が個人輸入したようです(私は買いそびれました)。

日本でマスク用に流通したガーゼ布については、今「上等品・良品がたたき売られる」タイミングです。
私は単純に「こんなに良いものが、こんな状態でワゴンセールされていてもったいなぁ」という気持ちと、「みんなが困っているときに必要なものを供給してくれたお店が、過剰在庫で困っているなんて申し訳ないなぁ」という気持ちが動いて、なんとかできないだろうかと思いました。

日本人の悪いところとして、何かの流行とか必要が発生すると、みんながわぁ~っと同じものに群がるのに、その流行が終わると後はみんな知らんぷり、というのがあります。
四半世紀前のナタデココブームとかもそうだし、需要に合わせて生産・供給体制を拡張したのに、ブームが去ると見向きもしなくなって、誰かが負債を抱えても我関せず、新しいブームを探す、というようなことを繰り返しています。
私はこういう軽薄で無責任な態度、社会としてすごく情けないし、申し訳ない。

で、このガーゼ布をどうやったら有効に使えるかなぁと考えて、先の「家用ワンピース」のほかに、2枚重ねにしてフェイスタオルサイズに縫ってみました(ダブルガーゼの2枚重ねなので、ガーゼは4枚重ね)。
私は自律神経系が弱くて、大量に汗をかくことがあるので、冷え防止もかねて、家では首にタオルを巻いていることがよくあります。
更年期障害の場合でも、「ホットフラッシュ」と言って、急に上半身が暑くなってバケツで水をかぶったように汗をかく、という症状があるのですが、私は長年そういう状態。年齢的には更年期障害といったほうが通りが良い年ごろではあるのですが、私はこれ、もともとの自律神経系の弱さからくる長年の症状。
今の日本人女性、こういう症状抱えている方、少なくないんじゃないですかね。社会が不安定で、女性がたくさんのストレスを抱えているので、自律神経系が乱れてしまう方、多いと思います。
ま、そんなわけで、私はもともとフェイスタオルを大量に使っていました。
それで、セールになっているガーゼ布をタオル替わりに使うのもありだなぁ、と思いました。もちろん「使える部分で」の話ですが。
私は髪が長くて多いので、洗髪には地厚でしっかりしたタオルが必要です。
が、枕に敷いたり、首に巻いたり、食器を拭いたり、洗面台やトイレにぶら下げるタオルとしてなら、私にとってはガーゼで作ったものでも十分。

なんかこういう、「十分に必要を満たす」というレベルで、社会に発生するロスを防ぐ使い方をすることができないかな、ということを考えています。
もちろん個人的な感性も関係するので、全員に強制したりするようなものではありません。「タオルの感触が生活に必要」という感性の方もいるわけで。

考え方としては、「まかない」に近いです。
「カルボナーラ」や「青椒肉絲」ではないけど、これはこれで美味しくて必要を満たす。
場合によっては「コブサラダ」みたいに、それ自体が素晴らしいと称えられるものができる可能性もある。

今私の目に留まって気になったのはマスク用のガーゼ布だったけど、
社会の中で、ほかにもいろいろなものがそんな状態にあるはず。
例えば、タピオカとかもそんな状態なんじゃないかと思います。
私はたまたまガーゼ布をタオル替わりに使ってみるか、と思ったけど、
人によって、「何が余っているか」、「どういう風に使えるか」、気が付くもの、思いつくことが違うのではないかと思います。

私が毛糸を仕入れている中古サイトでも、超高品質な工業用糸がアパレル工場から半端品として出品されることもある一方で、あんまり高く売ろうとしないで「とにかく売ってしまいたい」という感じで段ボール箱に4キロとか同じ毛糸を詰めて販売しているところもあります。まぁ、産業廃棄物として経費をかけて処分するくらいなら、事務手数料分くらいの金額で売った方がいい、というような感じなのかもしれません。
よっぽど気に入った糸でなければ、私のように個人でちまちま作って売っているような者には手を出しにくい形態だなぁとは思っていました。
が、先日「ウール90% ナイロン10%」という糸がそういう形で売られているのを見て、
「この材料の割合は靴下にちょうどいいんだよなぁ」と思いました。靴下は強度が必要なので、ウール100%より少し化繊が入っていた方が長持ちしてよい、と言われています。
色味も濃いめだったので、さらに靴下にはちょうどいいし、と言って、こんなにたくさん一人では作れないし、うーん、と悩んでしまいました。

まぁ、すでに私が靴下を商品化するために、ウールとアンゴラ、アルパカ、シルクなどの高品質な糸をたくさん仕入れている、というのもあります。

ただ、なんというか、私が「Mermaid Knit」でやろうとしている「最高の材料を使った最高のニット」という路線とは別に、
「過剰在庫でこのままではロスになってしまう可能性のある良質なもの」を使った「十分に必要を満たす」、「まかない」路線の商品というのも、今の世の中の一助になるんじゃないかなぁ、と思いました。

とはいえ、私の人件費を考えると、「まかないだから安い」ということにはできずいろいろ悩ましいのですが。
例えば手編みの靴下が3000円で売っていたとして、普通は「靴下に3000円?高っ!」と思うと思います。量販店では3足1000円が相場ですからね、化繊とはいえ。
でも、靴下手編みする方はおわかりかと思いますが、仮に時給1000円で換算しても、靴下1足3時間では編めないんです。まぁぶっちゃけ材料費なんてどうでもいいくらい、人件費としてペイしません(笑)すでに固定のお客様がついているニット作家の知人も「コンビニでバイトした方が儲かる」と言います。まぁそんなもんです。

ガーゼを使ったタオルも、「質の良いガーゼだから、これ商品にしたら売れるかな?」と思って市販のフェイスタオルの値段を調べたら、今、日本の物価が本当にとんでもなく下がっていて、「安さ」ではとても競争することはできません。
「そこそこ品質の良いものの世間一般の値段」を調べる時に、私はよく無〇良品のサイトをチェックするのですが、フェイスタオル290円でした。
まぁこの値段じゃちょっとどうしようもないですね。
ただ、社会としてそれでいいかというと、「こんな社会を維持しちゃいけない」と思っています。
ある程度まっとうな品質のフェイスタオルが290円とか、どれだけ原料を買いたたき、どれだけ安い人件費で作らせているの、ということなので。そんなことが長続きしちゃいけないし、また、そういう不均衡は必ず何らかの形で崩壊すると私は思います。
また、「少し良いものであってもその値段じゃないと買えない」ほど、庶民が貧困に苦しんでいる、という社会が、これ以上続いていいはずはありません。
(まずは、来る衆院選で自民党・公明党政権を終わらせて、政権交代しましょう。
「比例は共産党」で。)

なのでまぁ、「まかないだから良いものをお安く」は成立しないけど、
でも、「このままだと廃棄されてしまう可能性のある良いものを使って、必要を満たす」という社会の調整弁としての意義を考えて、その方向性での商品も作ってみようかなぁと、今考えています。
ハイクラス・ニットとしての『Mermaid Knit』とは別に、『まかない屋』みたいな名前を付けてみようかなと思ったりしています。
私は編み物が得意分野なのでニット製品が多くなるとは思いますが、先の段ボールに4キロ5キロとか入っているような毛糸を、小巻にして、社会的意義を感じてくださる方向けに販売するのもいいかもしれません。
編み物グループとか編み物教室とかがあれば、そういう格安で仕入れたものをみんなで分け合って使う、ということもできるのですが、コロナ禍のために編み物教室を始めることができませんでした。日本のコロナ対策本当におかしいので、まだ当分難しそう。。
でも、「思いついたこと」で「できそうなこと」はやってみよう、と思います。

2021年9月28日火曜日

まだ壊れていない私たちの心

日本では長年続いていた問題が様々な形で表出して、
日々辛い思いをしています。

が、その一方で、「こういうのが良い」「良いものは良い」というネット上の反応も
たくさん見るようになりました。

日本の社会はたくさんの問題を抱えており、それらが噴出しているけど、
でも、私たちの心はまだ壊れていない。
そして、現状にたくさんの過ちがあるからこそ、
たくさんの人が「どうしたら良くなるのか」と真剣に考えているということを、
今、目にしています。

そういうものを、少し拾ってみたいと思います。

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しばらく前にツイッターで、地方の巨大な駐車場の上に、ソーラーパネルが設置されている写真が流れていました。
ソーラーパネルが屋根のようになっていて、ツイッター発信者の方が、
「車が熱くならないという意味でも良い」というようなコメントをつけていました。
これに万単位の「いいね」がついていました。

原発をやめて、エコロジカルな発電で電気を賄いたい、とたくさんの人が望んでいます。
でも日本ではお金や権力を持っている人の中に、根本的に物事を理解できていない人が多く、「これからは太陽光発電だ」と言えば、豊かな山を切り開いてはげ山にして太陽光パネルを設置するような業者もいます。
お金も権力もない庶民は、「そうじゃない」「違う違う」と思いながら自分ではどうすることもできない……という状況がありました。

そういう中でこの巨大駐車場の屋根をソーラーパネルにした写真に、
たくさんの人が「こういうことが正しい!」「こういうことをやってほしい!」と
喜んだのだと思います。

もっと以前には、使われなくなった飛行場の滑走路にソーラーパネルを設置している写真も流れていました。
こういう「すでに更地になっているところ」で「使われずに放置されているところ」に
ソーラーパネルを設置するというのは、とても良い方法だと思います。

山や緑地には、そこでしかできない自然の役割があります。
人間が生きる以上、宅地や畑、工場や商業施設など、自然を破壊して作らなければならないものはある。
でも、それ以外のところはできる限り、自然のままに残したい。
破壊してしまった後で、それがどういう役割を果たしていたのか、私たちは理解することができない。同じものを同じように再生することもできない。

