2021年9月28日火曜日

彼岸との距離

しばらく前にツイッターで、青森県の怪談についてのお話が流れていました。
もう流れて行っちゃってどなたが発信したものなのかわからなくなってしまいましたが。
青森県に伝わる怪談をまとめた本が数冊発行されているようで、
青森県は、「その手の話」がものすごく多い土地なのだとか。
ただおもしろいことに、「その手の話」が、「フツーのこと」として語られているので、
他所から来た人が「怪談を調査しよう」とするとかえって見つけるのが困難なのだとか。
まぁ、土地の年寄りが当たり前のように「いわゆる怪奇現象」を日々のこととして語る、というような感じなのですかね。
「怪談はありませんか」「怖い言い伝えはありませんか」と聞いても出てこない。あくまでも「フツーのこと」だから(笑)。

で、そういったことを指して、この話を紹介していたツイッター発信者の方が、
青森県は「彼岸が近すぎる」という言い方をしていました。
ちょっと洒落た言い回しで、気に入ってしまいました。

まぁ確かに恐山とかもありますしねぇ。
なんかそういう「あの世(彼岸)」と「この世」の境目が他の地域より薄い土地なのかなぁ、などと思いました。

で、ずいぶん後になって気が付いたら、私の母方、青森県の出身でした。
私はいわゆる霊感体質というか、憑依体質というか霊媒体質というか、まぁ今どきの言葉でいうところの「スピリチュアルな」体質です。
厳密に見えたり聞こえたりするわけじゃないんですが(別にオーラとかも見えません)、
なんかいろいろなことに敏感で、影響を受けやすく、「その手の話」に理解があります。
東京で生活するには非常にやっかいな体質ですが、舞台芸術など芸術活動には有利な体質。
で、母と祖母もそういう体質でした。

母は「そういう話」に理解がなく、むしろ「非科学的」と見下している節があるため、かえって厄介。
憑依体質なのにガードや感情のコントロールをしないので、ネガティブな感情を野放しにしてすんごいレベルの低いエネルギーを呼び集めてしまい(そうすると本人のネガティブな状態がさらに悪化します)、実家が低俗霊の巣窟みたいになってしまう。
それだと私がしんどいので、母がいない時にあらゆるドアや窓を開け放って光と風を通し、掃除をし(特に拭き掃除)、マットやカーテンを洗濯しまくる、みたいな感じ(笑)
祖母は、「そういう体質」を自覚していたのかどうかわからないのですが(私が幼かったので)、かなりその手の力を自分の都合のいいように使えていたようで、今思うと「ちょっと普通ではあり得ないよね」というような「偶然」を起こしている人でした。

私は自分の体質を「母方の遺伝だなぁ」とは認識していたのですが、
これって、もしかして「青森県民」の体質?(笑)

いや最初は、青森という土地が、なんかそういうエネルギー的に「あっちの世界」と「こっちの世界」の境目が薄い土地だからそういうことが起こりやすいのかなと思ったのですが、
体質的にもそういうのを感じ取りやすい体質が受け継がれている、という可能性もある。
あと、土地の文化としてそういうのを「普通のこと」として語っていると、「その手のこと」を見たときに「寝ぼけて見間違えたのかな」と否定せずに、「〇〇を見た」とストレートに認識するようになる、というのはあります。
まぁこういうのって、理由をどれか一つに特定する必要はなくて、全部が要素として絡まり合っているんだろうなとは思いますが。


あと、近年お世話になっているバレエの先生も、割と「その手のこと」がOKな方。
「この人はどういう経緯でこうなったのかなぁ」と思っていたのですが、
ご出身の地域に、そういう霊媒師的な人がいたのだとか。
私としてはとても興味深かったのですが、その霊媒師的な方(今の言葉で言うと「チャネラー」ですかね)はダウン症の女性で「△△ちゃん」と呼ばれて地域で親しまれているのだけど、いわゆる「チャネリング」をするときになると、急に話し方とかも変わって、相談内容について教えてくれるのだとか。
で、数年前にバレエの先生が実家に帰った時、その「△△ちゃん」がもう歳を取ってできなくなったけど、別のダウン症の女性ができるようになったとお母様から聞いて、お母様と一緒に会いに行った、という話をしていました。(この手の話は教室内ではしません(笑))
いや、ちょっとなんというか「現代でもそういうことあるんだな」というか、結構地方ではそういうことが「普通に」残っていたりするのかなと思って、とても興味深かったです。
私は専攻が文化人類学なので、非常に興味深いですね、これ。
で、バレエの先生はそういう環境で育っているので、ほかの「見える・聞こえる・わかる」みたいな人にも抵抗がなく、そういう人からも気軽に「あんた□□だね」と「見えたこと」を話しかけられたりするのだとか。


それから私がずっとお世話になっている鍼の先生から聞いた話では、
先生が鍼灸治療の専門学校に入学した時、校長先生が入学式の挨拶で、
「これから鍼灸の勉強をして治療をしていくうちに、いろんなものが見えたり聞こえたりするようになるかもしれませんが、間違っても新興宗教の教祖になろうとか考えないように。
(いろんなものが見えたり聞こえたりするのは)普通のことなので。」と仰ったそうです。
ちょっとおもしろいですね。
でもまぁ、「普通のこと」だということです(笑)。

私が商品としてご案内している「虹色モヘアのプルオーバー」、
もともとは編み物学校の課題として編んだものをアレンジしたのですが、
この毛糸、ブログ記事でも書いたように、
編み物学校の先生から「夢々しい(ゆめゆめしい)」という聞きなれない評価を頂きました。
まぁ、パステルカラーのグラデーションで、可愛らしくファンタジックな色味であることは間違いありません。


↑この写真を見せたら「光っているのかと思った」と言った人もいます。
私は個人的には「これはユニコーンの翼の色~」と思っていました(私も常識のある大人なので、学校とか一般社会では言いません(笑))。
が、ふと気づいたら、「ユニコーンって翼ないじゃん!!!」
一応解説すると、一本角がある馬がユニコーン(一角獣)で、翼がある馬はペガサス(天馬)。どちらも想像上の動物です。
それを、鍼の先生に言うと結構大うけしていました。「ユニコーンのオーラの色なんじゃないですかね~」と鍼の先生は感じるようでした。
後日ネットで海外情報をぼんやり眺めていたら、ユニコーンの形のオモチャ(プールに浮かんだフロート)の写真があったのですが、それが体が白くて、たてがみや尻尾が虹色のユニコーン。
「あれ、私以外にも虹色がユニコーンの色だと思う人がいるんだ???」と思いました。
で、そのことを再び鍼の先生に話して、「なんで私はあんなに確信的に『これはユニコーンの色』と思ったんですかね~」と言ったら、「見えてるんじゃないですか」と言われました。
本来、人間の視覚器官っていうのはものすごい量の情報を見ているのですが、それを全部視覚情報として伝達してしまうと、処理しきれなくなる。このため、「私はこれを見た」として処理する情報をかなり制限しているのだそうです。まぁ別にスピった話じゃなくて、ごく一般的に言われていることですが。
ただ、明確な記憶として「私はこれを見た」と認識したもの以外も、ちゃんと見えていて、普通の記憶とは違うところにストックされている。それがふとした時に起動する、みたいな感じ。
だから私は「オーラが見える!」「今日ユニコーンがいた!」とか、私の記憶には一切ないんですけど、実はどこかしらか、何かしらかのタイミングで、見ている可能性はある(笑)

で、この「視覚情報を取捨選択して制限する」という人間の機能、別の場所で実験したことがあります。
おもしろいことにそれを解説していたのが、スピリチュアル全否定のカウンセラーの男性だったのですが(笑)
そのカウンセラーの先生が、一般向けの心理学講座みたいなのをやっていたのですが、
「どんだけ人間の記憶があやふやか」ということを確認するために、
「1000円札を見ないで描いてみましょう」というお題がありました。
いや、本当にものの見事に描けないですよ(笑)
なんか青っぽいインクで真ん中に丸い透かしがあって、1000円って右端に書いてあったっけ?みたいな、具体的に絵に描こうとすると、全然描けないんです。
毎日見ているようなものですら、実は全然ちゃんと見ていないんだよね、という話。
ま、これ、うつ病の人がよくする「あの時こういうことがあって、あの人がああいうことを言って、それはこういう意味で、私は世界中から否定されてるんだ~」みたいな病的な思考回路があるんですけど、「それって本当にそうですか?」っていう揺さぶりをかけるためのものなんです。「これしかない!(世界中から否定されているetc.)」と思い込んでいることが、どんだけいい加減な記憶で、それ以外の情報を見落としているか、ということに気づくためのもの。
で、そのお題の最後に、「皆さんこの会場に来るのに地図を見ながら来た人が多いと思うんですけど、この建物の近くに郵便ポストがあるのに気が付いた人はいますか?」
私を含め、気づいた人はほとんどいない様子。
「じゃぁ帰りに郵便ポストがどこにあるか確認してみてください」と言われて、会場を出ると、ポストは建物の入り口の真正面にある(笑)
地図を一生懸命見て「〇〇交差点を右に曲がって、△△ビルね、このビルの◇◇階ね」という歩き方をしていると、建物入り口の真ん前にあるポストが目に入らない(笑)
別にユニコーンとか妖精さんとかじゃなくても、現代社会で存在すると合意されているものでさえ、見えない(笑) というか、「『見た』と認識されない」。

ま、こんなことがあるから、先の青森県の怪談のように、「地元の年寄りがフツーのこととして話している」共同体だと、その下の世代も、現代社会では怪奇現象と言われていることを「〇〇を見た」とストレートに認識するんだろうなぁと思います。
私は東京の外れの新興住宅地で育ったので、そういうものが「見える」ものだと認識する機会がなく、よって、見ても「見た」と思わないのだろうと思います。視覚器官がキャッチしても記憶として処理しないというか。