すでに人間が入って人工物を作ってしまったところで、太陽光発電をした方が良い。
たくさんの人たちがそういうことをわかっていて、でも自分たちで大規模発電施設を作れる財力を持たないからこそ、歯がゆい思いをしていた。
本当にエコロジカルなエネルギーを望んでいるのに、思い違いをしている金持ちが山を切り崩し自然破壊して作った太陽光発電施設をエコロジカル扱いしていることを、本当に腹正しく思っていた。
そういう思いが、これらの写真に万単位の「いいね」という形で現れたのだと思います。

私はずっと東京(の田舎と下町)で生活していたので、地方の土地の感覚があまりわからないのですが、ツイッターで流れていたように、地方に平地の巨大な駐車場があるなら、太陽光発電にうってつけだと思います。
都市圏の立体駐車場でも、うっかり混んでいて屋上までくると日差しがきつくて車が熱くなって困るので、すべての駐車場の屋根にソーラーパネル設置を義務化してもいいくらい。

というか国の政策として、商業施設や工場、一般の住宅も、設置可能な形状の建物にはすべてソーラーパネルを設置するように税金で賄い運営するべきだと私は思います。
上下水道や電気の配線と同じレベルで、ソーラーパネルの設置と管理を運営するべきだと思います。
もちろんこういったことは、現在の自民党・公明党政権(維新も含む)では不可能なので、政権交代した後の話ですが。

農地の上にソーラーパネルを設置している方もいるようで、作物の種類や地域によっては、そういうことも可能なのかもしれません。

また、今回のオリンピックで問題となった東京湾の水質汚染、東京の下水道の仕組みに起因するものです。雨水の量が多くなると下水に合流してどちらも東京湾に流れてしまうような仕組みになっているそうで、東京の配管設備が古く現在の気候に合っていないことが原因のようです。
これも、公共事業として東京の下水道設備を一新し、合わせて雨水の配管には小水力発電を設置するといいんじゃないかと思います。
晴れの日には太陽光発電で、雨の日には小水力発電でそれぞれ発電できるようにすれば、より安定した発電ができるようになるんじゃないかと思います。
こういう大規模な公共事業をやることで仕事を作り出し、かつ、問題であった東京湾の汚染を改善し、よりエコロジカルな発電もできる。
これも同じく自民党・公明党(+維新の会)政権を終わらせて、政権交代した後の話です。


また、「お店のレジ打ちを立ってやるのではなく、座ってやるようにすれば、
立ち仕事がつらい人や車いすの人でも仕事ができて良いのではないか」というツイートも、
半年に1回くらい流れてきて、それらも万単位の「いいね」が付いています。

そもそもレジを立ってやるのは日本くらいのものだそうで、
海外では座ってやるのが主流のようですね。
正直、あんまり「立っている」ことに意味はないように思います。
まぁお店の形態にもよりますけども。

一人で切り盛りしていてお店の隅々まで見渡す必要がある、とか、
コンビニのように後ろや横の棚からいろいろなものをもってこないといけない、とか、
そういうところは立ってやればいいだろうと思います。
どういうわけか、自分の仕事を「座ってでもできる価値の低い仕事」扱いをされたと言わんばかりに怒って反論してくる人が毎回いるのですが、
それは「店舗の形態による」というだけの話じゃないですかね。

スーパーやドラッグストア、ある程度規模の大きい販売店だと、
たいていレジが複数台あって、
お客さんがいない時でも一人は必ずレジに立つことになっているじゃないですか。
私は昔、無〇良品で販売員をしていたことがあったんですが、
「1レジ」「2レジ」みたいな感じで担当決まっていて、
「1レジ」担当は必ずレジに張り付き。
で、レジが混んできたら他のレジ担当を呼び集める。レジの混雑が終わったら、
「1レジ」以外は売り場整理に戻る、みたいな感じ。
見ていると、少し規模の大きいところはどこもそんなやり方していますよね。
その「1レジ」を、立ち作業が辛い人が担当できるようにすればいいんじゃないか、という趣旨で流れているツイートだと思います。

あと「立っている方が礼儀正しい」みたいなよくわからない理屈をこねたがる人もいて、
「あなたは買い物をするときに『立ってやるレジの店』と『座ってやるレジの店』とどちらを選びますか」みたいな反論の仕方をしてくる人もいるのですが(これネトウヨの人たちがよく使う反論の構文です)、そんなもん座って気持ちよく働ける店がいいに決まってるじゃん、と私は思います。
別に目の前の働く人が苦しむことを求めているわけではないのですよ。
ただ、必要な物を買うのにレジでお金を払う必要があるだけで。
召使も奴隷も必要ないです。
お互いが必要なことをするために、お互いが気持ちよくできる状況であればいいだけです。
働きたいと思う人が、働ける機会がたくさんあった方がいい。それだけの話です。
そしてそう感じている人がたくさんいるからこそ、この手のツイートに万単位の「いいね」が付くのだと思います。
(一方で、今回のテキサスの法整備で明らかになったように、自分が虐げることができる奴隷を必要とする人たちがいます。日本のネトウヨや一部の人たちもそうです。そういう人たちは精神的な治療が必要です。これまで日本では「被害者(外傷を受けた人やうつ病患者など)」に対する治療しかしていませんでしたが、本来は「加害者」の治療をするべきです。)


またどこかのスーパーでは、「ゆっくりレジ」という仕組みを作ったところがあるそうです
もともとは敬老の日だかシルバーウィークだかの単発のイベントとして作ったようですが、
お年寄りがお財布を出すのに時間がかかったり、小銭を出すのに時間がかかったりするのを、「気にしないでゆっくりしていただいて大丈夫ですよ」というレジだそうです。
そして、「少しおしゃべりされていっても大丈夫ですよ」というものだそうです。

これ、素晴らしいですね。

日本のスーパーの仕組みは、お年寄りには冷酷です。
お財布がどこにいったかわからない、小銭をうまく取り出せない、そんなこと歳を取ったら誰にでも起こりうるでしょう。
そして、昔の個人商店ではあったような、日々の挨拶やちょっとした世間話がない生活は、あまりにも無味乾燥していて、お年寄りどころか、私にだって辛いです。
レジに時間がかかっても、後ろの人がイライラしない仕組み、とても画期的だと思います。
この仕組みは、好評だったのか、期間が終わっても午後の一部の時間でこれからも続けるとのことです。
どこの地域での取り組みなのかわかりませんが(ツイッターで流れてました)、この仕組み、いろいろな地域で広がってほしいです。

もちろん、忙しくてレジを少しでも早く済ませたい人もたくさんいます。
だから、海外では一般的な「商品数が少ない人用のスピーディレジ」と、「一般レジ」、「ゆっくりレジ」を用意すれば、いろいろな人が幸せにお買い物できるようになるのではないかと思います。

竹中平蔵や自民党議員やその利権関係者に流れるお金を「なくして」、
こういうレジにきちんと人件費を払って仕組みを作れば、私たちの社会は本当に良くなります。


そしてもう一つ、「ビッグイシュー 414号」に掲載されていた記事から(『約700種の食品、すべて個包装せず量り売り 容器持参の「ゼロウェイストスーパー」オープン』 2021.9.1)。

できるかぎりのごみ削減を目指して商品すべてを量り売りする「斗々屋」さんというスーパーが京都にできたそうです。
こちらは画期的な計量技術が用いられていて、「量り売り」にまつわる「計量が大変」とか「時間がかかる」という難点を解決し、1時間に100人分のレジができる仕組みが導入されているのだとか。
この技術面を支えたのが、計量器メーカー「㈱寺岡精工」。
斗々屋の量り売りのモデルショップが、東京にオープンしたことを新聞で知った同社会長が訪問し、

「そこで若い方々が量り売りの普及に取り組んでいる姿を見て、量りを作ってきた会社の人間として非常に胸を打たれたんです。これはぜひ一緒に活動したいと、押しかけ営業してしまいました(笑)」(p.23)

とのこと。 

この斗々屋さんを運営する㈱斗々屋は、そもそもフランスで料理を勉強した梅田温子氏が、日本向けにオーガニック食材の卸をはじめ、環境に配慮した商品だからごみ問題にも取り組みたいと、量り売り専用の卸事業を始めたものだそう。

少しでも世の中を良くするやり方をしたいと試行錯誤する人に感化されて、
こうしていろいろなジャンルの人が合流し、新しい仕組みが生まれる。

日本の社会の、政治の、ひどい状況に疲れて心が動かなくなっていたところ、
この記事を読んで本当に救われました。
こうして、世の中を良くしたいと試行錯誤している人たちは、いろんな分野でいる。
そして、その心意気に感化されて、協力を申し出る人たちもいろんな分野でいる。
まだまだ、変えていけるはず。
私たちの社会を良くして行けるはず、と勇気づけられます。

彼岸との距離

しばらく前にツイッターで、青森県の怪談についてのお話が流れていました。
もう流れて行っちゃってどなたが発信したものなのかわからなくなってしまいましたが。
青森県に伝わる怪談をまとめた本が数冊発行されているようで、
青森県は、「その手の話」がものすごく多い土地なのだとか。
ただおもしろいことに、「その手の話」が、「フツーのこと」として語られているので、
他所から来た人が「怪談を調査しよう」とするとかえって見つけるのが困難なのだとか。
まぁ、土地の年寄りが当たり前のように「いわゆる怪奇現象」を日々のこととして語る、というような感じなのですかね。
「怪談はありませんか」「怖い言い伝えはありませんか」と聞いても出てこない。あくまでも「フツーのこと」だから(笑)。

で、そういったことを指して、この話を紹介していたツイッター発信者の方が、
青森県は「彼岸が近すぎる」という言い方をしていました。
ちょっと洒落た言い回しで、気に入ってしまいました。

まぁ確かに恐山とかもありますしねぇ。
なんかそういう「あの世(彼岸)」と「この世」の境目が他の地域より薄い土地なのかなぁ、などと思いました。

で、ずいぶん後になって気が付いたら、私の母方、青森県の出身でした。
私はいわゆる霊感体質というか、憑依体質というか霊媒体質というか、まぁ今どきの言葉でいうところの「スピリチュアルな」体質です。
厳密に見えたり聞こえたりするわけじゃないんですが(別にオーラとかも見えません)、
なんかいろいろなことに敏感で、影響を受けやすく、「その手の話」に理解があります。
東京で生活するには非常にやっかいな体質ですが、舞台芸術など芸術活動には有利な体質。
で、母と祖母もそういう体質でした。

母は「そういう話」に理解がなく、むしろ「非科学的」と見下している節があるため、かえって厄介。
憑依体質なのにガードや感情のコントロールをしないので、ネガティブな感情を野放しにしてすんごいレベルの低いエネルギーを呼び集めてしまい(そうすると本人のネガティブな状態がさらに悪化します)、実家が低俗霊の巣窟みたいになってしまう。
それだと私がしんどいので、母がいない時にあらゆるドアや窓を開け放って光と風を通し、掃除をし(特に拭き掃除)、マットやカーテンを洗濯しまくる、みたいな感じ(笑)
祖母は、「そういう体質」を自覚していたのかどうかわからないのですが(私が幼かったので)、かなりその手の力を自分の都合のいいように使えていたようで、今思うと「ちょっと普通ではあり得ないよね」というような「偶然」を起こしている人でした。

私は自分の体質を「母方の遺伝だなぁ」とは認識していたのですが、
これって、もしかして「青森県民」の体質?(笑)

いや最初は、青森という土地が、なんかそういうエネルギー的に「あっちの世界」と「こっちの世界」の境目が薄い土地だからそういうことが起こりやすいのかなと思ったのですが、
体質的にもそういうのを感じ取りやすい体質が受け継がれている、という可能性もある。
あと、土地の文化としてそういうのを「普通のこと」として語っていると、「その手のこと」を見たときに「寝ぼけて見間違えたのかな」と否定せずに、「〇〇を見た」とストレートに認識するようになる、というのはあります。
まぁこういうのって、理由をどれか一つに特定する必要はなくて、全部が要素として絡まり合っているんだろうなとは思いますが。


あと、近年お世話になっているバレエの先生も、割と「その手のこと」がOKな方。
「この人はどういう経緯でこうなったのかなぁ」と思っていたのですが、
ご出身の地域に、そういう霊媒師的な人がいたのだとか。
私としてはとても興味深かったのですが、その霊媒師的な方(今の言葉で言うと「チャネラー」ですかね)はダウン症の女性で「△△ちゃん」と呼ばれて地域で親しまれているのだけど、いわゆる「チャネリング」をするときになると、急に話し方とかも変わって、相談内容について教えてくれるのだとか。
で、数年前にバレエの先生が実家に帰った時、その「△△ちゃん」がもう歳を取ってできなくなったけど、別のダウン症の女性ができるようになったとお母様から聞いて、お母様と一緒に会いに行った、という話をしていました。(この手の話は教室内ではしません(笑))
いや、ちょっとなんというか「現代でもそういうことあるんだな」というか、結構地方ではそういうことが「普通に」残っていたりするのかなと思って、とても興味深かったです。
私は専攻が文化人類学なので、非常に興味深いですね、これ。
で、バレエの先生はそういう環境で育っているので、ほかの「見える・聞こえる・わかる」みたいな人にも抵抗がなく、そういう人からも気軽に「あんた□□だね」と「見えたこと」を話しかけられたりするのだとか。


それから私がずっとお世話になっている鍼の先生から聞いた話では、
先生が鍼灸治療の専門学校に入学した時、校長先生が入学式の挨拶で、
「これから鍼灸の勉強をして治療をしていくうちに、いろんなものが見えたり聞こえたりするようになるかもしれませんが、間違っても新興宗教の教祖になろうとか考えないように。
(いろんなものが見えたり聞こえたりするのは)普通のことなので。」と仰ったそうです。
ちょっとおもしろいですね。
でもまぁ、「普通のこと」だということです(笑)。

私が商品としてご案内している「虹色モヘアのプルオーバー」、
もともとは編み物学校の課題として編んだものをアレンジしたのですが、
この毛糸、ブログ記事でも書いたように、
編み物学校の先生から「夢々しい(ゆめゆめしい)」という聞きなれない評価を頂きました。
まぁ、パステルカラーのグラデーションで、可愛らしくファンタジックな色味であることは間違いありません。


↑この写真を見せたら「光っているのかと思った」と言った人もいます。
私は個人的には「これはユニコーンの翼の色~」と思っていました(私も常識のある大人なので、学校とか一般社会では言いません(笑))。
が、ふと気づいたら、「ユニコーンって翼ないじゃん!!!」
一応解説すると、一本角がある馬がユニコーン(一角獣)で、翼がある馬はペガサス(天馬)。どちらも想像上の動物です。
それを、鍼の先生に言うと結構大うけしていました。「ユニコーンのオーラの色なんじゃないですかね~」と鍼の先生は感じるようでした。
後日ネットで海外情報をぼんやり眺めていたら、ユニコーンの形のオモチャ(プールに浮かんだフロート)の写真があったのですが、それが体が白くて、たてがみや尻尾が虹色のユニコーン。
「あれ、私以外にも虹色がユニコーンの色だと思う人がいるんだ???」と思いました。
で、そのことを再び鍼の先生に話して、「なんで私はあんなに確信的に『これはユニコーンの色』と思ったんですかね~」と言ったら、「見えてるんじゃないですか」と言われました。
本来、人間の視覚器官っていうのはものすごい量の情報を見ているのですが、それを全部視覚情報として伝達してしまうと、処理しきれなくなる。このため、「私はこれを見た」として処理する情報をかなり制限しているのだそうです。まぁ別にスピった話じゃなくて、ごく一般的に言われていることですが。
ただ、明確な記憶として「私はこれを見た」と認識したもの以外も、ちゃんと見えていて、普通の記憶とは違うところにストックされている。それがふとした時に起動する、みたいな感じ。
だから私は「オーラが見える!」「今日ユニコーンがいた!」とか、私の記憶には一切ないんですけど、実はどこかしらか、何かしらかのタイミングで、見ている可能性はある(笑)

で、この「視覚情報を取捨選択して制限する」という人間の機能、別の場所で実験したことがあります。
おもしろいことにそれを解説していたのが、スピリチュアル全否定のカウンセラーの男性だったのですが(笑)
そのカウンセラーの先生が、一般向けの心理学講座みたいなのをやっていたのですが、
「どんだけ人間の記憶があやふやか」ということを確認するために、
「1000円札を見ないで描いてみましょう」というお題がありました。
いや、本当にものの見事に描けないですよ(笑)
なんか青っぽいインクで真ん中に丸い透かしがあって、1000円って右端に書いてあったっけ?みたいな、具体的に絵に描こうとすると、全然描けないんです。
毎日見ているようなものですら、実は全然ちゃんと見ていないんだよね、という話。
ま、これ、うつ病の人がよくする「あの時こういうことがあって、あの人がああいうことを言って、それはこういう意味で、私は世界中から否定されてるんだ~」みたいな病的な思考回路があるんですけど、「それって本当にそうですか?」っていう揺さぶりをかけるためのものなんです。「これしかない!(世界中から否定されているetc.)」と思い込んでいることが、どんだけいい加減な記憶で、それ以外の情報を見落としているか、ということに気づくためのもの。
で、そのお題の最後に、「皆さんこの会場に来るのに地図を見ながら来た人が多いと思うんですけど、この建物の近くに郵便ポストがあるのに気が付いた人はいますか?」
私を含め、気づいた人はほとんどいない様子。
「じゃぁ帰りに郵便ポストがどこにあるか確認してみてください」と言われて、会場を出ると、ポストは建物の入り口の真正面にある(笑)
地図を一生懸命見て「〇〇交差点を右に曲がって、△△ビルね、このビルの◇◇階ね」という歩き方をしていると、建物入り口の真ん前にあるポストが目に入らない(笑)
別にユニコーンとか妖精さんとかじゃなくても、現代社会で存在すると合意されているものでさえ、見えない(笑) というか、「『見た』と認識されない」。

ま、こんなことがあるから、先の青森県の怪談のように、「地元の年寄りがフツーのこととして話している」共同体だと、その下の世代も、現代社会では怪奇現象と言われていることを「〇〇を見た」とストレートに認識するんだろうなぁと思います。
私は東京の外れの新興住宅地で育ったので、そういうものが「見える」ものだと認識する機会がなく、よって、見ても「見た」と思わないのだろうと思います。視覚器官がキャッチしても記憶として処理しないというか。

つまり、仮に「赤いポストの上に赤鬼がいた」場合、
①「鬼なんか存在しない」という認識の社会
 + 他に気を取られながら歩いている(地図を見るなど)
  → ポストも鬼も見えない(見たと認識しない)。
②「鬼なんか存在しない」という認識の社会 + ある程度周りを見て歩いている
  → 「ポストを見た」と認識するが、赤鬼の視覚情報は否定する(認識しない)。
③「鬼は存在する」という認識の社会 + ある程度周りを見て歩いている
  → 「ポストの上に赤鬼がいた」と認識する。
 (たぶん青森のお年寄りは「ポストの上に赤鬼が座ってて同じ色しておもしろかった~」
  みたいな話し方をするんだろうなぁと推測。津軽弁もう忘れてしまいましたが)


で、もうちょっと言っちゃうと、一般的に「スピリチュアルな能力」と言われているもの、
見える・聞こえる・感じる・未来のことがわかる、みたいなやつ、
私はそんなに特殊な能力じゃないと思っています。
音楽家の絶対音感とか、バレエダンサーのトゥシューズで踊るとか、
そういうのとおんなじレベルの能力。