つまり、仮に「赤いポストの上に赤鬼がいた」場合、
①「鬼なんか存在しない」という認識の社会
 + 他に気を取られながら歩いている(地図を見るなど)
  → ポストも鬼も見えない(見たと認識しない)。
②「鬼なんか存在しない」という認識の社会 + ある程度周りを見て歩いている
  → 「ポストを見た」と認識するが、赤鬼の視覚情報は否定する(認識しない)。
③「鬼は存在する」という認識の社会 + ある程度周りを見て歩いている
  → 「ポストの上に赤鬼がいた」と認識する。
 (たぶん青森のお年寄りは「ポストの上に赤鬼が座ってて同じ色しておもしろかった~」
  みたいな話し方をするんだろうなぁと推測。津軽弁もう忘れてしまいましたが)


で、もうちょっと言っちゃうと、一般的に「スピリチュアルな能力」と言われているもの、
見える・聞こえる・感じる・未来のことがわかる、みたいなやつ、
私はそんなに特殊な能力じゃないと思っています。
音楽家の絶対音感とか、バレエダンサーのトゥシューズで踊るとか、
そういうのとおんなじレベルの能力。

なんか現代社会って「見えないものが見えるなんておかしい!」みたいな言い方するんだけど(「非科学的」という言葉を使います)、
それ言ったらバレエダンサーがトゥシューズで立って踊るのとかもおかしいのよ(笑)
だって足って、足の裏全面を地面につけて立つようにできているって考えられているでしょ。
それを足の裏どこもつけないで、つま先すらまっすぐにして立って踊るとか(踊るって言っても、片足で何回転もするとか、足180度以上に開脚してジャンプするとか)、そんなの人間の身体の仕組みからしてできるわけない、と考えるのが「科学的」でしょ。
でも、世界中に掃いて捨てるほど(失礼)トゥシューズで立って踊れるバレエダンサーがいて、それで金稼いで生活している人だって山ほどいる。そのバレエダンサーが「インチキ」でも「頭がお花畑」なわけでもないわけよ。
ただ、向き不向きがあるというか、そういうのに適した身体を持って生まれて、正しい訓練を正しい時にすると、できる可能性が高い、という類のもの。現代の人類が全員できるわけではない。でも、できるという人が嘘をついているわけでもない。(ちなみに私はできません(笑))

音楽家の人の絶対音感とかもそんな感じ。
世の中の音が全部「ドレミファソラシド」(音階)で聞こえるとか、「は?何それ?」なわけじゃん、一般人には。
でも、トゥシューズと同じで、素質と適切な時期の適切な訓練で、できる人はできる。
稀に、才能があって大した訓練しなくてもできちゃう人もいる。

あと結構重要なのが、「トゥシューズで立てるからと言って素晴らしいダンサーであるとも限らない」「絶対音感があるからと言って素晴らしい音楽家であるとも限らない」ように、
「スピリチュアルな能力があるからと言って素晴らしい人であるとは限らない」ということがあります。
見える人は見えちゃいますけど、だからと言って霊性が高いかというと、それもまた別の話。
霊格あんまり高くないけど霊的能力高い人っていうのもいますよ。今回のオリンピックで明らかになったように、運動能力高いけど人間的には未熟な人も少なくないように。
なので、その手の能力が高いことをもって「すごい人だ」と思わないように、ということは口を酸っぱくしてお伝えしたいと思います。

2021年9月2日木曜日

競争ではなく

ちょっと私うっかりしておりました。
先日の記事、以前からつらつら書いていたものを、
私の体調が良くなったのと、壊れたPC買い換えたタイミングでアップしたのですが、
ちょうど日本の終戦記念日というか敗戦の日にアップしてしまいました。
あくまでも「負けを引き受けること」という意味について書いていたもので、
先の大戦の総括として書いたものではありません。
日本の加害責任について、今まだ私は語ることができず、何をどういう風に言葉にしたらいいのかわからないでいます(そういう事柄がたくさんあります)。
たくさんの苦しみを与え、大切なものを奪ったことについて、ただただ申し訳なく、
二度と繰り返してはいけないと思いながら、
今またたくさんの過ちを重ねている日本を、どうしたらいいのか、どうしたら少しでも他の国に迷惑をかけていることを減らし、日本に住んでいる私たち自身ももっと幸せに生きることができるのかと、考えている次第です。

*******

私はHSP(Highly Sensitive Person)という共感性や感受性が強いタイプで、
今の日本のようなひどい社会状況にあると、心身共に参ってしまいます。
ちょっとまた感情がダウンして身動きが取れなくなっていました。

今の自民・公明党政権下の日本というのは、トランプ政権下のアメリカみたいなもので、
「何をどう言いつくろってもダメなものはダメ。とにかく政権が変わらないとどうしようもない」という状況です。
アメリカの中に多くの問題があり、それでもトップが変わることで良い方向に舵を切ることができ、やがては少しずつ問題を改善して全体的に良くなっていくだろうと思うことができるように、
日本にも長年抱えてきた宿痾ともいうべき問題があり、今の政権はそこを強調して社会を分断し破壊することで自らをながらえてきていますが、
この政権を終わらせることで、問題を解決するためのものと認識し、まだ日本に残っている「良い部分」を伸ばしていく方向に舵を切ることができると思っています。

個々の事例を取り上げると私の心がつぶれてしまうので、現在表面化している個々の事例についての言及は今はできませんが、
諸々の事柄の根幹にあることについて、少し書いてみたいと思います。

「勝ち負けの概念について」といったところですかね。
前回の記事、「負けを引き受けること」というのがテーマだったのですが、
まぁ本来は、勝ち負けとか競争とかの概念を、もう手放して終わりにしようよ、ということが、私の言いたいことです。

「誰かを踏みつけにしないと生きていられない」みたいな心理が、現実として牙をむいているのが、今の日本の社会のあり様だなと思います。
入管での残酷な殺人、女性を狙った犯罪、コロナ禍での対応、オリンピック・パラリンピックの強行開催、沖縄の基地問題、アフガンからの関係者救出、メンタリストDaiGoやそれに類する人々の発言、日々見聞きする「些細なこと」と思われることに至るまで、物差しが全部「勝ち負け・強弱」でしかない人が起こしていることだなと思います。

私の母親はいわゆる「毒になる親」で、非常に問題のある人ですが、
彼女は「戦って生き残る」という世界観で生きている人でした。
「誰かから奪い取る、自分が少しでも多く取る、自分が相手よりも強くなる。」そうすることで生き残ることができる、という世界観で生きているんだなと思います。
私から見て、とても論理破綻しているなと思うのは、
「自分が相手よりも強くなることで生き残る」=「幸せ」と認識していることです。
まぁ、生物的にというか物理的にというか、相手を打ち負かせば生き残るという状況はあるだろうと思いますが、そのことと、「人間社会における幸せ」とは、おそらく相いれないだろう、と私は思います。

母は絵を習っているのですが、その教室で「忙しくて全然描けてないわぁ~」と言いながら、陰ではしっかり描いて準備しておく、みたいなことを「賢い人のやり方」であるように言ったりします。
そういうのを聞くと「この人は一体何をやりたいのかなぁ」と思います。
嘘しか言わないなら人から信用されず友達もできないだろうし、
自分の芸術性の追求のために絵を描いていて周りの人なんかどうでもいいというなら、
「私は全然描けてないのよ~」なんて言う必要はない。
私だったら「好きな絵を描くことを楽しみつつ、同じ趣味を持つ友達ができたらいいな」と考えるので、絵を描くことはできる範囲で一生懸命して、教室でご一緒する方とも誠心誠意お話したいなと思いますけどね。
周りの人を出し抜いてすごい絵を描けば、みんなから称賛されて愛されて幸せになれる、みたいなことを思い描いているみたいなんですけど、そんな世界ありますかね。
絵が下手でも、一緒にいて心地いい人とお話ししたいなと思ったり、友達になりたいなと思ったりするのが一般的じゃないかなと思います。
ま、孤高の天才みたいな人は常にいて、凡人には近寄りがたい雰囲気で、ものすごい芸術性を発揮する人もいるので、そういうタイプはまた別の話ですけども。

母のこういうところを見ると、「この人はまだ戦中・戦後の世界を生きているんじゃないか」と思ったりします。自分が生き残るために他人の食べ物を奪ったりするような世界に生きているんじゃないかと思います。

この「勝ち負けの世界観」と「幸せ」をごっちゃにしている人が、母に限った話じゃなく、
今の日本のいたるところに跋扈していて、時々「私がおかしいのかな」というか「私これから先この世界で生きていけるのかな」みたいな感覚に陥ることもしばしばです。

先日ツイッターで流れてきて話では、「夫に『収入を上げるために勉強をしたいから協力してほしい』と言われたので、数年間家事と育児を一人でがんばった女性が、晴れて転職して年収アップした夫から『俺の年収を超えてみろ』とマウントを取られた。『同じ年月家事と育児を代わってもらったらあなたの年収を超えてみせます』と返したら『ごめんなさい』と謝られた。謝らなくていいから私はフェアな戦いをしたい」という女性のツイートがありました。
この「夫」、家族を何だと思っているのかなっていうね。
まぁ、こういう男性多いですけどね。