なんか現代社会って「見えないものが見えるなんておかしい!」みたいな言い方するんだけど(「非科学的」という言葉を使います)、
それ言ったらバレエダンサーがトゥシューズで立って踊るのとかもおかしいのよ(笑)
だって足って、足の裏全面を地面につけて立つようにできているって考えられているでしょ。
それを足の裏どこもつけないで、つま先すらまっすぐにして立って踊るとか(踊るって言っても、片足で何回転もするとか、足180度以上に開脚してジャンプするとか)、そんなの人間の身体の仕組みからしてできるわけない、と考えるのが「科学的」でしょ。
でも、世界中に掃いて捨てるほど(失礼)トゥシューズで立って踊れるバレエダンサーがいて、それで金稼いで生活している人だって山ほどいる。そのバレエダンサーが「インチキ」でも「頭がお花畑」なわけでもないわけよ。
ただ、向き不向きがあるというか、そういうのに適した身体を持って生まれて、正しい訓練を正しい時にすると、できる可能性が高い、という類のもの。現代の人類が全員できるわけではない。でも、できるという人が嘘をついているわけでもない。(ちなみに私はできません(笑))

音楽家の人の絶対音感とかもそんな感じ。
世の中の音が全部「ドレミファソラシド」(音階)で聞こえるとか、「は?何それ?」なわけじゃん、一般人には。
でも、トゥシューズと同じで、素質と適切な時期の適切な訓練で、できる人はできる。
稀に、才能があって大した訓練しなくてもできちゃう人もいる。

あと結構重要なのが、「トゥシューズで立てるからと言って素晴らしいダンサーであるとも限らない」「絶対音感があるからと言って素晴らしい音楽家であるとも限らない」ように、
「スピリチュアルな能力があるからと言って素晴らしい人であるとは限らない」ということがあります。
見える人は見えちゃいますけど、だからと言って霊性が高いかというと、それもまた別の話。
霊格あんまり高くないけど霊的能力高い人っていうのもいますよ。今回のオリンピックで明らかになったように、運動能力高いけど人間的には未熟な人も少なくないように。
なので、その手の能力が高いことをもって「すごい人だ」と思わないように、ということは口を酸っぱくしてお伝えしたいと思います。

2021年9月2日木曜日

競争ではなく

ちょっと私うっかりしておりました。
先日の記事、以前からつらつら書いていたものを、
私の体調が良くなったのと、壊れたPC買い換えたタイミングでアップしたのですが、
ちょうど日本の終戦記念日というか敗戦の日にアップしてしまいました。
あくまでも「負けを引き受けること」という意味について書いていたもので、
先の大戦の総括として書いたものではありません。
日本の加害責任について、今まだ私は語ることができず、何をどういう風に言葉にしたらいいのかわからないでいます(そういう事柄がたくさんあります)。
たくさんの苦しみを与え、大切なものを奪ったことについて、ただただ申し訳なく、
二度と繰り返してはいけないと思いながら、
今またたくさんの過ちを重ねている日本を、どうしたらいいのか、どうしたら少しでも他の国に迷惑をかけていることを減らし、日本に住んでいる私たち自身ももっと幸せに生きることができるのかと、考えている次第です。

*******

私はHSP(Highly Sensitive Person)という共感性や感受性が強いタイプで、
今の日本のようなひどい社会状況にあると、心身共に参ってしまいます。
ちょっとまた感情がダウンして身動きが取れなくなっていました。

今の自民・公明党政権下の日本というのは、トランプ政権下のアメリカみたいなもので、
「何をどう言いつくろってもダメなものはダメ。とにかく政権が変わらないとどうしようもない」という状況です。
アメリカの中に多くの問題があり、それでもトップが変わることで良い方向に舵を切ることができ、やがては少しずつ問題を改善して全体的に良くなっていくだろうと思うことができるように、
日本にも長年抱えてきた宿痾ともいうべき問題があり、今の政権はそこを強調して社会を分断し破壊することで自らをながらえてきていますが、
この政権を終わらせることで、問題を解決するためのものと認識し、まだ日本に残っている「良い部分」を伸ばしていく方向に舵を切ることができると思っています。

個々の事例を取り上げると私の心がつぶれてしまうので、現在表面化している個々の事例についての言及は今はできませんが、
諸々の事柄の根幹にあることについて、少し書いてみたいと思います。

「勝ち負けの概念について」といったところですかね。
前回の記事、「負けを引き受けること」というのがテーマだったのですが、
まぁ本来は、勝ち負けとか競争とかの概念を、もう手放して終わりにしようよ、ということが、私の言いたいことです。

「誰かを踏みつけにしないと生きていられない」みたいな心理が、現実として牙をむいているのが、今の日本の社会のあり様だなと思います。
入管での残酷な殺人、女性を狙った犯罪、コロナ禍での対応、オリンピック・パラリンピックの強行開催、沖縄の基地問題、アフガンからの関係者救出、メンタリストDaiGoやそれに類する人々の発言、日々見聞きする「些細なこと」と思われることに至るまで、物差しが全部「勝ち負け・強弱」でしかない人が起こしていることだなと思います。

私の母親はいわゆる「毒になる親」で、非常に問題のある人ですが、
彼女は「戦って生き残る」という世界観で生きている人でした。
「誰かから奪い取る、自分が少しでも多く取る、自分が相手よりも強くなる。」そうすることで生き残ることができる、という世界観で生きているんだなと思います。
私から見て、とても論理破綻しているなと思うのは、
「自分が相手よりも強くなることで生き残る」=「幸せ」と認識していることです。
まぁ、生物的にというか物理的にというか、相手を打ち負かせば生き残るという状況はあるだろうと思いますが、そのことと、「人間社会における幸せ」とは、おそらく相いれないだろう、と私は思います。

母は絵を習っているのですが、その教室で「忙しくて全然描けてないわぁ~」と言いながら、陰ではしっかり描いて準備しておく、みたいなことを「賢い人のやり方」であるように言ったりします。
そういうのを聞くと「この人は一体何をやりたいのかなぁ」と思います。
嘘しか言わないなら人から信用されず友達もできないだろうし、
自分の芸術性の追求のために絵を描いていて周りの人なんかどうでもいいというなら、
「私は全然描けてないのよ~」なんて言う必要はない。
私だったら「好きな絵を描くことを楽しみつつ、同じ趣味を持つ友達ができたらいいな」と考えるので、絵を描くことはできる範囲で一生懸命して、教室でご一緒する方とも誠心誠意お話したいなと思いますけどね。
周りの人を出し抜いてすごい絵を描けば、みんなから称賛されて愛されて幸せになれる、みたいなことを思い描いているみたいなんですけど、そんな世界ありますかね。
絵が下手でも、一緒にいて心地いい人とお話ししたいなと思ったり、友達になりたいなと思ったりするのが一般的じゃないかなと思います。
ま、孤高の天才みたいな人は常にいて、凡人には近寄りがたい雰囲気で、ものすごい芸術性を発揮する人もいるので、そういうタイプはまた別の話ですけども。

母のこういうところを見ると、「この人はまだ戦中・戦後の世界を生きているんじゃないか」と思ったりします。自分が生き残るために他人の食べ物を奪ったりするような世界に生きているんじゃないかと思います。

この「勝ち負けの世界観」と「幸せ」をごっちゃにしている人が、母に限った話じゃなく、
今の日本のいたるところに跋扈していて、時々「私がおかしいのかな」というか「私これから先この世界で生きていけるのかな」みたいな感覚に陥ることもしばしばです。

先日ツイッターで流れてきて話では、「夫に『収入を上げるために勉強をしたいから協力してほしい』と言われたので、数年間家事と育児を一人でがんばった女性が、晴れて転職して年収アップした夫から『俺の年収を超えてみろ』とマウントを取られた。『同じ年月家事と育児を代わってもらったらあなたの年収を超えてみせます』と返したら『ごめんなさい』と謝られた。謝らなくていいから私はフェアな戦いをしたい」という女性のツイートがありました。
この「夫」、家族を何だと思っているのかなっていうね。
まぁ、こういう男性多いですけどね。

大体女性の愚痴を見聞きしていて思うのは、男性側が「家族」というものを理解していないことが多いということです。
家族ってさ、生活していくための一つの共同体でしょ。
「生活を成り立たせるために必要なこと」っていうのが必ずあって、
現金収入を得ることや、家事の一つ一つや、育児や、親族との関係性や、地域社会との関係性とか、いろいろ「その家族の単位」で成し遂げなきゃならないことがあるわけよ。
で、その「家族の単位」の中で、「誰が何の役割をどのくらい分担するか」というのは、
その家族の中で状況に応じて分担していくものじゃないかと、私は思います。
どちらかが病気になったりしたら働ける人が働き、
子供に手がかかるときはもう一人が仕事も家事もカバーするとか、
「家族の単位」で成し遂げなきゃいけないことを、臨機応変に役割分担を変えて対応していくチームじゃないの、と思います。
なんだけど、先のツイートの「夫」とか、よく見聞きする愚痴に出てくる「パートナー(男)」とか、そういう「チーム」とか「共同体」とかの概念がすっぽ抜けていて、「自分がトップにある」ことが何よりも優先する。
チームワークじゃなくて、勝ち負け。
で、母と同じで、「勝てば幸せになる」と思っている。
目の前のものをすべて自分の下に組み敷こうとして、無意味な戦いを挑んでくる。

オリンピックの時も、若い選手が「『思い知ったか』と思わせたい」と発言していて、
なんでこういう風に取り違えちゃうんだろうなぁと思いました。
今回のコロナ禍で、私も、東京大会に限らずオリンピック全体をもう廃止しちゃえばいいよ、と思うに至りましたが、オリンピックの仕組みそのものが、競技スポーツの仕組みそのものが、勝ち負け・強弱の価値観を強化するものなので、正直、ここまでくると害悪でしかないです。

メンタリストDaiGoも「成功することが復讐」みたいなこと言っていたような気がしますが、その昔、ユーミンの歌にも「幸せはあなたへの復讐」みたいな歌詞ありましたね。
まぁ自分を振った男に思い知らせるために、きれいになって、あなたよりももっといい男と恋愛して、見返してやる、悔しがらせてやる、みたいな内容でしたけど。
あの男憎しで、美貌を磨き、「あの男よりもいい男(金持ちとかイケメンとか)」と恋愛して、「どうだ思い知ったか」とやることと、「幸せ」って、イコールですかね、って話なんですけどね。
その男が悔しがる顔を確認しないといられないのは、まったくもって不幸じゃないですかね。
その男のことなんか忘れるほど夢中になれる何かに出会って楽しむことができたら、それは本当に幸せだと思いますよ。それが恋愛であれ、才能を生かすことであれ。

なんかこの勝ち負けとか競争の価値観を持っている人と一緒に何かやるのって、
無理じゃないですか。それが家族であれ、仕事であれ。
今の社会って、仕事も競争の価値観で動いていますけど、それも間違ってませんかね。

自分のやりたいことを追及していたら結果的に「あなたが一番すごい」と言われた、はあるかもしれないけど、「一番になること」を目指してやっていると、自分を見失って何をしているのかわからなくなりませんかね。

オリンピックでも今のスポーツって、「勝ち負け」を競うんですけど、「勝ち負け」を競わないとスポーツってできないもんですかね。
例えばさ、テニスとか、延々と打ち合い続けてその打ち返し合う中で何かが生まれる、みたいな楽しみ方ってないですかね。
相手が打ち返せないような球を打つことじゃなくて、お互いに返し合い続けることを楽しむ、みたいなこと。
夢枕獏の小説『宿神』で、のちに西行法師となる佐藤義清と蹴鞠の名手(名前忘れた)との蹴鞠のシーンの描写が、そういったものでした。
蹴鞠は鞠を落とさずに続ける中で、華麗な技を披露するという類のもののようで、
佐藤義清と蹴鞠の名手のやり取りの中で、素晴らしい技が次々と繰り出され、その時間と空間が現実世界とは違うものになったように感じられた、という描写でした。
こういう感覚、舞台芸術でもよくありますし、現代のスポーツでも感覚として持っている方は少なからずいるようです。「ゾーンに入る」という言い方をするようですが、球が止まって見える、とか、スローモーションに見える、とか、そういう感覚です。
この蹴鞠のシーンとかは、相手が落とすような鞠を蹴って相手を負けさせよう、という心理は働いていないのですが、それでも、この二人の蹴鞠を見た人たちは、「あれこそ当代一の蹴鞠の名手よ」と思うわけじゃないですか。

あと今回のオリンピックのものじゃないんですけど、競技サーフィンの選手の言葉で、
「なんだかなぁ」と思ったものがありました。
試合の時に、「先に出て大技を決めたほうが、相手に心理的ダメージを与えられて有利だから、試合では早くに出る方を選ぶ」みたいなこと言っている人がいました。
まぁ、「競技サーフィン」というものは、そういうものなのかもしれないけど、
なんか、「何にもわかってねぇな、こいつ」と思いました。
私はサーフィンやらないんですけど、でも「海で遊ぶ」「自然の中で遊ぶ」って、そういうことじゃねぇだろ、と思います。
以前見たジェリー・ロペスのポスターで、すごい大波に乗りながら興奮して叫んでいるようなものを見たことがありますが、たぶん、ジェリー・ロペスが「競技相手」を意識することはないんじゃないかと思います。

昨年、日本のコロナ禍がいったん収まったように感じられた秋口に、どうしても耐えられなくて近場の海に行って、一日浜辺でのんびりしたことがあったのですが、
その時に地元のサーファーの男性にナンパされて少し話をしました。
私はもともと一人で旅行したりして、地元の人や宿で一緒になった人とよくおしゃべりを楽しんで友達になったりするので、
まぁ、海が好きな人と話をすること自体は基本歓迎なんですけど、
なんかどうにも「ドヤりたがる」のは勘弁してほしいですね。
その海はサーフィン向きの海なので、たくさんサーファーさんがいるんですが、
私がよく座って海を眺める浜は、良い波が立つのが割と沖の方なので、上手な方しかいません。が、少し離れたところでは、波打ち際近くに良い波が立つので、たくさんの人がイモ洗い状態でサーフィンをしています。
そのことについて、私が「ここは人が少なくて上手な人だけだからいいけど、あっちの方とか行くと、イモ洗い状態で、なんか『見栄の張り合い』みたいなことになってるでしょ」というと、その男性が「あれは『見栄の張り合い』なんじゃなくて『戦い』なんだよ」とドヤるのです。
ほんとクソだなと思いながら「私はそんなもの見たくないよ。そんなもの東京にいれば電車の中ででもどこででも見られるんだよ。私はそんなもの見るためにここまで来てるわけじゃないよ」と言いました。
まぁ私も素潜りやドルフィンスイムやるんで(今は経済的に無理だけど)、「私も人間だから競争心はあるけどね、イルカと泳ごうとして海入ると『あのイルカと私が泳ぎたい』みたいな気持ちは出ちゃうけどね、でも、海で遊ぶとか、イルカと遊ぶって、そういうことじゃないでしょ。海とか、自然と、自分がどれだけ一緒にできるか、でしょ」と言いました。
そしたら、その男性も私が言わんとしていることがわかったのか、「そういえば〇〇浜とか行くと、自分でも『うまくライドできたな~』と思ったときは他の人がシャカサイン(ハワイのハンドサイン。やったね、みたいな意味がある)してくれるなぁ」と言いました。
「そう、そういう文化があるところが好き」と私も応えました。
まぁ、女性に「すご~い」と言われてチヤホヤされたい気持ちと、本当に海が好きで海で遊ぶことを楽しみたい気持ちと、両方あるんだなと思いましたが。
ただ、私の感覚では「女性に『すご~い』と言われてチヤホヤされたい」男性にはまったく魅力は感じませんが、「本当に海が好きで海で遊ぶことを楽しんでいる」男性は、とてもすてきだと思いますし、恋愛関係になるかどうかは別として、同じ海好きとして(遊び方の種類は違っても)尊重し、友達になることはできます。

で、ジェリー・ロペスに話を戻すと、競技相手を打ち負かすことを意識しなくても、
海で夢中で遊んでいるジェリー・ロペスを見た人は「当代一のサーファー」だと思うわけですよ、蹴鞠の二人のように。
それで良くないですかね。そういうことじゃダメですかね。

あと、昔フィギュアスケートをよく見ていた時に、
技の難易度で言ったらこの人の方がすごいんだけど、
美しさ(芸術点)で言ったらあっちの人の方がすごい、みたいなことがあって、
難易度高い技決めた人が優勝したけど、私は美しく滑った人の方が好きなんだよな~みたいなことがよくありました。
こういうのって、もう「一つの競技として同じ土俵で競わせて順位を決める」こと自体が無理なんじゃないの、と思います。
というか、物事がそもそもそういう風にできているんじゃないかと思います。
一つの基準で評価できないということの方が当たり前で、理にかなっているんじゃないかと。ましてや勝ち負けでもない、と。

この「勝ち負け」とか「競争」とか「強弱」の価値観、取っ払うことはできませんかね。
というか、この価値観がどういったもので、どういったことを引き起こしているのかを、
社会として、一度直視してみる必要はありませんかね。特に日本は。

「勝ち負け」で「勝つ」ことが、期待した「幸せ」をもたらさないという「現実」を、
直視する必要がありませんかね。特に日本は。


私は、この日本の社会に適応しなくて、本当に長い間辛い思いをしました(今もですが)。
心も体も、いろんな形で壊してきました。
今でも、絶望して身動きが取れなくなることがよくあります。

それでも、私が「生きるっていうのはこういうことじゃないかな」とか、
「人を愛して人と一緒に生きるというのはこういうことじゃないかな」と思えることを、
いくつか見聞きすることができるので、
この人生で私がそういうものに出会えるかどうかは今はわからないけど、
人間の営みの中で、確かにこういうものはある、と思えることを、
少し拾って私自身の希望としたいと思います。


まずは、私の好きなオーディション番組、ゴットタレントシリーズから(動画があった方がわかりやすいと思うし)。

8分26秒くらいから始まる、車椅子の男性ともう一人の男性にによるダンス。
Florent and Justin on France's Got Talent

ちょっと信じられないほど美しくて、言葉になりません。
あまりに美しく、繊細で、心揺さぶられます。痛み、後悔、そして分かち合い。
見終わって、この二人はゲイのカップルなのかな、と思ってしまいましたが、
まぁ恋愛感情があるかどうかはどうでもいいのですが、
二人とも大変美しい男性であるとはいえ、もともとの顔だちもタイプも違うのに、
同じ繊細さ、同じ痛み、同じ悲しみ、ささやかな勇気、そして同じ穢れのない透明感を宿した表情とたたずまいをしていて、なんというか、「一つになるために生まれてきた二人だ」と感じてしまいます。
不思議なことに、この二人のダンスを見ているうちに、審査員や司会者の瞳にまで、
同じ種類の透明な輝きが宿り、人間の本質的な美しさが現れてくるかのようです。
だいぶ以前に、YouTubeで2CELLOSの動画を見ていた時に、あるクラシックの曲の演奏動画のコメントに、「これはゲイの音楽ではない。彼らは友達と素晴らしい演奏ができてうれしいんだ」みたいなものがありました。英語のコメントだったので、厳密にこの通りだったか忘れてしまいましたが。
2CELLOSのお二人はゲイのカップルではないのですが、でも、確かにそのクラシック曲の演奏は、あまりに完璧すぎて、二人が補い合って一つのものを作り上げていて、
「ああ、そうか、恋愛感情がある二人に見えてしまうのも無理はないかもしれない」と思ったのを覚えています。
(まぁ厳密なことを言ってしまえば、基本的に芸術、特に舞台芸術は、恋愛や性愛と同じ性質のものです。)
このダンスの動画で私が感じたものも、そういったものなのかもしれません。