大体女性の愚痴を見聞きしていて思うのは、男性側が「家族」というものを理解していないことが多いということです。
家族ってさ、生活していくための一つの共同体でしょ。
「生活を成り立たせるために必要なこと」っていうのが必ずあって、
現金収入を得ることや、家事の一つ一つや、育児や、親族との関係性や、地域社会との関係性とか、いろいろ「その家族の単位」で成し遂げなきゃならないことがあるわけよ。
で、その「家族の単位」の中で、「誰が何の役割をどのくらい分担するか」というのは、
その家族の中で状況に応じて分担していくものじゃないかと、私は思います。
どちらかが病気になったりしたら働ける人が働き、
子供に手がかかるときはもう一人が仕事も家事もカバーするとか、
「家族の単位」で成し遂げなきゃいけないことを、臨機応変に役割分担を変えて対応していくチームじゃないの、と思います。
なんだけど、先のツイートの「夫」とか、よく見聞きする愚痴に出てくる「パートナー(男)」とか、そういう「チーム」とか「共同体」とかの概念がすっぽ抜けていて、「自分がトップにある」ことが何よりも優先する。
チームワークじゃなくて、勝ち負け。
で、母と同じで、「勝てば幸せになる」と思っている。
目の前のものをすべて自分の下に組み敷こうとして、無意味な戦いを挑んでくる。

オリンピックの時も、若い選手が「『思い知ったか』と思わせたい」と発言していて、
なんでこういう風に取り違えちゃうんだろうなぁと思いました。
今回のコロナ禍で、私も、東京大会に限らずオリンピック全体をもう廃止しちゃえばいいよ、と思うに至りましたが、オリンピックの仕組みそのものが、競技スポーツの仕組みそのものが、勝ち負け・強弱の価値観を強化するものなので、正直、ここまでくると害悪でしかないです。

メンタリストDaiGoも「成功することが復讐」みたいなこと言っていたような気がしますが、その昔、ユーミンの歌にも「幸せはあなたへの復讐」みたいな歌詞ありましたね。
まぁ自分を振った男に思い知らせるために、きれいになって、あなたよりももっといい男と恋愛して、見返してやる、悔しがらせてやる、みたいな内容でしたけど。
あの男憎しで、美貌を磨き、「あの男よりもいい男(金持ちとかイケメンとか)」と恋愛して、「どうだ思い知ったか」とやることと、「幸せ」って、イコールですかね、って話なんですけどね。
その男が悔しがる顔を確認しないといられないのは、まったくもって不幸じゃないですかね。
その男のことなんか忘れるほど夢中になれる何かに出会って楽しむことができたら、それは本当に幸せだと思いますよ。それが恋愛であれ、才能を生かすことであれ。

なんかこの勝ち負けとか競争の価値観を持っている人と一緒に何かやるのって、
無理じゃないですか。それが家族であれ、仕事であれ。
今の社会って、仕事も競争の価値観で動いていますけど、それも間違ってませんかね。

自分のやりたいことを追及していたら結果的に「あなたが一番すごい」と言われた、はあるかもしれないけど、「一番になること」を目指してやっていると、自分を見失って何をしているのかわからなくなりませんかね。

オリンピックでも今のスポーツって、「勝ち負け」を競うんですけど、「勝ち負け」を競わないとスポーツってできないもんですかね。
例えばさ、テニスとか、延々と打ち合い続けてその打ち返し合う中で何かが生まれる、みたいな楽しみ方ってないですかね。
相手が打ち返せないような球を打つことじゃなくて、お互いに返し合い続けることを楽しむ、みたいなこと。
夢枕獏の小説『宿神』で、のちに西行法師となる佐藤義清と蹴鞠の名手(名前忘れた)との蹴鞠のシーンの描写が、そういったものでした。
蹴鞠は鞠を落とさずに続ける中で、華麗な技を披露するという類のもののようで、
佐藤義清と蹴鞠の名手のやり取りの中で、素晴らしい技が次々と繰り出され、その時間と空間が現実世界とは違うものになったように感じられた、という描写でした。
こういう感覚、舞台芸術でもよくありますし、現代のスポーツでも感覚として持っている方は少なからずいるようです。「ゾーンに入る」という言い方をするようですが、球が止まって見える、とか、スローモーションに見える、とか、そういう感覚です。
この蹴鞠のシーンとかは、相手が落とすような鞠を蹴って相手を負けさせよう、という心理は働いていないのですが、それでも、この二人の蹴鞠を見た人たちは、「あれこそ当代一の蹴鞠の名手よ」と思うわけじゃないですか。

あと今回のオリンピックのものじゃないんですけど、競技サーフィンの選手の言葉で、
「なんだかなぁ」と思ったものがありました。
試合の時に、「先に出て大技を決めたほうが、相手に心理的ダメージを与えられて有利だから、試合では早くに出る方を選ぶ」みたいなこと言っている人がいました。
まぁ、「競技サーフィン」というものは、そういうものなのかもしれないけど、
なんか、「何にもわかってねぇな、こいつ」と思いました。
私はサーフィンやらないんですけど、でも「海で遊ぶ」「自然の中で遊ぶ」って、そういうことじゃねぇだろ、と思います。
以前見たジェリー・ロペスのポスターで、すごい大波に乗りながら興奮して叫んでいるようなものを見たことがありますが、たぶん、ジェリー・ロペスが「競技相手」を意識することはないんじゃないかと思います。

昨年、日本のコロナ禍がいったん収まったように感じられた秋口に、どうしても耐えられなくて近場の海に行って、一日浜辺でのんびりしたことがあったのですが、
その時に地元のサーファーの男性にナンパされて少し話をしました。
私はもともと一人で旅行したりして、地元の人や宿で一緒になった人とよくおしゃべりを楽しんで友達になったりするので、
まぁ、海が好きな人と話をすること自体は基本歓迎なんですけど、
なんかどうにも「ドヤりたがる」のは勘弁してほしいですね。
その海はサーフィン向きの海なので、たくさんサーファーさんがいるんですが、
私がよく座って海を眺める浜は、良い波が立つのが割と沖の方なので、上手な方しかいません。が、少し離れたところでは、波打ち際近くに良い波が立つので、たくさんの人がイモ洗い状態でサーフィンをしています。
そのことについて、私が「ここは人が少なくて上手な人だけだからいいけど、あっちの方とか行くと、イモ洗い状態で、なんか『見栄の張り合い』みたいなことになってるでしょ」というと、その男性が「あれは『見栄の張り合い』なんじゃなくて『戦い』なんだよ」とドヤるのです。
ほんとクソだなと思いながら「私はそんなもの見たくないよ。そんなもの東京にいれば電車の中ででもどこででも見られるんだよ。私はそんなもの見るためにここまで来てるわけじゃないよ」と言いました。
まぁ私も素潜りやドルフィンスイムやるんで(今は経済的に無理だけど)、「私も人間だから競争心はあるけどね、イルカと泳ごうとして海入ると『あのイルカと私が泳ぎたい』みたいな気持ちは出ちゃうけどね、でも、海で遊ぶとか、イルカと遊ぶって、そういうことじゃないでしょ。海とか、自然と、自分がどれだけ一緒にできるか、でしょ」と言いました。
そしたら、その男性も私が言わんとしていることがわかったのか、「そういえば〇〇浜とか行くと、自分でも『うまくライドできたな~』と思ったときは他の人がシャカサイン(ハワイのハンドサイン。やったね、みたいな意味がある)してくれるなぁ」と言いました。
「そう、そういう文化があるところが好き」と私も応えました。
まぁ、女性に「すご~い」と言われてチヤホヤされたい気持ちと、本当に海が好きで海で遊ぶことを楽しみたい気持ちと、両方あるんだなと思いましたが。
ただ、私の感覚では「女性に『すご~い』と言われてチヤホヤされたい」男性にはまったく魅力は感じませんが、「本当に海が好きで海で遊ぶことを楽しんでいる」男性は、とてもすてきだと思いますし、恋愛関係になるかどうかは別として、同じ海好きとして(遊び方の種類は違っても)尊重し、友達になることはできます。

で、ジェリー・ロペスに話を戻すと、競技相手を打ち負かすことを意識しなくても、
海で夢中で遊んでいるジェリー・ロペスを見た人は「当代一のサーファー」だと思うわけですよ、蹴鞠の二人のように。
それで良くないですかね。そういうことじゃダメですかね。

あと、昔フィギュアスケートをよく見ていた時に、
技の難易度で言ったらこの人の方がすごいんだけど、
美しさ(芸術点)で言ったらあっちの人の方がすごい、みたいなことがあって、
難易度高い技決めた人が優勝したけど、私は美しく滑った人の方が好きなんだよな~みたいなことがよくありました。
こういうのって、もう「一つの競技として同じ土俵で競わせて順位を決める」こと自体が無理なんじゃないの、と思います。
というか、物事がそもそもそういう風にできているんじゃないかと思います。
一つの基準で評価できないということの方が当たり前で、理にかなっているんじゃないかと。ましてや勝ち負けでもない、と。

この「勝ち負け」とか「競争」とか「強弱」の価値観、取っ払うことはできませんかね。
というか、この価値観がどういったもので、どういったことを引き起こしているのかを、
社会として、一度直視してみる必要はありませんかね。特に日本は。

「勝ち負け」で「勝つ」ことが、期待した「幸せ」をもたらさないという「現実」を、
直視する必要がありませんかね。特に日本は。


私は、この日本の社会に適応しなくて、本当に長い間辛い思いをしました(今もですが)。
心も体も、いろんな形で壊してきました。
今でも、絶望して身動きが取れなくなることがよくあります。

それでも、私が「生きるっていうのはこういうことじゃないかな」とか、
「人を愛して人と一緒に生きるというのはこういうことじゃないかな」と思えることを、
いくつか見聞きすることができるので、
この人生で私がそういうものに出会えるかどうかは今はわからないけど、
人間の営みの中で、確かにこういうものはある、と思えることを、
少し拾って私自身の希望としたいと思います。


まずは、私の好きなオーディション番組、ゴットタレントシリーズから(動画があった方がわかりやすいと思うし)。

8分26秒くらいから始まる、車椅子の男性ともう一人の男性にによるダンス。
Florent and Justin on France's Got Talent

ちょっと信じられないほど美しくて、言葉になりません。
あまりに美しく、繊細で、心揺さぶられます。痛み、後悔、そして分かち合い。
見終わって、この二人はゲイのカップルなのかな、と思ってしまいましたが、
まぁ恋愛感情があるかどうかはどうでもいいのですが、
二人とも大変美しい男性であるとはいえ、もともとの顔だちもタイプも違うのに、
同じ繊細さ、同じ痛み、同じ悲しみ、ささやかな勇気、そして同じ穢れのない透明感を宿した表情とたたずまいをしていて、なんというか、「一つになるために生まれてきた二人だ」と感じてしまいます。
不思議なことに、この二人のダンスを見ているうちに、審査員や司会者の瞳にまで、
同じ種類の透明な輝きが宿り、人間の本質的な美しさが現れてくるかのようです。
だいぶ以前に、YouTubeで2CELLOSの動画を見ていた時に、あるクラシックの曲の演奏動画のコメントに、「これはゲイの音楽ではない。彼らは友達と素晴らしい演奏ができてうれしいんだ」みたいなものがありました。英語のコメントだったので、厳密にこの通りだったか忘れてしまいましたが。
2CELLOSのお二人はゲイのカップルではないのですが、でも、確かにそのクラシック曲の演奏は、あまりに完璧すぎて、二人が補い合って一つのものを作り上げていて、
「ああ、そうか、恋愛感情がある二人に見えてしまうのも無理はないかもしれない」と思ったのを覚えています。
(まぁ厳密なことを言ってしまえば、基本的に芸術、特に舞台芸術は、恋愛や性愛と同じ性質のものです。)
このダンスの動画で私が感じたものも、そういったものなのかもしれません。

あと、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真でも、寄り添う二人がそっくり同じに写っているものがあります。
ジョン・レノンの曲は大好きな曲もあるけど、まぁ前妻に対する態度とか、それはどうなのと思うこともあるし、
オノ・ヨーコも、まぁ特権階級のお嬢様よね、と思うし、
人間的には正直あんまり好きな人たちではないのだけど、ただ、二人で写っている写真に関しては、人種も性別も顔だちも違う二人が、おんなじ顔に見えるように写っていて、
「この二人は結ばれるべくして生まれてきた二人なんだな」と思います。
こういう風に結ばれることができたのは、とても幸せなことだと思うし、
まぁ人間的に未熟な状態で傷つけた人や物事についてはもちろん害悪であるのだけど、
この二人が結ばれるということに関しては、こうなることになっていたんだなというか、
なんかいろいろ仕方なかったんだなと、妙な感慨を抱きました。

それから、私の好きなNHKの語学番組「旅するヨーロッパ」のシリーズ、
第一シーズン、雅楽師東儀秀樹さんの「旅するイタリア語」の最終回、
とても素敵なご夫婦が出てきました。
イタリア語の先生エヴァさんの友人夫婦のお宅でランチパーティがあったのですが、
とても仲の良いご夫婦で、いつも二人でキッチンにいて一緒に料理をしているとのこと。
で、東儀さんがお礼に笙と篳篥の演奏をしました。
東儀さんが「笙の音は、天から差し込む光を象徴しています」と言って即興で演奏を始めると、旦那さんのイヴォさんは、ポカンと口を半開きにして前のめりになって聞き入ります。
そして演奏が終わると「その音は本当に天上の音色を思わせるね」と感想を言います。
東儀さんがさっさと篳篥に移ろうとするところを、楽器を「見せてもらえる?」と言って説明を求め、試しに演奏させてもらってよい音が出て褒められると、なんとも言えない、子供が褒められて恥ずかしがるような、あふれる気持ちを何と言ったらいいのかわからないというような、少し涙ぐんでいるような表情をします。
イヴォさん、スキンヘッドでひげさえも白髪の男性なのですが、こんなに繊細で、こんなに美しいものを求め、感動する心を持っている。
そして、奥様と仲良くいつも二人でキッチンに立って料理している。
私は、生きるということは、こういうことだと、思いたい。
本来は、誰もがイヴォさんのような、繊細さ、優しさ、美しいものを求める気持ち、愛情を持っていると、思いたい。

日本では、恋愛や結婚でさえも、「成功の証」や「強さの証」としてとらえられ、
恋愛関係や夫婦関係においてすら、「どちらが上か」という主に男性からの権力争いの場にされることが少なくありませんでした。
本当に愛することが必要で、愛を持って生きること、愛し合って生きることを、
そもそも思い描くことすらしないような、そんな風潮がありました。
何のために生きているのだろう、幸せって何なんだろう。
そういう苦しさの中で、「もうこの世界にいたくない」と絶望してしまうことも、
少なからずありました。

それでも、生きることの本質に気づいて、きちんとそれと向かい合って生きている人はこの世界にちゃんといる。
そう思って、消え入りそうになる心の火をまた灯して生きていく。

2021年8月15日日曜日

桜の花と、つつじの花と

桜の花と、つつじの花と
って、何のことかと言いますとね、
私が高校の時にそんな内容の作文を書いたんです。
桜の花って、華麗に咲いてあっという間に散る、その散り際までも美しい、
なんて言いますでしょ。
一方で、つつじの花って、葉っぱに紛れて咲くから花としてもそれほど豪華じゃないし、
咲いた後もきれいに花が落ちず、朽ちたままいつまでも枝に張り付いていて、
終わり方も正直言ってあんまり美しいものではない。
ただ、庭のつつじを眺めていて、「これは女の花だなぁ」と思ったんです、
高校生の私は。

「花は桜木 人は武士」なんて言葉もありますが、
桜の花が見事に咲いて、あっという間に散る、その潔さを男の美学とする考え方が日本にはありました。
その考え方が正しいかどうかは別として、
大義のために戦って死ぬことを良しとする文化があり、戦争でもたくさんの兵士が亡くなりました。そして、他国に甚大な被害をもたらしました。

いつの時代でもそうですが、戦争で男たちがたくさん死んだあと、
女たちはひたすら耐えて、傷ついた世界を修復し、再生させてきました。
「美しく散る」だの「潔く死ぬ」だの言っていられなかったんですよ、女たちは。
どんなにみじめだろうが、どんなに悲しかろうが、どんなに辛かろうが、
耐えて、生きて、社会を国を再生させてきたんです。
私はつつじの花の、未練がましい終わり方に、戦後の女たちの忍耐の姿を見たのです。

まぁ私も、小学生の時にテレビアニメの「ベルサイユのばら」を見た時は、
主題歌の「薔薇は薔薇は、気高く咲いて 薔薇は薔薇は、美しく散る」の歌詞にうっとりしましたよ。
薔薇のように気高く生き、美しく散るオスカル様のような、そんな激しくも美しい人生に憧れましたよ。
(実際は薔薇の散り際はあんまり美しくないですね(笑)花も散り際も一番見事なのは芍薬です(笑))

でも、高校生の時の私もすでに気づいていたし、もっとはるかに歳を取った今、
「美しく散る」だの「潔く死ぬ」だのは子供の言い分だな、と思います。
負けを引き受けみじめさに耐えながら、それでも社会を再生する努力をすること、
そして、もっと良い世の中を作ろうと決意すること、
そちらの方が人間的な成熟を必要としませんかね。
英雄になることもなく、ただの一介の庶民として、自分のできる範囲で社会を修復すること。
それが、それぞれの時代に女がやってきたことじゃないかと思います。
日本ではまったく評価されていませんが。

先日、追いはぎ男爵ことIOCバッハ会長の広島行に反対して、
「バッハに食わせるお好み焼きはない」という言葉がツイッターに流れていましたが、
この広島のお好み焼きも、焼野原となった広島で、
女性たちが配給の小麦粉と野菜をそこらに落ちている鉄板を使って焼き、
売ったことから始まったものだと聞いています。
復興して豊かになるにつれて具材や調味料も増え、味も良くなっていったのだろうと思いますが、最初は配給された食料のありあわせで、焼け残った鉄板を使って焼いたもの。
そうやって、生きて、再生させてきたんじゃないですかね、いつの時代も。
バッハは、B級グルメであるお好み焼きを食べたいとは思わねぇだろうと思いますが、
そういう経緯でできた料理であれば尚のこと、バッハなんかに食わせたくありませんね。
(あ~、で、ほかのたくさんのバッハさんや、ヨハン・セバスティアン・バッハはじめ音楽家のバッハさんや作品に類が及ばないように、奴のことは「くそバッハ」とか呼んではどうかなんていう提案もありましたね。賛成です。)

そうやって命をつなぎ、社会をつないできた女たちの努力の成果を、
なんかいつも男たちが取り上げて自分たちが偉かったかのようにふるまう、
この世の中は何なんですかね。
少なくない国で、この傾向はあるのだろうと認識していますが、
日本は特に顕著だし、
今のコロナ対策やオリンピックはじめ、日本の政治の経済の社会の問題は、
全部「金を持ったオッサン」「権力を持ったオッサン」によるものだと思います。
利権でしか動かない。人命を尊重しない。人の尊厳を尊重しない。自然界を尊重しない。
本当に未熟で思いあがった男たちの問題です。

すげぇ典型的だなと思ったのが、
名古屋市の市長が若い女性選手の金メダルを噛んでみせた件。
コロナや人命・人権の問題からすると主要な問題ではないとする方もいますが、
ただ、今の日本社会の危機的状態って、こういう認識でいる男たちの問題なんですよね。
「お前のものは俺のもの。俺のものは俺のもの。」というジャイアンの思考。
こうやって女や弱者の努力を自分のものにしてきた。そういうものだと思ってきた。
だから、女や弱者がいくら死のうが苦しもうが、なんとも思わない。
いくらでもいるし替えがきくと思っている。