あと、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真でも、寄り添う二人がそっくり同じに写っているものがあります。
ジョン・レノンの曲は大好きな曲もあるけど、まぁ前妻に対する態度とか、それはどうなのと思うこともあるし、
オノ・ヨーコも、まぁ特権階級のお嬢様よね、と思うし、
人間的には正直あんまり好きな人たちではないのだけど、ただ、二人で写っている写真に関しては、人種も性別も顔だちも違う二人が、おんなじ顔に見えるように写っていて、
「この二人は結ばれるべくして生まれてきた二人なんだな」と思います。
こういう風に結ばれることができたのは、とても幸せなことだと思うし、
まぁ人間的に未熟な状態で傷つけた人や物事についてはもちろん害悪であるのだけど、
この二人が結ばれるということに関しては、こうなることになっていたんだなというか、
なんかいろいろ仕方なかったんだなと、妙な感慨を抱きました。

それから、私の好きなNHKの語学番組「旅するヨーロッパ」のシリーズ、
第一シーズン、雅楽師東儀秀樹さんの「旅するイタリア語」の最終回、
とても素敵なご夫婦が出てきました。
イタリア語の先生エヴァさんの友人夫婦のお宅でランチパーティがあったのですが、
とても仲の良いご夫婦で、いつも二人でキッチンにいて一緒に料理をしているとのこと。
で、東儀さんがお礼に笙と篳篥の演奏をしました。
東儀さんが「笙の音は、天から差し込む光を象徴しています」と言って即興で演奏を始めると、旦那さんのイヴォさんは、ポカンと口を半開きにして前のめりになって聞き入ります。
そして演奏が終わると「その音は本当に天上の音色を思わせるね」と感想を言います。
東儀さんがさっさと篳篥に移ろうとするところを、楽器を「見せてもらえる?」と言って説明を求め、試しに演奏させてもらってよい音が出て褒められると、なんとも言えない、子供が褒められて恥ずかしがるような、あふれる気持ちを何と言ったらいいのかわからないというような、少し涙ぐんでいるような表情をします。
イヴォさん、スキンヘッドでひげさえも白髪の男性なのですが、こんなに繊細で、こんなに美しいものを求め、感動する心を持っている。
そして、奥様と仲良くいつも二人でキッチンに立って料理している。
私は、生きるということは、こういうことだと、思いたい。
本来は、誰もがイヴォさんのような、繊細さ、優しさ、美しいものを求める気持ち、愛情を持っていると、思いたい。

日本では、恋愛や結婚でさえも、「成功の証」や「強さの証」としてとらえられ、
恋愛関係や夫婦関係においてすら、「どちらが上か」という主に男性からの権力争いの場にされることが少なくありませんでした。
本当に愛することが必要で、愛を持って生きること、愛し合って生きることを、
そもそも思い描くことすらしないような、そんな風潮がありました。
何のために生きているのだろう、幸せって何なんだろう。
そういう苦しさの中で、「もうこの世界にいたくない」と絶望してしまうことも、
少なからずありました。

それでも、生きることの本質に気づいて、きちんとそれと向かい合って生きている人はこの世界にちゃんといる。
そう思って、消え入りそうになる心の火をまた灯して生きていく。

2021年8月15日日曜日

桜の花と、つつじの花と

桜の花と、つつじの花と
って、何のことかと言いますとね、
私が高校の時にそんな内容の作文を書いたんです。
桜の花って、華麗に咲いてあっという間に散る、その散り際までも美しい、
なんて言いますでしょ。
一方で、つつじの花って、葉っぱに紛れて咲くから花としてもそれほど豪華じゃないし、
咲いた後もきれいに花が落ちず、朽ちたままいつまでも枝に張り付いていて、
終わり方も正直言ってあんまり美しいものではない。
ただ、庭のつつじを眺めていて、「これは女の花だなぁ」と思ったんです、
高校生の私は。

「花は桜木 人は武士」なんて言葉もありますが、
桜の花が見事に咲いて、あっという間に散る、その潔さを男の美学とする考え方が日本にはありました。
その考え方が正しいかどうかは別として、
大義のために戦って死ぬことを良しとする文化があり、戦争でもたくさんの兵士が亡くなりました。そして、他国に甚大な被害をもたらしました。

いつの時代でもそうですが、戦争で男たちがたくさん死んだあと、
女たちはひたすら耐えて、傷ついた世界を修復し、再生させてきました。
「美しく散る」だの「潔く死ぬ」だの言っていられなかったんですよ、女たちは。
どんなにみじめだろうが、どんなに悲しかろうが、どんなに辛かろうが、
耐えて、生きて、社会を国を再生させてきたんです。
私はつつじの花の、未練がましい終わり方に、戦後の女たちの忍耐の姿を見たのです。

まぁ私も、小学生の時にテレビアニメの「ベルサイユのばら」を見た時は、
主題歌の「薔薇は薔薇は、気高く咲いて 薔薇は薔薇は、美しく散る」の歌詞にうっとりしましたよ。
薔薇のように気高く生き、美しく散るオスカル様のような、そんな激しくも美しい人生に憧れましたよ。
(実際は薔薇の散り際はあんまり美しくないですね(笑)花も散り際も一番見事なのは芍薬です(笑))

でも、高校生の時の私もすでに気づいていたし、もっとはるかに歳を取った今、
「美しく散る」だの「潔く死ぬ」だのは子供の言い分だな、と思います。
負けを引き受けみじめさに耐えながら、それでも社会を再生する努力をすること、
そして、もっと良い世の中を作ろうと決意すること、
そちらの方が人間的な成熟を必要としませんかね。
英雄になることもなく、ただの一介の庶民として、自分のできる範囲で社会を修復すること。
それが、それぞれの時代に女がやってきたことじゃないかと思います。
日本ではまったく評価されていませんが。

先日、追いはぎ男爵ことIOCバッハ会長の広島行に反対して、
「バッハに食わせるお好み焼きはない」という言葉がツイッターに流れていましたが、
この広島のお好み焼きも、焼野原となった広島で、
女性たちが配給の小麦粉と野菜をそこらに落ちている鉄板を使って焼き、
売ったことから始まったものだと聞いています。
復興して豊かになるにつれて具材や調味料も増え、味も良くなっていったのだろうと思いますが、最初は配給された食料のありあわせで、焼け残った鉄板を使って焼いたもの。
そうやって、生きて、再生させてきたんじゃないですかね、いつの時代も。
バッハは、B級グルメであるお好み焼きを食べたいとは思わねぇだろうと思いますが、
そういう経緯でできた料理であれば尚のこと、バッハなんかに食わせたくありませんね。
(あ~、で、ほかのたくさんのバッハさんや、ヨハン・セバスティアン・バッハはじめ音楽家のバッハさんや作品に類が及ばないように、奴のことは「くそバッハ」とか呼んではどうかなんていう提案もありましたね。賛成です。)

そうやって命をつなぎ、社会をつないできた女たちの努力の成果を、
なんかいつも男たちが取り上げて自分たちが偉かったかのようにふるまう、
この世の中は何なんですかね。
少なくない国で、この傾向はあるのだろうと認識していますが、
日本は特に顕著だし、
今のコロナ対策やオリンピックはじめ、日本の政治の経済の社会の問題は、
全部「金を持ったオッサン」「権力を持ったオッサン」によるものだと思います。
利権でしか動かない。人命を尊重しない。人の尊厳を尊重しない。自然界を尊重しない。
本当に未熟で思いあがった男たちの問題です。

すげぇ典型的だなと思ったのが、
名古屋市の市長が若い女性選手の金メダルを噛んでみせた件。
コロナや人命・人権の問題からすると主要な問題ではないとする方もいますが、
ただ、今の日本社会の危機的状態って、こういう認識でいる男たちの問題なんですよね。
「お前のものは俺のもの。俺のものは俺のもの。」というジャイアンの思考。
こうやって女や弱者の努力を自分のものにしてきた。そういうものだと思ってきた。
だから、女や弱者がいくら死のうが苦しもうが、なんとも思わない。
いくらでもいるし替えがきくと思っている。

しばらく前に「町山智浩のアメリカの今を知るTV」で、黒人奴隷の搾取の歴史について取材したものを見ました。
私がびっくりしたのは、「白人は技能のある黒人を連れてきて労働をさせ、自分たちはその技術を持っていなかった」という点です。
始めは藍の栽培と染の技術を持っている黒人を連れてきて労働をさせたとのことですが、
それ以外にも、建築や料理も黒人にやらせていた白人たちはその技術を持っていなかったのだそうです。
比較的近年に、料理関係の商品のパッケージに黒人のマークを使うことが「差別的である」ということで禁止になったのだそうですが、それは、白人は料理ができず黒人が作ったものを食べていたので、「黒人の作ったものの方がおいしい」という背景があったからだそうです。「料理上手の〇〇おばさんのホットケーキミックス」みたいな感じ。
私は漠然と、白人が「こういう風にやるように」と黒人に技術を教えて指図していたのだと思っていたのですが、実際は「何にもできない人たちができる人たちにやらせていた」という搾取構造でした。ちょっと思っていた以上にひどかったですね。
ただ、なんというか、「うわ~、これ日本の男と同じじゃん」と思いました。
何にもできない人間が、黙って耐えて労働する人たちからただひたすら取り上げる。
この構造。