しばらく前に「町山智浩のアメリカの今を知るTV」で、黒人奴隷の搾取の歴史について取材したものを見ました。
私がびっくりしたのは、「白人は技能のある黒人を連れてきて労働をさせ、自分たちはその技術を持っていなかった」という点です。
始めは藍の栽培と染の技術を持っている黒人を連れてきて労働をさせたとのことですが、
それ以外にも、建築や料理も黒人にやらせていた白人たちはその技術を持っていなかったのだそうです。
比較的近年に、料理関係の商品のパッケージに黒人のマークを使うことが「差別的である」ということで禁止になったのだそうですが、それは、白人は料理ができず黒人が作ったものを食べていたので、「黒人の作ったものの方がおいしい」という背景があったからだそうです。「料理上手の〇〇おばさんのホットケーキミックス」みたいな感じ。
私は漠然と、白人が「こういう風にやるように」と黒人に技術を教えて指図していたのだと思っていたのですが、実際は「何にもできない人たちができる人たちにやらせていた」という搾取構造でした。ちょっと思っていた以上にひどかったですね。
ただ、なんというか、「うわ~、これ日本の男と同じじゃん」と思いました。
何にもできない人間が、黙って耐えて労働する人たちからただひたすら取り上げる。
この構造。

今に始まったことじゃありませんが、本当にうんざりしましてね。
なんかこの、「男に金を払い、男から金をもらわなければならない」構造から降りたいなと思ったんです。
私の大好きな裁縫バトル番組「ソーイング・ビー」で、インド風のパンツがお題だった時に、ガンジーがこのパンツをイギリスの植民地支配に対する抵抗の手段としたことが解説されていました。
それによれば、インドを植民地として支配したイギリスは、
最初はインドで栽培され、インドで織られた綿布を買っていたのですが、
やがてインドで栽培された綿花を買ってイギリスで織り、その綿製品をインドに売るようになりました。
これがインドをさらに苦しめていることに気付いたガンジーは、
インド人に、イギリスで織られた綿製品を買うことをやめ、植民地化される以前の、インドの伝統的手法で作られた民族衣装を着ることを提案しました。
衣服について、イギリスの搾取が入り込む余地をなくそうとしたのです。
実際、植民地インドという大きな販売先をなくしたイギリスの紡績関連の事業は大打撃を受けました。苦境にあえぐイギリスの紡績関連の労働者たちは、ガンジーをイギリスに招いて自分たちの現状を見てもらい、ガンジーにイギリス製品の不買をやめさせようとしました。
が、その労働者たちの住環境を実際に見たガンジーは、
「あなたがたは、本当の貧困を知らない」と言ってそれを拒みました。
(この経緯をイギリスの番組である「ソーイング・ビー」で、
イギリス人のファッション関係者が解説しているところが、
日本と違ってイギリスが成熟した社会である証左だと思います。)

まぁこのインドの伝統的手法によって紡ぎ織られた民族衣装のように完全な自給自足が、
今の日本で可能かと言うと「無理だな」としか思わないのですが、
それでも、少しでも搾取の入り込む余地を減らしたいなと、私は思っています。

しばらく前にたまたま見かけたテレビで、ユニクロの経営みたいな番組をやっていました。
一瞬見ただけでムカついて見るのやめたので詳しくはわからないのですが、
ずいぶん前にユニクロが野菜の販売に着手したことがありましたが、その発起人を取材しているみたいでした。
あの野菜の販売は、ニュースで見た当時「これはダメでしょ(笑)」と思いましたが、
その提案者の男性は、「あの野菜で失敗するまで、自分は『できる人間だ』と思っていた」と言っていました。あれで失敗して、主婦の人(?)が何を求めているのかわかっていないことに気付いた、と。
で、その人はその後「GU」を手掛けてそちらはうまく行っているようなのですが、
なんかもう、「あ~やだやだ」というか「なんだかねぇ」というか、
「生きているのが嫌になるようなものを見ちゃった」感が半端なかったですわ。
もう見るからに「俺はできる」と思っているタイプの男性でね。
「GU」が実際に成功しているのかどうか、私はよくわかりませんがね。たくさんの人が貧乏になって、「とにかく安い」ものしか買えなくなっているだけなんじゃないかと思いますが、安い以外の魅力がなんかあるんですかね。そもそも通りかかっても店舗に入りたいという気持ちにならないのでよくわかりませんが。
なんかこの野菜とGU手がけた人と良く似た感じのことが少し前にもありました。
月経用のショーツで、ナプキン使わずに経血を吸収するタイプのものがあるのですが、
もともとは、少しでも月経期間を快適に活動的に過ごせるようにと考える女性が作ったものでした。
そこに男性4人で立ち上げた会社が参入。商品としての質もダメなら(吸収力足りなすぎ)、宣伝の手法もダメダメ。たくさんの女性がいろんな点で嫌悪感を示していました。
「白人女性が生理中にもかかわらずパンツとブラだけでソファに寝そべっている図」(一応解説すると、生理中は冷え厳禁なので下着だけで寝そべるとかあり得ない)とか、
イケメン風のチャラ男が、だんだんに女性の大変さを学んでいくみたいな少女漫画崩れの啓蒙漫画とか、
もう何から何まで「女なんてチョロい」「女なんてこんなもんでしょ」感がてんこ盛り。
「おぅっっ……」ってなって直視できない代物でした。
なんかね、「野菜&GU」男とか「生理用吸収ショーツ」男とか、全部同じ人種。
「女はバカで、俺はできる男だから、女なんか簡単に操作できる」ってのが、駄々洩れ。
ほんとーに、駄々洩れ。おしっこもらしてるレベルで駄々洩れ。
以前の、日本がもう少し豊かだった時代なら、こういう頭の悪い勘違い男が世の中にいても、女性は海外旅行行ったり、グルメを楽しんだり、ファッションを楽しんだりしてストレス発散することができたんです。
でも今はもうストレス発散できるほどの経済的なゆとりがないどころか、
こういうバカな男を放置していることが、女性にとって死活問題にすらなります。
現状、本当に女性や弱者が生きていけない、殺されるような世の中になってしまいました。
非常に深刻な殺人・人権侵害が起こっている日本の現状で、
いろいろなレベルの対策を講じなければなりません。
私の中では一つ、先のガンジーの民族衣装によるイギリス製品不買運動のような、
こういう類の男たちの懐に入る金を、極力減らすことを考えていきたいなと感じています。
堀江貴文とか竹中平蔵とか、自民党・公明党・維新の面々とか、経団連とか、
まぁあの手の男たちに流れる金を、少しでも減らしたい。力を弱めたい。
あの手の男たちの商売に金を払うことで、自らがあの手の男たちに支配されるだけでなく、
他の国に対する搾取にも加担することになるこの仕組みを、壊したい。

まぁ、個人で何もかも完全に、はできないんです。そのことはわかっています。
でも、「総量を減らす」ことはできる。害のある男たちに払う金額の総量、搾取に加担する総量を。

その方法の一つとして、「服を自分で作る」ということを考えています。
もともと編み物はやっていたのですが、最近裁縫も少しするようになりました。
本来は「試してみたらうまくいったこと」の「裁縫編」として、
もっとお気楽テイストで書こうと思っていたのですが、次々と表面化する日本のひどい現状に、「ちょっとお気楽テイストで書くのもう無理」になってしまいました。

先日、よく通りかかる個人営業の手芸屋さんで、ガーゼ布がワゴンセールになっていまして、部屋着やパジャマ用ワンピースを作ろうかなと思って買ってみました。
昨年マスク不足の折、布マスク用のガーゼ布がたくさん流通したのですが、今はそれが過剰在庫になっているのかなと思います。
前に買っておいたAラインワンピースやチュニックの型紙をアレンジして、ボタン付けだの極力省き寝るときのストレスをなくした形で作ったのですが、すごく快適でした。

で、味をしめて本屋さんで裁縫の本を物色したところ、すごく良い本を見つけました。
「Quoi? Quoi?(コアコア)」という女性2名のユニットによる
『1日でぬえる!簡単楽ちんワンピース おしゃれなアッパッパ』(㈱主婦の友社, 2020.07)。
「アッパッパ」って、「昭和の時代のおばさんワンピース」って言ったらいいんですかね。
この本によれば「かぶって着られるワンピース」とのこと。
「ファスナーやボタンがなく、着脱簡単、ぬうのも簡単、風通しがよく着心地は抜群!」。
このコアコアのお二人によるアッパッパは「マキシ丈のロングワンピース」とでもいうべき、オサレな代物。
まず本を眺めていて「大人可愛い」と感じるのですが、
これ全般に「女性による女性のための衣服」だなぁと思います。

①男性受けを狙っておらず、女性が「可愛い」と感じるデザイン。
②女性の身体に優しいデザイン。締め付けがなく、ゆるやかなラインで苦しくなく、下に重ね着をしやすい。ロング丈のため、冷えやすい下半身を守る。
③「ペタンコ靴」と相性がいい。スニーカー、ローファー、サンダル、ブーツなどと合わせると可愛い。靴下やスパッツがのぞいても違和感がない。
④ロング丈でボディラインがはっきりしないため、男性の性的視線からも身を守る。
④自分で作ることができる。

ざっと挙げただけでもこんな特長があります。

一口に「アッパッパ」と言っても、本の中ではいろいろなデザインが紹介されていて、
長袖で共布ベルトを巻いたものなどは「オフィスでもOKのきちんと感」と説明されていたりします。ま、私が今までに経験した職場ではこれでもアウトだろうなぁと感じましたが、
男性の価値観に支配されていない職場で、女性同士で仕事しているなら、OKだと思います。
というか、そういう「女性にとって安全」な「女性の職場」を、これから作っていきたいと私は思います。

私は青春時代というか色気づくお年頃というのが80~90年代だったので、いまだにピンヒールやミニタイトのワンピースやスカートを素敵だと思う感覚を持っています。
でもそれはそれとして、ヒールの靴も、ストッキングも、タイトな服も、ミニスカートも、女性の心身の健康には害悪であるということも身に染みてわかっています。
なので、そういった服は、ある種のコスプレのようなものと認識して、
特別なパーティとかデートとか、そういう「晴れの舞台で着るもの」みたいな扱いをするといいのかなと思ったりします。
マリー・アントワネットのドレスを素敵だと思ったとしても、あれを日常に着ていたら「変な人」であるわけで(私はジョゼフィーヌのドレスが好みですが)。

多くの日本の職場で女性に求められている「ひざ丈のタイトスカートにストッキングに適度なヒールの靴」という恰好は、本当に女性の身体によくありません。
ヒール靴の害は#kutooの活動などで、たくさんの方が訴えてくださっています。
タイトスカートとストッキングは動きにくいだけでなく、冷やしてはいけない下半身が冷えますし、締め付けと冷えで血行不良が起きますし、日本の湿度の高い季節は蒸れてとても不快です。
こういった苦痛や不快感を我慢し続けていると、だんだん感覚が麻痺していって、
ある時突然限界値を超え、深刻な自律神経失調症になったりします。
本当は「ちょっと嫌だな」「気持ち悪いな」という段階で対策を講じるべきなのですが、
今の日本の社会はそういう風になっておらず、女性はずっと我慢を重ね、心身に深刻な影響を受けてしまうことが少なくありません。

男性の価値観に染まった既存の職場では、そういうことを変えていくのがものすごく困難だなと思うので、女性が女性同士で仕事をしていくような場で、こういうやり方を増やしていくといいのではないのかなと思います。
最初から全部というのは難しいのだろうと思うので、男性とかかわらなければならないようなときはスーツ着ていくとか、やりすごすというのもありなのかなと思います。
できればそういう価値観じゃない男性と仕事でも関われたらいいと思いますが。

あと、この本のいくつかのデザインを眺めていて「なるほどなぁ」と思ったのですが、
「切り替えなしのAラインのワンピース」が、一番まとまった量の布が必要です。
縫う作業自体は楽だと思いますが、大きな平面の布地が必要で、端切れの量も多くなります。
一方で、「3段ティアードのギャザー入りワンピース」は、縫う作業は大変ですが、切り替えが何か所も入っているので、大きな一枚布でなくても作れます。つまり、端切れであるとか、古着をほどいたものの再利用、幅や長さの足りない布のつなぎ合わせなどがやりやすいデザインです。浴衣地とか、洋裁向けに売られていないような生地も使いやすいし、センスのいい方なら、違う生地を組み合わせてデザインの幅を広げることも可能だと思います。

本の案内にもあるように、生地を変えたり重ね着をしたりで、一年中着ることができる画期的なデザインだなぁと思いました。
私は編み物をやるので、ウールやアルパカなどの質の良い毛糸を使った靴下やスパッツを作ってご案内したいと思っていますが、そういったものと合わせるのに最適だと思います。

以前、ヤフーの「Gyoppy!」で、倫理観の高い若者たちが「買いたい服が見つからない」と言って古着を選ぶケースが増えている、という記事を読みました。(『古着ブームの裏側に高まる若者の環境意識? 「優しい目線」の買い物が欲しい未来を引き寄せる』,文:鈴木陸夫,2021.06.18)
「ALL YOURS」というファッションブランドを展開する木村昌史さんを取材した記事でした。
木村さんが語るには、若い人で環境問題や人権問題を考える人が、そういう害悪に加担しない服を着たいと望むけれどもなかなか適したものがない。結果的に、運送コストが発生する程度の古着を着るのが合理的なのかな、ということで古着にたどりつく人が少なくないのだとか。
今の社会が選択肢を用意できていないことはもちろん問題なのですが、とても希望の持てる話だなぁと思いました。
で、木村さん自身も語っていましたが「サステナブルな糸や生地を使いたいと思っても、綿農家さんや生地屋さんを支えるためには何百トンというロットで作らないといけなくなる。自分たちの経済規模ではまず無理なんです」と。私もよくそれを考えます。
木村さんは、大手のブランドがエシカルでサステナブルな路線を作り出せば、そういった素材が流通するようになり、経済規模の小さいところでも使えるようになるといいます。

私も、「一人で全部やる」は無理なのを理解しているので、「自分ができる部分」「自分ができる形」で、環境的にも人権的にも、より倫理的な生活の仕方・ビジネスの仕方をしていきたいと考えています。
なので、今現在私は、アパレルメーカーの余剰品・処分品として流通している高品質な工業用糸を仕入れてニット製品を作るという方向性をとっています。
先のワンピース類のように、いろいろな余剰品や中古品を使って衣類を作ったり、端切れの利用などについても、どんな風にすれば捨てないで使えるかをよく考えています。
スーツやコートを作ることができなくても(そういったものを手作りする方もいらっしゃいますが)、日常の衣服を作ることで「安物を大量に作って大量に消費する」搾取構造に加担する割合を減らすことはできます。

あとまぁ、編み物であれ、裁縫であれ、料理でもそうなんですが、
私が「自分で作る人が増えるといいなぁ」と思ってこういうことを紹介するのは、
「すそ野を広げることが大切である」と考えるからです。
上手だろうが下手だろうがやる人が増えれば、その中から才能がある人が出てくる可能性が増えます。そうすると、その分野が飛躍的に発展することもありうるわけです。
全体が少ないと、本当はすごい才能があるのにその技術に出会うことなく、才能が眠ったまま終わってしまった、みたいなことが、いろんなジャンルであるんじゃないかと思います。
例えば、自分がへたくそなりにバレエをやってみて思ったのが、昔はバレエをやるのは英才教育か才能のある特殊な人だけみたいな時代もあったのですが、今はカルチャーセンター的に初心者や下手くそな人も受け入れて丁寧に教えてくれるところも増え、結果的にバレエ人口が増えています。
それによって、レオタードとかのバレエ用品が売れるようになって素敵なデザインが増えたり、舞台やPVを見る人も増えたり、バレエ業界全体が活性化してきています。
こういうことが、いろんなジャンルで必要なんじゃないかと思うのです。
別にその分野の一流の人になろうとしなくても。
そういう全体のすそ野が広がった中から、いろいろな才能や、思いもしなかった飛躍が生まれていく。
私はそういう社会を豊かな社会だなと思うし、現状の問題を打破する可能性が高まっていくんじゃないかなと考えています。

2021年7月28日水曜日

#今すぐ五輪中止を #五輪やめて命をまもれ

#今すぐ五輪中止を

ひどい状況が次々と現実化していって、心が折れて文章が書けないのですが、
それでも言い続けなければ。

本当にやめましょう、オリンピック。

もうこれ以上、命を危険にさらし、海外の方に苦しみを与えるようなことは、
今すぐやめましょう。

コロナの危険性はもちろんですが、
日本の夏の異常な暑さ、トライアスロン会場のお台場の海の汚さ、
たくさんの人たちがずっと指摘し続けていました。
暑さ対策として時期を変えること、
トライアスロン会場として、海水がきれいで景色もよくアクセスも悪くないルートを提案していた方もいました。
それが、こんな最悪な形で現実化してしまって、本当に辛い。

ずっとずっとたくさんの人が警告し、批判してきたことなのに、
自民党・公明党政権は、何も聞こうとしなかった。

ある時期まで、IOCには期待していました。
今の日本の政権がどんなにひどくても、IOCには国際的な倫理観があり、
こんなひどい現状を訴えれば、即中止や変更を求めてくるはずだ、と。

でも、IOCは聞かなかった。
日本人の7割・8割が反対しても、その声はまともに取り合われなかった。

そして、懸念していたことが現実になってしまった。

もうこれ以上無益な苦しみを増やすのはやめて、今ここでオリンピックをやめましょう。
命をまもりましょう。
努力を重ねてきた海外の選手の心身を傷つけるのをやめましょう。

そして、私が本当に本当に辛いのは、
日本人の選手で「この状況を有利」と認識している人がいること。
これが、私には何よりも辛い。
選手村ではなく、もっとよい施設を使っていることや、
海外の選手が体を慣らしたり十分な練習をすることができない状況で、
そんな状況で試合をして、何になるのか。
恥ずかしくないのか。
こんな卑怯なことをして、恥ずかしくないのか。
こんな不公平な状況で「勝って」、勝ったと言えるのか。
私は恥ずかしい。ただただ恥ずかしい。
人として恥ずかしい。
これをなんとも思わない人たちがいる国の国民であることが恥ずかしい。

日本のおじさんたち、金を持っているおじさんたち、「昭和のおっさん」たちが、
人としてアウトで、この人たちが日本を駄目にしてきたことはわかっている。
この人たちが日本のガンであることはわかっている。

でも、若い、今現役のアスリートたちまでもが、こんな卑怯な人間でいいのか。
そしてそういう卑怯なことをして勝ったことを喜ぶ人たちがいていいのか。
私はこのことが本当に辛い。
こういうことが一番辛い。

人としての公正さを、そもそも持っていない人たちの存在が。


一方で、ワクチンはおろか入院することもできない多くの一般人がいること。
一方で、仕事も住む場所も失った人がいること。
一方で、食べるものがなく、フードバンクに並ぶたくさんの人がいること。

オリンピックのボランティアスタッフ用の食事が、
大量に廃棄されていたことも報道されました。
また、難民申請をした方を追い返してしまったことも。

本当に本当に、人として、社会として、一番大切なものが、丸ごと抜け落ちている。

わかっていたし、わかっていたからこそ、ずっと反対していた。
けれども、現実として目の前に現れると、あまりにもひどすぎて、耐えられなくなる。


それでも、開会式の時にルワンダの選手団が、リンドウの花をもって入場したということをツイッターで知りました。
そのツイッター発信者の方は岩手県の方で、岩手県で合宿をしたルワンダの選手が、
岩手県の花であるリンドウを手にして入場してくれた、と書いていました。
ルワンダは「本当に復興」したんだな、と心から思いました。
ルワンダの大虐殺から本当に復興し、東日本大震災で苦しんだ岩手県に、心を寄せてくださったのだろう、と思いました。