今に始まったことじゃありませんが、本当にうんざりしましてね。
なんかこの、「男に金を払い、男から金をもらわなければならない」構造から降りたいなと思ったんです。
私の大好きな裁縫バトル番組「ソーイング・ビー」で、インド風のパンツがお題だった時に、ガンジーがこのパンツをイギリスの植民地支配に対する抵抗の手段としたことが解説されていました。
それによれば、インドを植民地として支配したイギリスは、
最初はインドで栽培され、インドで織られた綿布を買っていたのですが、
やがてインドで栽培された綿花を買ってイギリスで織り、その綿製品をインドに売るようになりました。
これがインドをさらに苦しめていることに気付いたガンジーは、
インド人に、イギリスで織られた綿製品を買うことをやめ、植民地化される以前の、インドの伝統的手法で作られた民族衣装を着ることを提案しました。
衣服について、イギリスの搾取が入り込む余地をなくそうとしたのです。
実際、植民地インドという大きな販売先をなくしたイギリスの紡績関連の事業は大打撃を受けました。苦境にあえぐイギリスの紡績関連の労働者たちは、ガンジーをイギリスに招いて自分たちの現状を見てもらい、ガンジーにイギリス製品の不買をやめさせようとしました。
が、その労働者たちの住環境を実際に見たガンジーは、
「あなたがたは、本当の貧困を知らない」と言ってそれを拒みました。
(この経緯をイギリスの番組である「ソーイング・ビー」で、
イギリス人のファッション関係者が解説しているところが、
日本と違ってイギリスが成熟した社会である証左だと思います。)

まぁこのインドの伝統的手法によって紡ぎ織られた民族衣装のように完全な自給自足が、
今の日本で可能かと言うと「無理だな」としか思わないのですが、
それでも、少しでも搾取の入り込む余地を減らしたいなと、私は思っています。

しばらく前にたまたま見かけたテレビで、ユニクロの経営みたいな番組をやっていました。
一瞬見ただけでムカついて見るのやめたので詳しくはわからないのですが、
ずいぶん前にユニクロが野菜の販売に着手したことがありましたが、その発起人を取材しているみたいでした。
あの野菜の販売は、ニュースで見た当時「これはダメでしょ(笑)」と思いましたが、
その提案者の男性は、「あの野菜で失敗するまで、自分は『できる人間だ』と思っていた」と言っていました。あれで失敗して、主婦の人(?)が何を求めているのかわかっていないことに気付いた、と。
で、その人はその後「GU」を手掛けてそちらはうまく行っているようなのですが、
なんかもう、「あ~やだやだ」というか「なんだかねぇ」というか、
「生きているのが嫌になるようなものを見ちゃった」感が半端なかったですわ。
もう見るからに「俺はできる」と思っているタイプの男性でね。
「GU」が実際に成功しているのかどうか、私はよくわかりませんがね。たくさんの人が貧乏になって、「とにかく安い」ものしか買えなくなっているだけなんじゃないかと思いますが、安い以外の魅力がなんかあるんですかね。そもそも通りかかっても店舗に入りたいという気持ちにならないのでよくわかりませんが。
なんかこの野菜とGU手がけた人と良く似た感じのことが少し前にもありました。
月経用のショーツで、ナプキン使わずに経血を吸収するタイプのものがあるのですが、
もともとは、少しでも月経期間を快適に活動的に過ごせるようにと考える女性が作ったものでした。
そこに男性4人で立ち上げた会社が参入。商品としての質もダメなら(吸収力足りなすぎ)、宣伝の手法もダメダメ。たくさんの女性がいろんな点で嫌悪感を示していました。
「白人女性が生理中にもかかわらずパンツとブラだけでソファに寝そべっている図」(一応解説すると、生理中は冷え厳禁なので下着だけで寝そべるとかあり得ない)とか、
イケメン風のチャラ男が、だんだんに女性の大変さを学んでいくみたいな少女漫画崩れの啓蒙漫画とか、
もう何から何まで「女なんてチョロい」「女なんてこんなもんでしょ」感がてんこ盛り。
「おぅっっ……」ってなって直視できない代物でした。
なんかね、「野菜&GU」男とか「生理用吸収ショーツ」男とか、全部同じ人種。
「女はバカで、俺はできる男だから、女なんか簡単に操作できる」ってのが、駄々洩れ。
ほんとーに、駄々洩れ。おしっこもらしてるレベルで駄々洩れ。
以前の、日本がもう少し豊かだった時代なら、こういう頭の悪い勘違い男が世の中にいても、女性は海外旅行行ったり、グルメを楽しんだり、ファッションを楽しんだりしてストレス発散することができたんです。
でも今はもうストレス発散できるほどの経済的なゆとりがないどころか、
こういうバカな男を放置していることが、女性にとって死活問題にすらなります。
現状、本当に女性や弱者が生きていけない、殺されるような世の中になってしまいました。
非常に深刻な殺人・人権侵害が起こっている日本の現状で、
いろいろなレベルの対策を講じなければなりません。
私の中では一つ、先のガンジーの民族衣装によるイギリス製品不買運動のような、
こういう類の男たちの懐に入る金を、極力減らすことを考えていきたいなと感じています。
堀江貴文とか竹中平蔵とか、自民党・公明党・維新の面々とか、経団連とか、
まぁあの手の男たちに流れる金を、少しでも減らしたい。力を弱めたい。
あの手の男たちの商売に金を払うことで、自らがあの手の男たちに支配されるだけでなく、
他の国に対する搾取にも加担することになるこの仕組みを、壊したい。

まぁ、個人で何もかも完全に、はできないんです。そのことはわかっています。
でも、「総量を減らす」ことはできる。害のある男たちに払う金額の総量、搾取に加担する総量を。

その方法の一つとして、「服を自分で作る」ということを考えています。
もともと編み物はやっていたのですが、最近裁縫も少しするようになりました。
本来は「試してみたらうまくいったこと」の「裁縫編」として、
もっとお気楽テイストで書こうと思っていたのですが、次々と表面化する日本のひどい現状に、「ちょっとお気楽テイストで書くのもう無理」になってしまいました。

先日、よく通りかかる個人営業の手芸屋さんで、ガーゼ布がワゴンセールになっていまして、部屋着やパジャマ用ワンピースを作ろうかなと思って買ってみました。
昨年マスク不足の折、布マスク用のガーゼ布がたくさん流通したのですが、今はそれが過剰在庫になっているのかなと思います。
前に買っておいたAラインワンピースやチュニックの型紙をアレンジして、ボタン付けだの極力省き寝るときのストレスをなくした形で作ったのですが、すごく快適でした。

で、味をしめて本屋さんで裁縫の本を物色したところ、すごく良い本を見つけました。
「Quoi? Quoi?(コアコア)」という女性2名のユニットによる
『1日でぬえる!簡単楽ちんワンピース おしゃれなアッパッパ』(㈱主婦の友社, 2020.07)。
「アッパッパ」って、「昭和の時代のおばさんワンピース」って言ったらいいんですかね。
この本によれば「かぶって着られるワンピース」とのこと。
「ファスナーやボタンがなく、着脱簡単、ぬうのも簡単、風通しがよく着心地は抜群!」。
このコアコアのお二人によるアッパッパは「マキシ丈のロングワンピース」とでもいうべき、オサレな代物。
まず本を眺めていて「大人可愛い」と感じるのですが、
これ全般に「女性による女性のための衣服」だなぁと思います。

①男性受けを狙っておらず、女性が「可愛い」と感じるデザイン。
②女性の身体に優しいデザイン。締め付けがなく、ゆるやかなラインで苦しくなく、下に重ね着をしやすい。ロング丈のため、冷えやすい下半身を守る。
③「ペタンコ靴」と相性がいい。スニーカー、ローファー、サンダル、ブーツなどと合わせると可愛い。靴下やスパッツがのぞいても違和感がない。
④ロング丈でボディラインがはっきりしないため、男性の性的視線からも身を守る。
④自分で作ることができる。

ざっと挙げただけでもこんな特長があります。

一口に「アッパッパ」と言っても、本の中ではいろいろなデザインが紹介されていて、
長袖で共布ベルトを巻いたものなどは「オフィスでもOKのきちんと感」と説明されていたりします。ま、私が今までに経験した職場ではこれでもアウトだろうなぁと感じましたが、
男性の価値観に支配されていない職場で、女性同士で仕事しているなら、OKだと思います。
というか、そういう「女性にとって安全」な「女性の職場」を、これから作っていきたいと私は思います。

私は青春時代というか色気づくお年頃というのが80~90年代だったので、いまだにピンヒールやミニタイトのワンピースやスカートを素敵だと思う感覚を持っています。
でもそれはそれとして、ヒールの靴も、ストッキングも、タイトな服も、ミニスカートも、女性の心身の健康には害悪であるということも身に染みてわかっています。
なので、そういった服は、ある種のコスプレのようなものと認識して、
特別なパーティとかデートとか、そういう「晴れの舞台で着るもの」みたいな扱いをするといいのかなと思ったりします。
マリー・アントワネットのドレスを素敵だと思ったとしても、あれを日常に着ていたら「変な人」であるわけで(私はジョゼフィーヌのドレスが好みですが)。

多くの日本の職場で女性に求められている「ひざ丈のタイトスカートにストッキングに適度なヒールの靴」という恰好は、本当に女性の身体によくありません。
ヒール靴の害は#kutooの活動などで、たくさんの方が訴えてくださっています。
タイトスカートとストッキングは動きにくいだけでなく、冷やしてはいけない下半身が冷えますし、締め付けと冷えで血行不良が起きますし、日本の湿度の高い季節は蒸れてとても不快です。
こういった苦痛や不快感を我慢し続けていると、だんだん感覚が麻痺していって、
ある時突然限界値を超え、深刻な自律神経失調症になったりします。
本当は「ちょっと嫌だな」「気持ち悪いな」という段階で対策を講じるべきなのですが、
今の日本の社会はそういう風になっておらず、女性はずっと我慢を重ね、心身に深刻な影響を受けてしまうことが少なくありません。