日本政府がうたう偽りの「復興五輪」などというものではなく、
いつか、私達も、このルワンダの選手たちのように、本当に復興しよう。
人間の心を取り戻し、過ちを認め、過ちを繰り返さないように学び、成長して、
もっと良い社会を作ろう。
人として恥ずかしくないように。
私は今、ただただ恥ずかしくて申し訳なくて悲しいけど、
でも、このルワンダの選手の皆さんに、また「復興のお手本」を見せていただき、
決意を新たにすることができました。

岩手県のサイトを見たところ、リンドウの花言葉は、
「あなたの悲しみに寄り添う」「誠実」「正義」
とのことでした。
今の私たちに必要な花ですね。

2021年7月21日水曜日

試してみたらうまく行ったこと

 私、先日初めて円形脱毛症になりました。
というか、気が付いたのがおとといだったのですが、
今日、鍼の治療だったもので、
「私が気が付かなかっただけで前からありましたか?」と先生に聞いたら、
実は2~3週間前からできていたとのことでした。
このひと月あまり、私個人の心の問題と向き合っていたのと、
日本の状況がひどいのとで、「そらまぁ禿げてもおかしくないわ」と思いました。
私もともと髪の量が(ものすごく)多いのと剛毛のくせ毛なので、ほぼほぼ目立たないし、
うっかりあっちこっちにできて整えるのが難しくなったら、
オサレなニット帽編んで「おしゃれしてます」テイストで被ってりゃいいやと思うので、
まぁあんまり気にはしていませんがね。
ただ、自分の心の状態が、認識しているよりも辛い状態であるのなら、
もっと自分の心が楽になるようにしないといけないなぁと思いました。

というわけで、今回はお気楽記事、「試してみたらうまく行ったこと」を書いてみたいと思います。

*******

昨年「忘れられている豊かさ」の記事で書いた、街路樹のヤマモモの実を、
今年は採ることができました。
で、ネットで調べてシロップを作ってみました。


左が採ってきた実、右がシロップ煮。
実は2回採りに行って、左のは2回目に採ってきたもの、右のは1回目の調理済み分です。
(2回目分も今は調理済みです(笑))
これがびっくりするほど美味しくて、まぁ女子が大好きな模範的な「甘酸っぱい」ですわ。
1回目作った時に一緒にホットケーキ焼いたのでのっけて食べてみたら、
これだけで行けました。
パンナコッタとかチーズケーキとかバニラアイスとかの牛乳系スイーツに合いそうだし、
このシロップだけソーダ割にしたり、お酒召しあがる方ならシャンパンとかで割ったりしても絶対おいしそう。
欧米のお菓子のブルーベリーだのラズベリーだのベリー系が占めているポジション、
何でもOKな感じです。
こんな美味しいものをみんな知らないで落ちて腐るに任せているとか、本当にもったいないなぁと思いました。ま、私も昨年まで知らなかったのですが(笑)

1回目採りに行った時は、美味しいかどうかもわからないので、とりあえずビニール袋何枚か持って行って少量採ってみたのですが、この手の果物、手が染まるのね。
昔友達に教えてもらって、桑の実を採って食べたことがあるのですが、その時も盛大に手が染まったのを思い出しました。
そのまま帰ると「何してきたのあの人」状態だったので、近くの商業施設の御手洗いで洗わせていただきました。
2回目の時は、学んでゴム手袋と脚立をもっていったのですが、今度はビニール袋の口が不安定で、こぼれ落ちてしまうという事態が多発。父がバケツ使えとアドバイスくれましたが、今年はこれで終了。また豪雨が来ました。
なので、来年また採りに行くとしたら、ゴム手袋とバケツと脚立持参(笑)
こういうの一人でやるの結構恥ずかしいので、もっとヤマモモの美味しさが知れ渡って、
みんなが楽しみにして採るようになったらいいなと思ったり。
ヤマモモ愛好会的なグループでみんなで採ってスイーツ作るとかも楽しそうと思ったり。
今年はコロナ禍でグループ活動はできないけど、でもこれからの日本、国内のお金かからないもので美味しく楽しいことするの、結構大事と思ったりします。


あと、こんなポーチ編んでみました。


これ、「すてきにハンドメイド」というNHKの番組のテキストに載っていたものです。
最近欠かさず見ている「ソーイング・ビー」の後に放送されているので、
一緒に録画するようになったのですが、裁縫、編み物、刺繍など、いろんなジャンルの手芸を取り上げていて、編み物以外ももう少しできるようになりたいけど教室に通うのは面倒と思っていた私にはちょうど良かった(笑)
で、作ってみたいものがあった時に月刊誌のテキスト買ってみたのですが、
テキストでは放送で取り扱ったもの以外の作品もたくさん掲載されていて、
このポーチもその一つ。案外放送分以外のものの方が素敵だったりすることも多いです。
このポーチは私の好みドンピシャです(死語かしら(笑))

「すてきにハンドメイド」2021年7月号『ラメ糸で編むくるくる留めのポーチ』
Ronique(ろにーく)さんの作品です。
あんまり素敵なので、私にしては珍しく、テキスト通りの糸使ってテキスト通りに作りました。
糸は、横田㈱のダルマブランドの「ニッティングコットン」と「ラメのレース糸」。
私ちょっと驚いたんですけど、「ダルマ」ブランドと言えば、
こう、いかにも「昭和の手芸用品」感あふれるパッケージだったんですが、
近年急に「オサレ」化したようで、突然パッケージから商品から「え~!かわいい!レトロおしゃれ!」に様変わりしていました。
いや、私編み物学校でダルマさんの毛糸用の玉巻器とかせくり器買ったんですが、
まだ「昭和手芸用品」でしたよ、パッケージも色も。
今ダルマさんのサイトで見たら、「昭和の赤色」が「令和のグレー」になってて、
ちょっと驚きましたです。
私が買ったのほんの数年前なんですが(笑)

いや、最近手芸用品メーカー、突如としておしゃれになること多いんですよ。
私が好きな近畿編針㈱さんも、昔はダサダサ(失礼)だったのが、
Seeknitシリーズあたりからだかシンプルおしゃれ路線爆走してます。
この手芸用品おしゃれ化は、チューリップ㈱さんあたりから始まってるんじゃないかと思いますが、かえって最大手(?)のクロバー㈱さんが今一番ダサいみたいな状態になりつつあります。まぁ、クロバーさんの商品はすごく考え尽くされているらしくて、ダサかろうが何だろうがクロバーの製品は安定して使いやすいみたいな評価はあるようですね。

で、ダルマさんですが、超絶おしゃれなブリキの裁縫箱なんてものまで売ってて、
ちょっとあまりに好みで悶え死にそうになりました。
なんか「東京下町の町工場の職人がひとつひとつ手作りで作るブリキの裁縫缶」だそうで、
もう「うっはーたまんねー」案件です。
私知る人ぞ知る「缶フェチ瓶フェチ」でして、好きなんですよ、レトロ缶シンプル缶オサレ缶が(瓶も以下同文)。
裁縫箱はもう何年もDean & Deluca のお菓子詰め合わせの白缶使ってて、裁縫用小物入れにも小さい版の白缶と赤缶使ってるのね。別にお菓子食べたかったんじゃなくて、缶を裁縫箱に使いたくて買ったんです。お菓子がおまけだったんです。私は裁縫箱を3000円出して買ったんですよ、当時(笑)あと針山と糸と小鋏だけ持ち歩くときは(家の中でも)、ニナス紅茶のマリー・アントワネットシリーズ缶使ってます。これも激かわ!サイズも絶妙!
なんですでに超絶かわいい缶たち使っているので、ダルマさんに乗り換えはしないですけどね、今は。
裁ちばさみが入るLサイズ3740円だそうで、今その金額ボーンと出せる立場にないしね。

あ、で、すっかり何の話していたのかわからなくなりました。
ダルマさんの糸使ったポーチ編んだんでした。


このポーチ眼鏡ケースにジャストサイズ。テキストでもサングラス入れてました。
私ずっと目が良かったんですが、さすがに老眼がきたようで針に糸が通らないことが多くなったんで、今年老眼鏡作ったんです。
今すごく安い眼鏡屋さんあるんですね、デザインも多くて若い人向けの。
で、その眼鏡屋さんが無料で眼鏡ケースつけてくださったんですが、まぁとりあえず壊さないために必要だし、気に入った素敵なケース見つけるまで、と思っていたんですが、なんかあんまりいいものが見つからなかったんです。
でもこのポーチはマジ可愛い。速攻で作りました。
私の老眼鏡はシンプルすぎて写真がはっきりしないので、かわりに四半世紀使っているサングラスで写真撮りました(笑)サングラスも通販で買った安物なんですが、形がシンプルで気に入ってるので、海に行くときいつも使っています。ただアジア人の黒い眼には、サングラスあんまり必要じゃないかもしれませんね、正直(笑)ただのカッコつけかも。

グレー&シルバーラメ版もあって、今編んでいます。
こちらはペンケースにしようと思っています。
ずいぶん前に万年筆とシャーペンをお揃いで買った時に(これも3000円くらいの安物ですが)、私が思い描く大人のお道具みたいな感じで、革のペンケース(1本2本しか入らないようなやつ)も買ったのですが、その後いろいろあって編み物学校通い出したら、消しゴムいるわ定規いるわ色鉛筆いるわで、結局無印の黒いナイロンペンケースに落ち着きました。学校行かない時でも図面持ち歩いて描いたりするんで、大人オサレな革のペン刺しの出る幕なし(笑)
このポーチ大きさもしっかりあるし、グレー&シルバーラメだと鉛筆系の汚れも目立たなそうだし、ちょうどいいかも。


ちなみにこの編地、裏側もめっちゃかわいい。
こっちを生かしてもいいなぁと思ったりもするけど、表面強烈にかわいいしなぁ。
これ、かぎ針の引き上げ編を使っているんですが、以前「座布団を編んでみた」でご紹介した「バスケット編の座布団」も、全面引き上げ編。超絶めんどくさくて、もう二度とやるかと思ったんですが、やっぱかわいいですね。すんごい効果的。
まぁバスケット編みの座布団がめんどくさかったのは、引き上げ編が交差されてたからだと思いますけど(さらに長々編だし)。裏面からの操作もあったしね。

もう少し大きく作ってクラッチバッグにしてもカッコいいと思いますが、
私基本大荷物なんで(編み物道具や防寒グッズとかいつも持ってる)、
クラッチバッグ一つでお出かけとかあり得ないですね。
ベージュ&金ラメのクラッチバッグが似合う夏のお呼ばれとかも、ないですしねぇ(笑)
あと、カード類だの多少の現金はともかく、スマホって外出時に常備する道具としてはデカすぎるんだよねぇ。でも今人と会う時って、スマホ必要でしょ何かと。どうしてくれんだと思いますよ、この文化。あ、私はスマホ決済しない派です。する派の方は逆にスマホだけでいいのかもしれません。


なんかお気楽なこと書いていたら楽しくなってきて、文章長くなっちゃたので、
この辺でいったん終わりにします。
「試してみたらうまく行ったこと」まだいくつかあって書きたいので、
後編みたいな感じでまた書きます。

2021年7月18日日曜日

#いまからでも五輪中止を #オリンピックより命を守れ


本日17時から #いまからでも五輪中止を タグでツイデモやっているそうで、
タイトル変更して、タグも追加しました。
東京オリンピックの中止を求めるタグがたくさんありすぎて、
どれを使えば一番効果があるのかよくわかりませんが、
とりあえず目についたもの使っています。
日本でオリンピック中止を求めている人たちとの連携と、
海外の人たちへの呼びかけに。

あらゆる点で、この東京オリンピックをやるべきではない。
この自民党政権下で、何か少しでもまともなことができるわけはない。
「森友・加計・桜(モリ・カケ・サクラ)」で、
いかにこの自民党・公明党政権がめちゃくちゃなことをやっているかが表面化しました。
そのことをずっと糾弾し続けたにも関わらず、
自分たちが圧倒的多数であることを盾に、何一つ向き合おうとせず、
糾弾する野党や市民を嘲笑し続けてきた政権なのだから。

開会式も、MIKIKO氏が担当を続けていたら素敵なものが見れたかもしれないけど、
MIKIKO氏降板の経緯を見ただけでも、
この後に出てくるものをただただ「最悪」の要素を煮詰めたものが現れるだろうとしか
思えなかった。
小山田圭吾の件、「最悪」だけど「この東京オリンピックにふさわしい最悪」として、
驚きはしない。
ただその内容を知ると、やはり心が潰れて、どうしたらいいのかわからなくなる。

本当は、森友学園の事件が明るみになった時に、安倍・菅による自民党政権を終わりにしたかった。
それであれば、東京オリンピックは日本が新しい真っ当な国として立ち上がるための
希望にもなり得た。
自民党政権のままオリンピックをやったところで、良いことが起こる可能性は初めからなかった。
今起こっていることに驚きはしない。
自民党(と、公明党・維新の会)のダメなところが表出しているだけのことで、
そんなのは初めからわかっていた。

この東京オリンピックは中止を訴え続けます。
どなたかもツイートしていたけど、「始まっても中止を訴え続けます」。
「やれば人が死ぬとわかっていてやるのは殺人でしょ」とツイートしていた方もいました。
私もそう思います。
オリンピックをやれば、確実に死ぬ人が出ます。
オリンピック関係者に優先的に医療が提供されること(すでにそれは起こっています)による一般の日本在住者の死(日本に在住していて選挙権を持たない方々も含みます)、
オリンピック選手・関係者として来日した方がコロナに感染しての死、
オリンピック選手・関係者が感染して帰国した場合にその国で起こる感染による死、
ワクチン接種はおろか、ろくな感染防御手段も与えられないままスタッフとして日本全国から集められた人たちも。
人が死にます。
殺人です。
人道に対する罪です。
中止のみが解決策です。

日本だけでなく、すべての国が、
こんな、人命をなんとも思わず、自分の利権だけを考える愚かで強欲なものたちに
蹂躙されてはならない。
これ以上、こんな愚を繰り返してはならない。

日本に限ったことを言えば、
今回「オリンピックを応援の立場」を取ったものたち(団体も個人も)を、
意思決定や権威の立場から徹底的に排除することで、世の中を改善することができる。
本当にわかりやすい分水嶺になった。


個人的には本当に残念だけど、長年ファンで応援していた役者さんも、
今回見限ることになった。
谷原章介さん。
本人の人生の選択だからしょうがない。
スマップ解散の時も、長年のスマップファンがずいぶん反対を表明していて、
「スマップのメンバーだって人間なんだから、彼らの選択をファンの気持ちでどうこうできるもんじゃないだろ」と思っていたけど、
谷原章介の選択も、彼の選択。一ファンにすぎない私がどうこうできることじゃない。
もう15年くらい前、私が舞台公演の現場で制作スタッフとして働いていた当時、
蜷川幸雄版の『あわれ彼女は娼婦』が上演され、三上博史・深津絵里によるジョンとヨーコを模したポスターが話題になっていた(私は忙しすぎてあのチラシをゲットしそびれたことを後悔しています)。
忙しかったので見に行くことはできなかったのですが、どんな感じでやっているのかネットで検索したところ、敵役として谷原章介の写真が出ていた。
私はもともとテレビを観ないので日本の俳優や芸能人をほとんど知らず、
仕事で関わる役者さんも知らない人ばかり(大物含む)という状況だったのですが、
それでも、見てすぐに「この人はすごい」とわかる嗅覚を持っていました(自分が趣味で舞台をやっていたからですが)。
『あわれ彼女は娼婦』の谷原章介の写真を見て、それまでご本人の存在を知らなかったにも関わらず、「あ~この人こういう配役になっちゃうんだよなぁ」と思った。
容姿も実力も飛びぬけているのに、敵役を振られてしまう人(以前の平岳大さんもそう)。
残念でもったいなくて、でも私にはどうしようもないこと。
それが、数年後に映画『ハンサム スーツ』で大ヒットを飛ばした時は、本当に嬉しかった。
その後も一発屋で終わらず、要所要所で素晴らしい演技をしていたのを、私は嬉しく思っていた。
まぁ、一ファンの回想にすぎない。思い出に浸っているだけ。
お子さんたくさんいるようだし、安定した収入がたくさん必要なのでしょう。
つるの剛士は、根っからの腹黒いバカだとしか思わないのでどうでもいいけど、
谷原章介は、うまく泳ぎ切って良い存在でいてほしかった。
しょうがない、個々人の人生の選択は。
しばらく前にブリジッド・バルドーの現在の写真がツイッターに流れてきて、
あの美人の代名詞のように語られていた女性が、頬が垂れた「ブルドッグ」のような顔になっていて、どんなに美しい容貌に生まれついても心が汚れるとそれは表に現れてしまうんだなと悲しくなった。
まぁ、そういうことだ。
谷原章介にはきれいでいてほしかったけど、本人の選択はしょうがない。
消費者金融のCMもやっていたから慣れてしまったのかもしれない。そういうものに。
鈴木一郎(イチロー)は、穢れからうまく距離を置いていると思うけど。


まぁ私個人のファンとしての感傷とかそういうことはどうでもいいけど、
今回のことで、一つ一つのこと、何を選ぶかはっきりしたと思う。
自民党・公明党・維新の会、この政権の利権関係者(電通とか竹中平蔵関連、吉本興業)、オリンピック推進に動いた存在、PCR検査抑制論者、「昭和のオッサン文化」全般、男の資本主義……、一つ一つ「NO」を突き付けていくこと。選ばないこと。

そして、どれだけ嘲笑されようが、正しいことを言い続けてきた人たちは、
日本の中にもたくさんいる。
科学者、医療関係者、政治家、知識人、一般人、分類を問わず、
たくさんの人がずっと正しいことを言い続けてきた。
そういう人を選んでいくこと。

大方の日本人の性質を考えれば、政権が真っ当であれば、
日本はコロナ禍を克服できたと私は今でも思っている。
先日、『町山智弘のアメリカの今を知るTV』で今回のアメリカ独立記念日の様子が放送されていたけど、うらやまし過ぎて泣けてきた。
トランプからバイデンに変わっただけで、この変化。
一方で、前回の『アメリカの今を知るTV』で、共和党の劣化の経緯を見て、
すごく日本の自民党に似ているなと思った。ダメなものを選び続け、自ら劣化を止められなくなるところが。

今、私たちはオリンピックを中止し、自民党政権を終わらせよう。
まずはそれからだ。

2021年7月2日金曜日

期日前投票に行ってきました #都議選2021

先日、東京都議会議員選挙の期日前投票に行ってきました。
私は、オリンピック中止を訴えている日本共産党に投票しました。

#都議選は日本共産党

#五輪よりも命が大切

金を持っているおっさんの都合で動く政治なんか、
何の意味もありません。

こんな社会を変えていこう。
日本を変えていこう。


ツイッター発信者の インドア派キャンパー(@I_hate_camp)さんの
6/29のツイートをご紹介します。



自民・公明を落として10万円×2回もうらおう!
自民党・公明党・維新の会・都民ファーストの会には投票しません。

オリンピックを中止して、命を守ろう。