男性の価値観に染まった既存の職場では、そういうことを変えていくのがものすごく困難だなと思うので、女性が女性同士で仕事をしていくような場で、こういうやり方を増やしていくといいのではないのかなと思います。
最初から全部というのは難しいのだろうと思うので、男性とかかわらなければならないようなときはスーツ着ていくとか、やりすごすというのもありなのかなと思います。
できればそういう価値観じゃない男性と仕事でも関われたらいいと思いますが。

あと、この本のいくつかのデザインを眺めていて「なるほどなぁ」と思ったのですが、
「切り替えなしのAラインのワンピース」が、一番まとまった量の布が必要です。
縫う作業自体は楽だと思いますが、大きな平面の布地が必要で、端切れの量も多くなります。
一方で、「3段ティアードのギャザー入りワンピース」は、縫う作業は大変ですが、切り替えが何か所も入っているので、大きな一枚布でなくても作れます。つまり、端切れであるとか、古着をほどいたものの再利用、幅や長さの足りない布のつなぎ合わせなどがやりやすいデザインです。浴衣地とか、洋裁向けに売られていないような生地も使いやすいし、センスのいい方なら、違う生地を組み合わせてデザインの幅を広げることも可能だと思います。

本の案内にもあるように、生地を変えたり重ね着をしたりで、一年中着ることができる画期的なデザインだなぁと思いました。
私は編み物をやるので、ウールやアルパカなどの質の良い毛糸を使った靴下やスパッツを作ってご案内したいと思っていますが、そういったものと合わせるのに最適だと思います。

以前、ヤフーの「Gyoppy!」で、倫理観の高い若者たちが「買いたい服が見つからない」と言って古着を選ぶケースが増えている、という記事を読みました。(『古着ブームの裏側に高まる若者の環境意識? 「優しい目線」の買い物が欲しい未来を引き寄せる』,文:鈴木陸夫,2021.06.18)
「ALL YOURS」というファッションブランドを展開する木村昌史さんを取材した記事でした。
木村さんが語るには、若い人で環境問題や人権問題を考える人が、そういう害悪に加担しない服を着たいと望むけれどもなかなか適したものがない。結果的に、運送コストが発生する程度の古着を着るのが合理的なのかな、ということで古着にたどりつく人が少なくないのだとか。
今の社会が選択肢を用意できていないことはもちろん問題なのですが、とても希望の持てる話だなぁと思いました。
で、木村さん自身も語っていましたが「サステナブルな糸や生地を使いたいと思っても、綿農家さんや生地屋さんを支えるためには何百トンというロットで作らないといけなくなる。自分たちの経済規模ではまず無理なんです」と。私もよくそれを考えます。
木村さんは、大手のブランドがエシカルでサステナブルな路線を作り出せば、そういった素材が流通するようになり、経済規模の小さいところでも使えるようになるといいます。

私も、「一人で全部やる」は無理なのを理解しているので、「自分ができる部分」「自分ができる形」で、環境的にも人権的にも、より倫理的な生活の仕方・ビジネスの仕方をしていきたいと考えています。
なので、今現在私は、アパレルメーカーの余剰品・処分品として流通している高品質な工業用糸を仕入れてニット製品を作るという方向性をとっています。
先のワンピース類のように、いろいろな余剰品や中古品を使って衣類を作ったり、端切れの利用などについても、どんな風にすれば捨てないで使えるかをよく考えています。
スーツやコートを作ることができなくても(そういったものを手作りする方もいらっしゃいますが)、日常の衣服を作ることで「安物を大量に作って大量に消費する」搾取構造に加担する割合を減らすことはできます。

あとまぁ、編み物であれ、裁縫であれ、料理でもそうなんですが、
私が「自分で作る人が増えるといいなぁ」と思ってこういうことを紹介するのは、
「すそ野を広げることが大切である」と考えるからです。
上手だろうが下手だろうがやる人が増えれば、その中から才能がある人が出てくる可能性が増えます。そうすると、その分野が飛躍的に発展することもありうるわけです。
全体が少ないと、本当はすごい才能があるのにその技術に出会うことなく、才能が眠ったまま終わってしまった、みたいなことが、いろんなジャンルであるんじゃないかと思います。
例えば、自分がへたくそなりにバレエをやってみて思ったのが、昔はバレエをやるのは英才教育か才能のある特殊な人だけみたいな時代もあったのですが、今はカルチャーセンター的に初心者や下手くそな人も受け入れて丁寧に教えてくれるところも増え、結果的にバレエ人口が増えています。
それによって、レオタードとかのバレエ用品が売れるようになって素敵なデザインが増えたり、舞台やPVを見る人も増えたり、バレエ業界全体が活性化してきています。
こういうことが、いろんなジャンルで必要なんじゃないかと思うのです。
別にその分野の一流の人になろうとしなくても。
そういう全体のすそ野が広がった中から、いろいろな才能や、思いもしなかった飛躍が生まれていく。
私はそういう社会を豊かな社会だなと思うし、現状の問題を打破する可能性が高まっていくんじゃないかなと考えています。

2021年7月28日水曜日

#今すぐ五輪中止を #五輪やめて命をまもれ

#今すぐ五輪中止を

ひどい状況が次々と現実化していって、心が折れて文章が書けないのですが、
それでも言い続けなければ。

本当にやめましょう、オリンピック。

もうこれ以上、命を危険にさらし、海外の方に苦しみを与えるようなことは、
今すぐやめましょう。

コロナの危険性はもちろんですが、
日本の夏の異常な暑さ、トライアスロン会場のお台場の海の汚さ、
たくさんの人たちがずっと指摘し続けていました。
暑さ対策として時期を変えること、
トライアスロン会場として、海水がきれいで景色もよくアクセスも悪くないルートを提案していた方もいました。
それが、こんな最悪な形で現実化してしまって、本当に辛い。

ずっとずっとたくさんの人が警告し、批判してきたことなのに、
自民党・公明党政権は、何も聞こうとしなかった。

ある時期まで、IOCには期待していました。
今の日本の政権がどんなにひどくても、IOCには国際的な倫理観があり、
こんなひどい現状を訴えれば、即中止や変更を求めてくるはずだ、と。

でも、IOCは聞かなかった。
日本人の7割・8割が反対しても、その声はまともに取り合われなかった。

そして、懸念していたことが現実になってしまった。

もうこれ以上無益な苦しみを増やすのはやめて、今ここでオリンピックをやめましょう。
命をまもりましょう。
努力を重ねてきた海外の選手の心身を傷つけるのをやめましょう。

そして、私が本当に本当に辛いのは、
日本人の選手で「この状況を有利」と認識している人がいること。
これが、私には何よりも辛い。
選手村ではなく、もっとよい施設を使っていることや、
海外の選手が体を慣らしたり十分な練習をすることができない状況で、
そんな状況で試合をして、何になるのか。
恥ずかしくないのか。
こんな卑怯なことをして、恥ずかしくないのか。
こんな不公平な状況で「勝って」、勝ったと言えるのか。
私は恥ずかしい。ただただ恥ずかしい。
人として恥ずかしい。
これをなんとも思わない人たちがいる国の国民であることが恥ずかしい。

日本のおじさんたち、金を持っているおじさんたち、「昭和のおっさん」たちが、
人としてアウトで、この人たちが日本を駄目にしてきたことはわかっている。
この人たちが日本のガンであることはわかっている。

でも、若い、今現役のアスリートたちまでもが、こんな卑怯な人間でいいのか。
そしてそういう卑怯なことをして勝ったことを喜ぶ人たちがいていいのか。
私はこのことが本当に辛い。
こういうことが一番辛い。

人としての公正さを、そもそも持っていない人たちの存在が。


一方で、ワクチンはおろか入院することもできない多くの一般人がいること。
一方で、仕事も住む場所も失った人がいること。
一方で、食べるものがなく、フードバンクに並ぶたくさんの人がいること。

オリンピックのボランティアスタッフ用の食事が、
大量に廃棄されていたことも報道されました。
また、難民申請をした方を追い返してしまったことも。

本当に本当に、人として、社会として、一番大切なものが、丸ごと抜け落ちている。

わかっていたし、わかっていたからこそ、ずっと反対していた。
けれども、現実として目の前に現れると、あまりにもひどすぎて、耐えられなくなる。


それでも、開会式の時にルワンダの選手団が、リンドウの花をもって入場したということをツイッターで知りました。
そのツイッター発信者の方は岩手県の方で、岩手県で合宿をしたルワンダの選手が、
岩手県の花であるリンドウを手にして入場してくれた、と書いていました。
ルワンダは「本当に復興」したんだな、と心から思いました。
ルワンダの大虐殺から本当に復興し、東日本大震災で苦しんだ岩手県に、心を寄せてくださったのだろう、と思いました。

日本政府がうたう偽りの「復興五輪」などというものではなく、
いつか、私達も、このルワンダの選手たちのように、本当に復興しよう。
人間の心を取り戻し、過ちを認め、過ちを繰り返さないように学び、成長して、
もっと良い社会を作ろう。
人として恥ずかしくないように。
私は今、ただただ恥ずかしくて申し訳なくて悲しいけど、
でも、このルワンダの選手の皆さんに、また「復興のお手本」を見せていただき、
決意を新たにすることができました。

岩手県のサイトを見たところ、リンドウの花言葉は、
「あなたの悲しみに寄り添う」「誠実」「正義」
とのことでした。
今の私たちに必要な花ですね。